「これって嘘だろう!」というあの感覚

それは、子供のときに頻繁にやってきたものでした。何か、夢から醒めたときのような感覚と言えばいいのか、自分の理性がおかしくなったわけではないのに、不思議を感じているのです。

記憶では、家の中にいるときよりも友達と遊んでいるときとか、誰かと一緒にいてふつうに過ごしているその瞬間に、突然それはやってきました。

どう説明すればいいのかも分からなかったので、そのことをリアルタイムで誰かに伝えたことはきっとなかったと思います。それは決していい気持ちではありませんでしたね。

どちらかというと、それまで体験していたことが中断されるような、すべてを疑ってかかるような感覚なのかもしれません。「これって…??」というような感じ。

それを明確に感じている時間は、とても短いというか、誰かがそばにいるので打ち消してしまうことで、すぐになくなってしまったのかもしれません。

そして、今までの流れの中に戻っていったのです。ちょうど動画を観ているときに、一時停止ボタンを押した時のように一瞬止まる感覚があるのですが、すぐに再生ボタンが押されるのです。

その瞬間は、必ずすべての音が消えてしまいます。正確に言えば、消えるというよりも音を聞かないモードに入ったというようなものかもしれません。

大人になってからもたまに、「自分がここにいるって何だろう?」とか、「この世界があるって何?」のような感覚になることがありました。

そして今では、あれほどに強いインパクトはないものの、実は自分で明示的にそれに近いものを感じることができるようになりました。

音はずっと聞こえていますが、音のない世界を同時に聞いています。この世界を見ていると同時に、この世界の存在を可能にする見えない土台を見ています。

そしてそれこそが、私たちの本質だったとはね。とはいうものの、ごくありふれた日常はもうしばらく続いていくのかもしれませんので、どちらも同時に楽しむことにしようと思います。

暗黙の共通感覚について

以前、大阪市長の橋下さんが、「ふわっとした民意」という言葉を使ったことがありました。ものすごく的を得た表現だなと思ったのを覚えています。

私たちは、互いに示し合わせたわけでもないのに、何となく伝わる暗黙の共通感覚というものを持っていますね。それは、非常に微妙なものです。

育った国が異なってもその共通感覚を持つことはできないし、同じ日本人同士でも地元が異なったり、世代が違うだけでも共通感覚は薄れていってしまいます。

私たちは、ほとんど自覚することなしに、その暗黙の共通感覚を使って、他人とのコミュニケーションをしているのです。もしも、それが欠けていたりすると、対人関係に不安を感じるはずです。

なぜなら、自分はこう感じているのだけれど、他のみんなは一体どう感じているのだろうと、いつもいつも疑問になってしまうからです。

自分の感覚や気持ち、意見や主張に常に自信を持つことができないのですから、人との付き合いに不自由な思いをすることになってしまいます。

過敏気質で産まれた人が、成長段階で自己表現を十分にしてこなかったりすると、その暗黙の共通感覚というものを身に着ける大切な機会を逃してしまうのです。

そういう人が大人になると、他人との適当な距離感をつかむことができなくなったり、心を開いて他人とコミュニケーションをとることが非常に不得手となるのです。

もしもこうしたことに心当たりがあると感じるのでしたら、理性による努力をいくらしてもなかなか解決しないということに気づくことです。

自分が日々行っている自己防衛に気づき、少しずつ無防備さを身に着けていくことに意識を向けることです。そうした心の癒しによって、徐々にですが人を恐れる気持ちが和らいだ先に、共通感覚が身に付くチャンスがあるのです。

感情が感情を抑圧する

昔から、「泣く子も黙る」という言葉がありますね。ネットで意味を調べてみると、「わがままを言って泣いている子供も泣くのをやめるほど,恐ろしい存在であることのたとえ。」とあります。

つまり、何か気に入らないという怒りの感情などで泣いていた子が、何かの恐怖によってその怒りの感情が抑えられてしまうことがあるということです。

元々怖いという感情は、動物的な防衛本能によって生み出されるものであるため、生命の存続がかかっているわけですから、それ以外の何よりも優先されるという性質を持っているのです。

だから、怒りよりも恐怖が優先されるために、それまで表面化していた怒りが恐怖によって抑え込まれるのです。怒りながら、大きな恐怖を感じるということはなかなか難しいわけです。

怒りだけではなく、淋しさ、つまり孤独感でも、悲しみであっても、とりあえず恐怖の前ではすべて影を潜めてしまいます。それだけ、恐怖は最優先されるものなのですね。

また怒りを抑圧してしまう可能性のある感情は、恐怖だけではありません。例えば、罪悪感をイメージしてみて下さい。どれほど、相手に怒りを感じていたとしても、自分が悪かったと感じたら、その怒りは萎えてしまうでしょう。

罪悪感、自己嫌悪感、自己否定感、どれも自分を責める感情ですが、怒りを抑圧してしまう力を持っています。そしてもう一つ、怒りを抑圧する感情があります。

それは、感情というよりも気持ちと言った方がいいのですが、「可哀想」という思いが強くなると、その可哀想な相手に向かっていた怒りはやはり抑え込まれるのです。

私たちは、可哀想な相手を攻撃することはできません。この「可哀想」という気持ちは、実は罪悪感と奥でリンクしているのです。可哀想な相手を救ってあげられない自分への罪悪感です。

だからこそ、罪悪感が怒りを抑えるのと同様の効果が可哀想という気持ちにもあるわけです。癒しにとって大切なことは、どんな感情であろうとそれを丸ごと見て、無防備に感じきるということです。

強い恐怖感や罪悪感が心の中に残っていると、それ以外の感情を感じにくいようにされてしまうため、まんべんなく感情を味わうことが難しくなる傾向があるのです。

そうしたことを知りつつ、なるべくあらゆる感情をありのままに感じてあげられるように、工夫することが大切です。とくに、多くの人から嫌われている「怒り」は、じっくりと腰を据えて見てあげられるといいと思います。

自分を楽しむ人生を生きる

どうせ寿命が尽きるまで生きるのでしたら、辛い人生よりも楽しい人生の方がいいに決まっていますね。楽しい人生と聞いて、どんなイメージが浮かんでくるでしょうか?

自分の身の周りに楽しいことがいっぱいやってきて、自分を楽しませてくれるというのもあるでしょうし、自分から人生を楽しむために積極的に行動するというのもあるでしょうね。

けれども、楽しい人生というのはそれだけではありません。自分そのものを楽しむということで、楽しい人生を生きるということもあるのです。

自分を楽しむというのは、どういうことでしょうか?それは、自分の人生に起きたことを楽しむというよりも、起きたことに自分がどう反応しているのかということを楽しむということなのです。

自分という一人の人物は、毎日毎日起きる事象に対して、様々な反応をし続けているわけですが、その反応がどんなものであったとしても、それを思い切り面白がるということです。

私たちは、映画やテレビ番組で、愉快で楽しい物語ばかりを観るわけではないですね。とても悲惨で苦しい物語や、場合によっては身の毛もよだつホラー映画を観て楽しみます。

なぜ、悲しんだり怖がったりすることを楽しめるのでしょうか?それは勿論、自分という人物が安全にその物語を観ているということを知っているからです。

それと同じように、自分の人生を一つの長編物語ととらえることができるなら、自分の本質は決して傷つくことがないということに信頼を置けるなら、人物としての自分のどんな反応にも面白がることができるのです。

その視点に立つと、一つの人生を生きている人物としての自分のことを、お笑いのネタとして見ることさえできるようになるかもしれません。

大泣きしても、激怒しても、絶望しても、恐怖のあまり何もできなくなったとしても、それはすべてお笑いのネタとして使えるようなものだと気づくことができるのです。

あなたは、自分が生きてきたどの場面の自分に対しても、お笑いのネタとして笑ってあげることができるでしょうか?もっとも滑稽なのは、これ以上ないというくらいに深刻な表情をしている自分を思い出すときです。

あるいは、被害者面して周りに文句を言い続けている自分の姿はとにかく笑えますね。幼いころの自分は、本当に微笑ましくて笑ってしまうのです。

自分を笑うというのは、決して軽蔑や見下しではなくて、愛そのものだと思うのです。自分を笑ってあげることで、自分を楽しむ、自分のことを面白がる人生を生きることができるのです。

人の心は余裕がなくなると自閉する

2~3週間前に三鷹の女子高生が殺されるというショッキングな事件がありましたね。フェイスブックで知り合った男性との別れ話がこじれた末の事件だと聞いています。

犯人の男性は別れることを受け入れることができずに、好きが一転して憎悪になった典型的な事例だと思います。この男性の心理状態はある種のストーカー的な要素が強いのだろうと感じます。

ストーカーの心理の特徴は、自分の感情に翻弄されるあまりに、相手の気持ちにブロックをかけて、つまり自閉することで相手の気持ちを感じないようにするのです。

こうなると、気持ちは常に一方通行であり、相互に分かりあうということができなくなってしまいます。自分の言い分ばかりが強くなり、相手の気持ちを見る余裕がまったくなくなってしまうのです。

こうしたことは何も特別なことではなくて、私たちの心の中にも日常的に起きることがよくあります。たとえば、お世話になった相手に感謝の気持ちを伝えたいというのは、ごく普通の感覚ですね。

けれども、相手がそれを望んでいないということを考えることができなくなると、感謝の気持ちを伝えたいということだけが独り歩きして、それが何か双方にとっていいことだと考え始めるのです。

感謝の気持ちを伝えたら、自分も気持ちいいし、それを伝えられた相手も心地いいだろうと勝手な判断を下すようになってしまうのです。

これは、別れて欲しいと言っている相手に、自分は相手を好きで一緒にいたいのだから、相手だってそうに違いないと都合のいいように解釈をするのと同じです。

このように人の心というのは、余裕がなくなると自閉して自分の気持ちが邪魔されないようにするものなのです。それが、ストーカーの心理なのです。

それがいかにおとなげないことか、つまり子供の意識に乗っ取られているのかを冷静に見てあげる必要があります。自分を観照することによって、気づくことができるはずです。

すべての自分が嫌いな人に告ぐ

自分自身のことを嫌いと言って、はばからない人がいます。そんな人に、自分のどこか嫌いなのかと聞いてみると、大抵が返答に困ったりしています。

最後には、何が嫌いというのではなく、全部が嫌いだということになるのです。それを、分かりやすい言葉で表現すれば、自分の存在を嫌っているということなのです。

それは、本当は好き嫌いということではなく、存在否定をしているということなのですね。存在否定というと、何だか固い表現ですが、分かりやすく言えば自分が自分のままで、ここにいていいとは思っていないということです。

本来、存在というものは評価の対象にはなり得ません。したがって、存在を否定するということは不可能なことなのですが、そこを無理やりに否定することで最低の評価を与えているわけです。

初めて人が、自分の存在否定をするのは、100%幼いときです。そして、存在否定をしながら人生を続けていくのは到底耐えられません。そのために、存在否定していることを隠そうとします。

そして、自分という存在は価値があるのだということを証明しようと躍起になる人生がスタートするのです。それは、もう毎日が頑張って人からの高評価を得ようとする人生となるのです。

自分本来の好みや正直な自己主張などを隠しながら、周りの人の期待に応えられるようにと努力するのですから、自己犠牲を気づかぬうちに積み上げていくことになるのです。

その蓄積された自己犠牲は、必ずや怒りという感情へと変貌して心の中にたまり続けるのです。その怒りは、いつか解放されようとして本人が怒るチャンスを狙っているのです。

もしもあなたが、自分のことを嫌いと感じているのなら、それはあなたが自分自身に関心を持っている証拠です。自分に興味がなければ、嫌うことすらしないはずだからです。

嫌いは、反転させればあっという間に好きに変化することができます。だから、好きでも嫌いでもどちらでも同じことなのです。本当に大切なことは、どんな自分であろうとも、それを丸ごと否定せずに見続ける勇気を持つことです。

もしもそれができたなら、勇気などいらなかったということにも気づくことになります。あなたという人物は、本当のあなたではありません。かりそめの姿でしかないのですから。

ショックを癒す力を最大限引き出す方法

今乗っている小さなクルマの前の前のクルマは、IT関連のアメリカのベンチャー企業で働いていた頃、つまり超羽振りのいい頃に買った2シーターのスポーツ車だったのです。

ボクシングの選手がチャンピオンになって、あこがれのスーパーカーを買ってご満悦の図ってあるじゃないですか。多少レベルは違いますが、あんな感じを想像していただければ察しがつくと思います。

そのクルマをマンションの地下駐車場に停めようとして、不用意にセメントむき出しの壁にぶつけてしまったことがあったのです。

その瞬間、夢であって欲しいと咄嗟に思ったし、できることなら10秒でいいから時間を巻き戻したいと思ったのを覚えています。

やっちまったな、っていうあの感覚ですね。こういう体験というのは、できることならば体験したくないと思うのは当り前です。無駄な出費と大切にしているものに傷をつけてしまったという、何ともいやな感じが残るのですから。

けれども、今そのことをいくら詳細に思い出してみても、別にどうということはないのです。つまり、あの当時としてはいやな体験だったものが、今では何とも感じなくなっているのです。

時間が癒してくれると人はよく言いますが、まさにそれなのかもしれません。逆に、その体験をしたことで、その後別のクルマを傷つけてもあまり動じなくなったということがあるくらいです。

誰だって、経験したくないこと、体験しなくて済むものなら体験したくないと思うようなことはたくさんあります。大切な人を失うとか、会社が倒産して露頭に迷うとか、重篤な病気に罹るなどなど。

クルマをぶつけたことなど、吹っ飛んでしまうくらいのショックな体験というのは、人生にはいくらでもあるはずです。けれどもどんな体験をしようと、私たち人間の能力としてそのショックを癒す力を誰もが持っているように思うのです。

その能力を最大限使うためには、何かを体験したときにやってくる心のあらゆる反応をできるだけ自分に直面させてあげることなのです。逃げずに、すべてを無防備に見てあげること。

そうすれば、癒しは最短でやってくることになるはずです。

あなたの人生をあなたの本質に捧げる

最近よく思うのですが、私の本質は私という人物を通して、あらゆることを貪欲に感じたいんだろうなということです。体験したくてうずうずしているのだろうと思うのです。

心に浮かんだあらゆる思い、想念、そしてすべての感情などを味わい尽くしたいのです。そのための出先機関として、自分という人物が使われているのです。

その体験の中には、味わうことから逃げて逃げて逃げまくる体験も勿論含まれているはずです。逃げるという体験は、すべての人の中で日夜行われている自己防衛のことです。

それはあらゆる感情を感じないようにして、何事もなかったかのように生きることで体験することができます。けれども、自己防衛の体験はたかが知れています。

それは体験を極端に制限することになってしまうため、結局は私の本質にとっては好ましいことではないはずです。逃げずにいることで、あらゆる体験を隅々まで経験することができるのですから。

そういう意味では、誰もがその人の本質にあらゆる体験をプレゼントできるようになるといいなと思うのです。それは、動物としての本能にすら逆らうことになるかもしれません。

たとえあなたの人生が、あなたの望んだものとは違うものであったとしても、あなたは本質のためにそれから逃げずにいてあげることで、それは十分にあなたの人生の体験を堪能することができるのです。

あなたがこの社会に貢献していないと感じていても、問題はありません。その体験をあなたの本質にさせてあげているのですから。生まれてきた理由はそこにあると気づけばいいのです。

あなたの本質は、あなたの人生を体験すると同時に、他の地球上の70億人分の人生も体験している欲張りものなのです。だから、ひとりとして同じ人生を体験することはないようにできているのです。

あなたは何もせずとも、ただ一息呼吸するだけでもあなたの本質は満足しているのです。あなたの人生をあなたの本質に捧げてあげられるといいですね。

究極の一人称という真理

私たちが普段頼りにしている知覚によっては、一人称を認識することができません。知覚の能力とは、分離の世界において自己とは分離した他(対象物)を認識するためだけに、使われるからです。

つまり、知覚によって真理を認識したり、それに気づいたりすることは不可能なことなのです。肉体の目を使って、何も無さを見ることはできません。

肉体の耳を使って、静寂そのものを聞くこともできないのはご存じのとおりです。残念ながら、私たちのイメージ能力も知覚がベースとなっているため、真理をイメージすることもできないということになります。

知覚もイメージ能力も使えないところ、それがつまり一人称なのです。それこそが、真理へと繋がる唯一の道だと言ってもいいかもしれません。

真理への道、それは一人称である自己を見ようとすることです。見る方向を日常とは真逆にして、自分の方向へとどこまでも見続けるのです。

そこにこそ、知覚を越えた何もなさが広がっています。それに気づくことができるでしょうか?もしも気づけないとしても構いません。それは能力の問題ではなくて、人間のあなたが気づきの邪魔をしているだけです。

逆にもしも、あなたがそれに気づいたとしても、奢ることはできません。なぜなら、その広大な何も無さに気づているのは、人物としてのあなたではないからです。

私たちは、たとえ自分がつまらない一人の人間だとしても、修行を積めば真理に気づけると思っています。けれども、真理に気づくのは決して私たち人間ではなく、真理そのものなのです。

私たちにできることは、所詮自分を少しでも向上させようとすることか、あるいはそれこそが真理から遠ざかる最大の要因だと気づくことくらいなのです。

私の身体が朽ち果てて、みなさんの知覚によって私が死んだことになったとしても、私という究極の一人称においては、今あるがままの真理が永遠に続くだけなのです。

潔い亡くなり方

2~3週間前のことですが、いつもスポーツクラブで朝お見かけするお爺さんが亡くなったのです。そのつい2日前にも、何気ない会話をしたばっかりだったのに。

朝一の常連の方々は、みなさんそれなりにびっくりしたのは勿論ですが、それでもどこかさっぱりしているというのか、とりたてて悲しむということもないのです。

私自身も、その人がサウナを利用されない方だったので、それほどお話しすることもなかったのですが、ほぼ毎日お顔を拝見していたので、ああもうお会いできないのだなという気持ちにはなりました。

大動脈瘤破裂だということを聞いて、あっという間に亡くなったのだと分かって、かえって潔い亡くなり方だなとも感じたのです。

ご本人は、以前にも一度同じ病気をされたことがあったそうで、検査のときに大きな病院で精密検査を受けるように再三言われていたのを、面倒だといって放っておいたとも聞いています。

実際、やはり朝毎日のようにお会いする老齢の紳士が、「大往生だあ!」と何度も繰り返していたのが印象的です。私も同じ気持ちでしたので。

勿論、ご家族の方々の気持ちと単なる顔見知りの私たちの感覚には、当然のことながら違いがあるのでしょうけれども、それでも何か本当に潔い感じがするのです。

私も死ぬときには、そのような死に方がいいなと密かに思っています。死んでいなくなって、悲しいと思われるよりも、周りの人たちの心が清々しい方がいいと思うのです。

プールの受付のやさしそうな女性に、「○○さん亡くなったの知ってる?」と伝えたら、びっくりして涙ぐんでいたようですが、それでも次の日からは何も変わらないいつものプールの風景が戻っていました。

そんなのがいいですね。自分が死んだ後も、誰かの心の中に強く記憶として残っているとかいうの、あまり好ましいとは思いません。

どちらといえば、完全に存在を忘れ去れたほうがいいようにさえ思います。いなくなったものは、いないのですからそれが一番いいのです。

この自分が完全に消滅したときには、間違いなく真実の自己の姿が現れるはずです。それもまた、楽しみでもありますね。