人格の作られ方

私たちは誰しも、人生という貴重な体験を通して人格が形成されていき、自分とはこういう人物なのだという人物像を持つことになるのです。

その人格形成に欠くことができないのが自分以外の他人の存在です。自分ひとりでいては、決して人物が作られることはありません。

人との係わりによって、人からの反応を受け取ることで自分という存在の肉付けがなされていくのですから。

したがって、もしも人からのフィードバックを上手に受け取ることができないとしたら、私たちの人格が正常に形成されないということが起こります。

たとえば、人からの評価を常に低く見積もってみたり、逆に勝手に高い評価を得られていると自分を騙したりするということです。

前者の場合は、自己評価が低くて自分に自信を持てずにいる人になるでしょうし、後者は現実から目を背ける傲慢な人になるかもしれません。

また極端な例としては、激しい自己防衛の結果、人からのフィードバックを受け付けなくなってしまったとしたら、その人の人格形成は幼児期でストップしてしまうことになってしまうでしょう。

自分だけの能力を信じて、誰の言うことも信じずに防衛し続ければ、その人の人格は幼いままに固定されてしまうのです。

逆に無防備な人は、より多くの人たちからの情報を受け入れることができるので、より豊かな人格が作られていくわけです。

大人になってからでも遅くはありません。自分のワールドの正しさに執着する代わりに、外側にあるさまざまな世界からの情報に耳を傾けることです。

何が正しいかという目の代わりに、何が興味深いかということに意識を向けると、これまで培ってきた情報を度外視して、より多くの味わい深い知見を広めることにつながるはずです。

心理療法の限界を見極める

このブログでも、過去何度かお伝えしているので繰り返しになってしまうのですが、私が行っているような一般的な心理療法には限界があります。

それもとても重要な限界です。それは、そのことに気づかないで続けていると、かえって苦しみを生むことにもなりかねないからです。

それはこういうことです。一刻も早く部屋から出たいと思ったときに、どうするかといえば一直線にドアのところまで歩いていくはずです。

つまり、出たいと思っているその部屋の床を踏みしめながら歩いていくしかないということです。部屋を出るためにはその部屋を利用せざるを得ないのです。

心理療法とはまさにそれと同じものなのです。エゴが作り出す苦しみから解放されたいのであれば、まずはそのエゴを利用しなければならないのです。

エゴの「自分を何とかしたい」という思いを利用して、心理療法を進めていくわけです。けれども、もしもそれを続けていけばどういうことになるのでしょうか?

それは、先ほどの部屋から出ようとする例を使えば、ドアのところまで一直線に進んで行っているように感じながらも、実は部屋の中をグルグル回ってしまうということです。

しっかりとドアを見据えて、部屋の中をあてもなく歩き続けることのないようにしなければなりません。

心理療法もエゴを使ってエゴの苦しみから逃れようとするのですが、その「自分を何とかしたい」という思いそのものがエゴど真ん中であることに気づかねばならないのです。

そのうえで、自己の本質とは何か?ということに目を向けるようにしなければならないのです。部屋を出るときに、ドアノブから目を決してはずすことのないようにするということですね。

親の内在化

学生時代に海外に留学したり、社会人になってからも海外生活の経験をしたことのある人は結構いるものですね。

セッションに来られるクライアントさんにも、相当な割合でそういう方がいらっしゃいます。その多くが親からできるだけ離れたいという思いがあってのことなのです。

勿論、海外へ行く人の全部がそうだということでは決してないのですが、親、あるいや親にまつわる文化、つまり生まれた故郷や日本という国から逃亡したいと強く思うようになる人は多いのです。

冒険心溢れる心で勇猛果敢に未知の国、環境へとみずからチャレンジする人も大勢いるのは知っています。

でもここで言いたいのは、居心地がものすごくいい場所から、わざわざ遠く離れたところに行きたいと、人はあまり思わないということです。

若いうちに、それまで経験したことのない文化の中に入ることはとても新鮮な体験であり、知見を広げるという意味ではすばらしいことです。

けれども、もしもその目的が親の縛りから逃れるためであるなら、ほとんど無駄なことだと知ることです。

なぜなら、人は幼年期の時代に親の内在化というのを心理的に行ってしまうからです。つまり、親が自分に働きかけてきたのと同じ働きをする意識を自分の心の中に作ってしまうのです。

したがって、たとえ地球の裏側に行ったとしても、親が自分を見張り、コントロールしてきたのと同じ意識が自分自身と一緒にくっついてきてしまうために、それから逃れることはできないのです。

海外留学、海外生活というと何となく聞こえはいいですが、ある意味逃亡生活でもあるということに気づく必要があります。

それは都合の悪いことから目を背けて生きるということであり、それこそが自己犠牲や苦悩の大元である自己防衛なのですから。

境界例について

かつて、精神的な病というのは大きく二種類に分けられていました。一つは、神経症と言われるものであり、もう一つはいわゆる精神病といわれるものです。

それが、数十年前くらいからそのどちらでもない、あるいはその両者のちょうど中間的な精神疾患が存在するということが分かってきたのです。

それは、神経症と精神病の境界に位置する事例ということで、境界例と言われるようになりました(現在では、○○パーソナリティ障害と呼ばれています)。なぜそれまで境界例ははっきりとは知られずにいたのでしょうか?

それは、神経症の場合は本人に自覚があるため、本人が病院を訪れるのです。精神病は周りの人たちから明確に認識できるほど症状が分かりやすいため、周りから病院に連れて行かれることができたのです。

けれども、境界例の場合は本人の自覚がないばかりでなく、他人からもその異常さが発見されにくいという特徴があるのです。

あまり親密なお付き合いをしていない他人からは、ちょっと変わった人、困った人というくらいに捉えられることも多いのです。

本当に気づけるのは身近にいる家族か、深く付き合った人だけなのです。家族もそれを病気とは見なさずに、そういう性格だから仕方ないというように扱っていたのです。

だから長い間、医療の対象として発見されずに来てしまったわけです。でも境界例の人は予想をはるかに越えるくらいに沢山いらっしゃることが分かっています。

今だに病院の診察を受けずにいる境界例の人たちは、きっと大勢いらっしゃるに違いありません。そしてまた、残念なことに境界例はよくなるのが難しいと言われています。

勿論境界例も多岐に渡っているために、単純に一括りにできるようなものではありません。神経症に近い場合もあれば、統合失調症のような精神病に近いこともあります。

もしも家族の中にそれに該当するような症状を持った方がいるなら、見て見ぬ振りなどできないはずです。

家族の誰かはそこから逃げようとするでしょうし、また誰かが犠牲になってしまうこともあるかもしれません。いずれにしても、簡単な話しではないことは確かです。

なぜなら、境界例の人たちの特徴として、自分以外の誰かを巻き込む傾向が強いのです。家族の誰も犠牲にならないようにしながら、恐怖に負けないように対応することができるといいと思いますね。

OKしか出すことができない

自分の心がどんなふうになっているのかということについて、客観的な理解を深めていけると、それをそのまま周りの人の心にも当てはめて見ることができるようになります。

そうなると、それまで感情に振り回されてばかりいたのに、少しずつそういう自分にOKを出すことができるようになるのです。

さらには、否定せざるを得なかった周囲の人に対しても、深いところではOKしか出せないということにも気づいていくのです。

私たちが自分や他人のことを否定するときには、必ずその言動に対しての裁きが元になっているのです。

評価や判断の対象は、言動であり、それをやっている張本人は思考なのです。思考は判断して裁くことが仕事なのです。

けれども、愛の対象は言動ではなく、自分や相手の存在なのです。存在を思考で判断することは不可能なことです。

だから思考は常に存在を見損なうのです。一方愛は存在のみに目が行くので、OK以外を出すことができないのです。

自分の心を理解し、そこから逃げずにいられるようになると、思考はたちどころに機能不全となってしまうのです。

そうやって、自動的に愛の目が復活するということです。そうしたら、すべてにOKを出すことしかできないということに気づくのですね。

思考と共に戯れる

今日も大好きなサウナでボーっとした意識の中で、緩い思考が動いていたのですが、そのときに考えていたのが「自分」という思考の発明についてです。

全体性という真実において、自他の区別をするということは途方もなくびっくりするような発明なのではないかと思うのです。

どうやって、全体性から自他の区別ができる個別性を見つけ出したのでしょうか?それはもう不思議としかいいようがありません。

何の答えにもなってはいないのですが、実は思考こそが個別性なのではないかとも考えることができます。

なぜなら、全体性を思考することはできないからです。思考には、全体性という真実についての明確な解明は不可能なのです。

サウナの中では、実はもっともっとこの先が続いていたのですが、もう忘れてしまいました。結局、思考は思考自身をもてあそんでいるだけなのですね。

それはまさしく、この世界についても言えることです。思考が人生という物語を作り出して盛んにプレイし続けているのですから。

天は遊ぶことが好きなのかもしれません。それなら、私たちもそれぞれの人生を存分に楽しんだらいいのでしょうね。

どんな状況がやってこようと、それを心から楽しむことができるはずです。もしもとても楽しめないという状況がやってきたら、それ自体を楽しめばいいのですから。

セラピストとクライアントさんの関係

セラピストという商売は、嫌われてナンボ、否定されたり憎まれたりするのはある程度やむをえないという側面がどうしてもあるのです。

誰だって、否定されるよりも肯定されたいですし、嫌われるよりも好かれたいのが本音です。セラピストとクライアントさんの関係が良好であることは、必要不可欠の前提です。

けれども、そうなるように努めるだけでは残念ながら100点満点とは行かないのです。なぜなら、セラピストはクライアントさんにとって都合の悪いことに自ら気づいてもらう必要があるからです。

耳障りのいいことばかり言って、ただただクライアントさんの言葉に耳を傾けて深い共感的態度でいればいいのではありません。

クライアントさんの苦しみの原因の多くは、元をただせば自分が惨めだという間違った思いから目を背けようとし続けることからくるのです。

したがって、ずっと避けてきたその惨めな思いへと何とかして誘導しなければなりません。クライアントさんは、それでも自己防衛システムを駆使してそこから逃げようとします。

けれども、追い詰められてそのもっとも見たくない自分の姿を見せ付けられるとき、セラピストに傷つけられたと感じるとしても、それは当然のことなのです。

クライアントさんはそのとき、セラピストに対して攻撃的な態度に出るかもしれませんし、セッションでは黙っていて後で何かの形で敵討ちするかもしれません。

もちろん、そうなることを望んでいるわけでは決してないのですが、残念ながらセラピストを切り捨ててしまうケースもあるのでしょう。

場合によっては限られた予算の中で、高額なセッションにいらっしゃるクライアントさんの気持ちを考えたら、悠長にいずれ気づいてもらえればいいなどとは言ってられなくなるのです。

良好な関係を保ちつつ、クライアントさんがセッションで痛いところを突かれたと肯定的に感じられるなら、それがベストなのでしょうね。

「人生は物語」という視点

私のモットーの一つに、「人生は物語である」というのがあります。ですから、セッションのときにも時々はそのことについて触れるのです。

けれども、その言葉の本質を見抜くことができないと、非常に反発を感じてしまう言葉であることも理解しています。

それは、たとえば必死に生きてきた人、逆境に耐えながら血の滲むような苦労をしながら生きている人にとっては、不真面目な印象を与える言葉なのだと思うのです。

軽はずみな言葉のように聞こえてしまうのは無理もないことです。でも、人生が物語りだということは、決してそういうニュアンスのことではありません。

誰もが映画やテレビなどで、さまざまな物語を観る機会があるはずです。そのときに、あまり気が乗らない内容なら、つまらない時間をすごしたことになりますね。

逆に、自分がそれを観ていることすら忘れてしまうくらいに、のめり込んでしまえるときには、その映画やドラマをまるで自分のことのように感じているわけです。

だから、観終わったときにはいい時間を過ごせたなという感想を持てるのです。けっして物語だからといい加減な気持ちで観ていたわけではありませんね。

深刻さはないものの、真剣に観ていたということです。この「深刻さのない真剣さ」でいることを表現した言葉が、人生は物語であるということなのです。

満ち足りた人生を生きるためには、逃げずにしっかりと人生と向き合う必要があります。これが、真剣さです。

その一方で、恐れに負けずになるべく無防備に生きるためには、深刻さがもっとも邪魔になるのです。

自分の人生も含めてこの世界全体が物語りであるという視点、それは何からも逃げずにまんまを感じきる生き方を指しているのです。

すべては御心のままに

ここだけの話しですが、心の癒しはどんなにすぐれたセラピストのところへ通っても、どれほど真面目に言われたことを実践したところで、自分が思ったようには進んでいかないものです。

いくら頑張っても、何も変わらないじゃないかと怒りを覚えることもあるかもしれませんし、その逆に気が付いたら何だか楽になっていたということもあるのです。

実のところ、癒しは向こうからやってくるものです。自分の力で前へ進めていけるものと思っているとしたら、それは人間の驕りです。

癒しに限らず、人生がどうなっていくのかということは、100%神の意志に委ねられているものです。そのことを、すべては神の御心のままに、というのですね。

だからといって、じゃあ何もせずにただ寝そべっていればいいのかというと、そんなことはありません。自分にできることは精一杯するのです。

その上で、どんな結果になるかは神の御心のままであるということを忘れないということです。このことを忘れてしまうと、私たちは苦悩することになります。

なぜなら、自分のコントロールどおりになど人生は決して推移してはくれないものだからです。エゴは上手に、思い通りの人生を手に入れられると錯覚する作戦を取ることがあります。

でもそれも一時的なことです。そのことにほだされることなく、人生を物語として見ることのできる視点を育てることです。

その視点こそ、過去や未来といった思考に翻弄されずに、その時々のありのままの自分にOKを出せる成熟した大人の意識なのです。

自己否定感を受け入れる その2

誰だって自分自身を否定したまま、生きていくのはとても辛く苦しいことです。だから、是が非でも自己否定を止めなければならないと思ってしまうのです。

そうして、自分を愛するにはどうしたらいいのかということを考え出すわけです。いろいろな本を読んで勉強して自己愛を育てるにはどうすればいいかなどを試したりするのです。

けれども、そうしたことがあまり効果が出ないのも無理のないことなのです。なぜなら、自分を否定していることを否定してしまっているからです。

自己否定の気持ちを変えようとして、その気持ちそれ自体について深く見つめたり、しっかり感じてあげることをしないのです。

もともと自己否定は、受け止めてもらえない自分には価値がない、いなくてもいい子なんだという間違った思い込みが原因なのです。

だから、自己否定を否定していては、幼いころに受けた傷口を自分でさらに大きくしてしまうことになるのです。

そのことにしっかりと気づくことがどうしても必要です。自己否定をせざるをないでいた幼い自分の気持ちを受け止めてあげることです。

自己肯定とは、自己否定も含めてOKを出せる気持ちになることをいうのです。自己否定をやめて自己肯定にするのではありません。

誰しも自己否定していますし、そんなことは当たり前のことです。自己否定したっていいじゃないですか。どんな自分であろうと、丸ごと抱きしめてあげてください。

そうしたら、それと同じことを自分以外の人にもやってあげることができるようになり、自己否定のことなど忘れてしまうかもしれません。