人生を友達にする

毎朝プールで泳いでいるのに、その日によって何となく上手く泳げてないと感じるときがあります。そんな時、身体に水がまとわりついてきて、それに手こずっているような感覚があるのです。

言わば、水と戦っているということなのですね。ところが、不思議なもので、気持ちよくスイスイ泳げる日というのは、どこかで「水はお友達」という感覚になっているのです。

私たちは、自分の味方と一緒のときには居心地がよくて、敵といるときにはその逆の気持ちになるものですね。それは、敵といるときにはそれだけ防衛が強くなるので、当然のことなのです。

つまり、「水はお友達」という感じのときには、味方と一緒なので余分な力が身体に入っていない状態であって、リラックスして泳いでいるので、スムーズなのですね。

水泳に限らず、どんなことにもこのことは言えると思います。たとえば、カードマジックを練習している時、それを楽しんでいると次第にトランプが自分の手に馴染んでくる感覚があるのです。

それは、「カードはお友達」状態になることを意味します。一方、いくら練習してもうまくできないなあと気分が落ちているときには、カードに翻弄されている気持ちになるものです。

その時には、カードと戦っている気になってしまっているのです。だからよけいに上手くできなくなってしまうのです。そんな時には、一旦休憩をとって気持ちを新たにして、再度友達と楽しい時間を過ごすつもりになってみるのです。

さっきまで失敗ばかりしていたのに、なぜか上手にできるようになっていたりするものです。こうしたことは、人生そのものについても言えるのではないかと思います。

あなたは、自分の人生と戦っていますか?それとも、人生は友達だと感じているでしょうか?その差は、もう分かりますね。どちらを選ぶかは、すべてあなた次第です。

人生を友達につけた人は、きっと流れがスムーズになっていくはずですね。

放っておいてもいいことは起きる

今年に入って、突然のように睡眠時間が短くなったと同時に、早寝早起きになってしまいました。実は、年明け早々から、寝てもすぐに目が覚めてしまうということが続いていて、困っていたのです。

今それはなくなったのですが、それをきっかけにしてか、朝とても早い時間にどうしても目が覚めてしまうようになったのです。そして、気分がとてもすっきりしているので、もう寝る必要を感じないのです。

結局、朝非常に早くに目覚めてしまうため、夜はすぐに眠くなってしまって、早い時間から寝てしまうようになってしまったのです。結果として、期せずして早寝早起きになったというわけです。

人にこのことを話すと、間違いなく加齢のせいだろうと言うのです。自分ではどうも納得したくないのですが、でも他に思いつく理由もないので、仕方なくその説を採用することにしました。

で、何が言いたいかというと、実は長い間生きてきて、もっとも苦手なことの一つとして「朝起きる」というのがあったのですが、それが消えてしまったのです。

朝の寝起きがずっと悪くて、夜寝るときにもこのまま朝が来なければ楽なのにといつも思うくらいでした。特に、寒い冬の朝などは、オーバーかもしれませんが、拷問のような気さえしていたのです。

それが、綺麗さっぱりなくなってしまったのです。目覚めたときには、とても爽快で全く眠気が残ってないのです。異常なほど、早い時間に目覚めてしまうくせにです…。

長い間生きていると、こうしていいことも起きるのですね。それも、何の努力も必要とせずにです。それと、もう一ついいことが起きています。

それは、子供の頃から内臓が弱くて、時々ひどい腹痛になることがあったのですが、それもすっかり消えてしまったのです。ある時から、毎朝ヨーグルトを食べるようにしたからです。

それも結構な量を食べるようにしたのですが、その結果、便通がよくなり腹痛が起きなくなってしまったのです。自分にとって、とても嫌だった二つのことが消えた今、何だかとてもふわっとした幸福感に包まれています。

人生、捨てたもんじゃないですね!でも本当にこの人生に感謝するとしたら、それはやはり自分の本質に気づいたことです。

今では、この人生を生きていると同時に、そうした自覚を持つ自分を見ている側に回ってもいるのです。この感覚は、かけがえのないものですね。

そして、これは誰の身にも起きることです。なぜなら、それこそがこの宇宙の目的だからです。この宇宙には、私しかいないし、あなたしかいないのです!

親への不満を正直に見る

子供というものは、必ず親に対して不満を持っているものです。それが、どれほどすばらしい親に育てられようとです。それは、全く別人格の人間どうしが密着して生活しているのですから。

親の考え方や価値観、あるいは信念、信条といった親のワールドと、子供のそれらとは同じであるほうが珍しいくらいです。これは、当然のことですね。

それなのに、クライアントさんによってはごく稀に、ご両親に対してまったく不満がないという認識を持って生活されている場合があるのです。

私は、セッションでそうしたお話しを聞いた瞬間に、何かがおかしいと感じてしまうのです。親がどんなに立派な人物であろうと、理論的にも現実的にも子供は必ず不満があるはずだからです。

そうした場合には、クライアントさんの心の奥に隠された本音の部分、つまり本当は親に対して訴えたい文句がある、ということに気づいてもらわねばなりません。

そして、不満があるという本音を隠さねばならなかった原因を、一生懸命探るのです。勿論、親を否定しようという気持ちは毛頭ありません。誰かを悪者にして、癒しが進むわけではないからです。

心理的な矛盾は必ず見つかるものです。その矛盾をクライアントさんご本人が理性で認められると、そこから気づきがやってきます。ほころびは、大抵あちこちに転がっているものです。

そうやって、ああこんなに自分は愛する両親に不満を抱いていたのだという事実に出会ったときに、本当に癒しがスタートするのです。

子供の頃に隠していた不満は、120%現在の人生へと受け継がれて、何かの形を持って本人の前に立ちはだかってくれるのです。それが、癒しのきっかけを与えてくれるのですから、ありがたいものです。

自分は親に不満を持ってもいいのだということを、腹の底から分かってあげる必要もあります。どれほど、不満があろうと親に対する奥深い愛が損なわれることはないからです。

安心して、心の中にしまっていた親への怒りを味わうことです。癒しが進めば、怒りはどうでもいいことになっていくはずです。その結果、人生に転がっている別の不満さえもが、どうでもいいものへと変貌していくことになるのです。

防衛と自由は反比例する

赤ちゃんは自由ですね。たとえば、おならを我慢したり、嫌いなものを食べたりするといったことは、皆無です。つまり、自分で自分を束縛するということがありません。

そういうルールを持っていないからです。そのルールとは、~べき、あるいは~ねばならないなどで表現されるものですが、ルールを課す目的は自分を守るためです。

赤ちゃんの心には、まだ自分という存在がいないために、つまり守るべき自分がいないのでそうしたルールを持たずに毎日すくすくと成長するのです。

けれども、ひとたび自我が発生して自分がいるという思いが出来上がってしまえば、自分の身は自分で守らねばならないということに気づいてしまうのです。

そうして、上述した様々なルールで身を固めて自分を守ろうとし出すのです。それを自己防衛システムと私は名付けています。防衛すればするほど、ルールがきつくなるために、その分だけ不自由になってしまうのです。

したがって、防衛と自由は互いに反比例の関係にあると思えばいいのです。もしも、あなたが自分の人生を不自由に感じたり、何だか生きづらいと思っているのでしたら、それは自己防衛が過度になっているという証拠です。

自由な人生を取り戻したいと望むのでしたら、まずは自分が日ごろどのように自己防衛をしているのかに気づく必要があります。気づかなければ、それを減らしていくことは不可能だからです。

自己防衛の方法はそれこそ多岐に渡りますが、たくさんのクライアントさんと接してきて、その主要なものを教えてもらったので、以下にそれを列挙してみます。

・自己表現、感情表現を抑える

・いい子、いい人、相手に都合のいい人物になろうとする

・プライドを高くし、人を見下す

・ネガティブな感情を見ない

・自閉して傷つかないようにする

・頑張りと努力で結果を出そうとする

等々

こうした生き方は、大なり小なり誰でも心当たりがあるかもしれませんが、問題はそれをどれだけ過度にやってしまっているかということです。

まずは、自己分析してみることですね。そして、自分独りではどうもうまくできないと感じられたら、セラピストの力を借りるという選択肢も検討してみてもいいのではないかと思います。

「今」を見て、「今」に気づく

もう12時を過ぎてしまったので、昨日のことになってしまいますが、久しぶりに昨日のお昼頃は暖かな陽気になりましたね。どこかで、春の匂いを感じている自分がいました。

それだけで、どうしようもないくらいの幸福感に包まれてしまうときがあります。もうすべてがOKというのか、心が爽やかで軽々とした感じになります。

ところが、最後のセッションが終わって家路に着くとき、夜9時半ごろでしたが、気温2~3℃くらいになっていて、あり得ないくらいに冷たい風が強く吹いていて、本当に参りました。体感温度は、きっと-5℃くらいだったと思います。

一日の温度差が20℃くらいあるなんて、ひどいもんですね。もうそうなると、お昼の幸福感などまったくどこかへ行ってしまって、心が縮こまったようになってしまいました。

一刻も早く家に帰って、身体を温めたいということしか考えられなくなってしまいました。これほどまでに、心の状態というのは気候に左右されてしまうのですね。

ところが、よ~く注意して心の奥底を見てあげると、そこには何物にも左右されない場所があると気づくことができます。春の陽気に浮かれた気持ちになることもなく、凍りそうな寒さにも全く動じないのです。

それに気づくと、それはどんな経験をしている時にも、なくなったことがなかったと分かるのです。自分と密接に存在している、というよりもそれこそが自分の本質なのだと分かるのです。

そのことに気づくために努力は不要ですが、ちょっとしたコツはあるかもしれません。なにせ、あまりにも自分過ぎて見過ごしてしまいがちだからです。

外の世界に気を取られてばかりでは、決して気づくことができません。あくまでも、「見る」ことです。何を見るのでしょうか?それは、「今」を見るのです。

「今」という舞台の上に、この世界のすべての物語(現象)が起きているからです。「今」を知れば、それが永久不滅であるということに気づくはずです。

永久不滅とは、変化しないということを意味しています。それが、あなたの本質なのです。

万能感と絶望感

赤ちゃんは生まれる前も生まれてからも、しばらくの間は至れり尽くせりの毎日を生きています。よほど、特別の事情でもない限りは、宝物のように扱われるのです。

その時の感覚は、万能感とか全能感とか呼ばれるのですが、当然かもしれませんね。なにしろ、人泣きしただけで空腹は満たされるし、退屈したらあやしてもらえるのですから。

オーバーに言えば、望むことは何でも叶えられるわけですから、万能感が出来上がるのも無理はありません。けれども、当然のことながらいつまでもそうした夢のような日々が続くわけではありません。

そうしたある意味女王様(王子様)のような生活は、早晩終わりを遂げることになるわけです。その待遇の落差に、多大に傷つけられてしまう赤ちゃんもいます。

それは、とても敏感で聡明な子の場合です。人一倍感性がするどくて、早熟で万能感の中にいるときに、それを冷静に体験してしまう場合です。

そうした赤ちゃんは、落差の大きさについていけなくて、ひどく惨めな思いをすることになるのです。惨めさとは、それまで当然のこととして期待していた待遇との現実の落差の大きさからやってくるのです。

敏感で聡明な赤ちゃんは、その痛手をいつまでも握りしめてしまいます。その惨めな自分を何ともしてあげることができなくて、自分の無力さにも絶望してしまうのです。

そのやり場のない不満は、大人になってもずっと心の奥に残ってしまっているために、本人はいつまでも理由のない満たされない感覚と戦わなくてはならなくなってしまいます。

こうした心のからくりは、自分独りでは解明することはなかなか難しいのです。自分の中にどんな不満があろうと、それから目を逸らさずに、しっかりと見てあげることです。

そして、不満の中でもがいている過去の自分を丸ごと受け止めてあげるのです。誰かを悪者にしても、決して救われないからです。

欠乏感の餌食にならない

以前何かのテレビ番組で観たのですが、ある赤ちゃんが、あの可愛らしい小さな手に何かを握りしめた状態で生まれてきたという、不思議話について放送していました。

それが本当かウソかは分かりませんが、一般的にはどの赤ちゃんも丸裸で、手には何も持たずに生まれてきます。つまり、ゼロスタートなわけです。そういう意味では、誰もが平等ですね。

だからこそ、私たちは足りないものを手に入れることで、心を満たそうとするようになったのです。足りないという欠乏感は、とても大きくて常に私たちを駆り立てています。

ブランドもののバッグが欲しい、素敵な洋服が欲しい、かっこいいクルマが欲しい、希望の学校に入りたい、一流企業に入社したい、理想のパートナーと巡り合いたい、快適な住まいを持ちたい、等々です。

本当に欲しいものが手に入ったときの喜びは、忘れられないですね。ところが、これまでの人生で何を手に入れられたとしても、まだ足りないという感覚は残っているはずです。

それは、ある程度の期間はごまかすことができたとしても、いずれは露呈してきます。あきらめの悪い人は、人生の最期までいずれは満足できるはずだと頑張るのです。

けれども、ほとんどの人が気づいてしまうはずです。何を手に入れたとしても、心から満たされることはないのだと。これは、とても残念なことですね。

一体なぜ結局は満たされないかというと、一番最初の時点で間違っているからです。生まれたときに、ゼロスタートなどしていないのです。

それは単に肉体が生まれたという、一つの現象が起きたというだけなのです。それなのに、私たちはその肉体を自分自身だと錯覚させられてしまったがために、欠乏感の餌食になってしまったのです。

本質に目覚めれば、その全体性に気づくことになれば、足りないということが不可能だと分かるのです。本質は、増えることも減ることもできません。

この人生は、足りないものを補うためにあるのではなく、そのことに気づくためにあるのだと思うのです。どうせ気づくのですから、早く気づいたほうがいいですよね。

幸せとは、探せば見失うもの

私たちの幸福感というものは、人によってさまざまで一様ではないかもしれませんが、それでもほとんどの人が幸せを手に入れようとしているはずですね。

けれども、本質的には私たちは決して幸せを手に入れるということはできないのだと気づくことです。あなたが、今後どうにかして幸せに「なる」ということはできないということです。

この世界でどんなことが、あなたの身の上に起ころうとも、そのことがあなたを永遠の幸せへと連れて行ってくれるということはないということです。

もっと分かりやすく言えば、人物としてのあなたが経験するありとあらゆる現象が、あなたを幸せにするのではなくて、あなたの本質そのものが幸せなのだということです。

幸せで「ある」ために、どんな努力も必要ありません。あなたが、あなたで在るために何かが必要であるはずがないからです。幸せとは、求めているうちは見つけることができません。

これは、本当に皮肉なことですね。探すという行為そのものが、それを見失わせてしまっているからです。おでこの上のめがねを必死になって探しているようなものです。

そうした誰かの姿を客観的に見れば、笑いが込み上げてくるのと同じように、どうやったら自分が幸せになれるのかと一生かけて追い求める姿は、的外れで滑稽でしかないということです。

そんな冗談のような人生が悪いわけではありませんが、そろそろ本質に気づくときがやってきているのではないかと思います。そのためには、努力はいりません。

ほんの少し、何かを探すことをやめるだけでいいのです。精神的に何もしないでいるとき、私たちはようやく自分の本質に気づくのです。気づかざるを得なくなるだけです。

探すことをやめた注意の向かう先は、必ず自分に一番近い場所、つまり自分の本質へと向かうことになるのです。それは、見つけるのではなくて直接体験することになるのです。

その時の感想は、「なんだそういうことだったのか!」となるはずです。

人生は負けるが勝ち

どんな人であろうとも、幼いころには自分の無力感、あるいは情けなくてダメだという気持ちを味わっているのです。その惨めな気持ちを何とかしようとするのは、当然のことかもしれません。

そして、成長とともにそのことは心の奥のほうにしまって、ダメじゃない自分、惨めに親や周りの人たちにコントロールされる自分から脱却しようと頑張るのです。

そうやって、飽くなき自己防衛の努力が始まるのです。その方法は、人それぞれですが、どんなやり方であろうと適度なうちはいいのですが、過度にやり過ぎてしまうと人生を蝕む結果となるのです。

自分は無力ではないということを証明しようとすればするほど、例えば自分と誰かを比べて決して負けないと心に誓うかもしれません。勝負に勝つことは、強い自分の証明になるからです。

そうなると、大人の理性では勝つこともあるだろうし、負けることだってあることは分かっているのですが、インナーチャイルドの部分が負けを認めさせてくれないのです。

したがって、本人の感覚としてはいつまでたっても、自分は誰にも負けてはいないという誤った認識で生活していくことになってしまうのです。そうやって、安心しようとするわけです。

けれども、本心では負けてしまっていることも気づいているので、自分が他人に負ける可能性のない世界へと逃亡しようとするのです。だから、独りでいるときが一番心休まるわけです。

人と関わればそれだけ、必ず自分の負けを認めなければならないことがやってくるからです。あるいは、何か新しいことにチャレンジしようとすれば、また負ける可能性が出てくるので、いつまでたっても船出しないでいるということが起きるのです。

人から評価されるような立場は危険だということになってしまうのです。自分は、誰の助けも借りずに生きていけると思い込むのも、負けを認めない防衛心から起きてきます。

負けるが勝ちという言葉があるように、心から負けを認める勇気があれば、その時初めてその人は心休まる思いを経験することができるのです。

それまでは、いつも負けてはならないと気を張って生きていかねばならないのです。そんな疲れる人生から、さよならするためにも「負け」ることを実践してみて下さい。

全体性を見る眼

自分の本質への気づきがやってきても、毎日の生活が一変するというわけではありませんし、突然自分が癒されて愛に満ちた人物になってしまうということもありません。

つまり、一般的に私たちが望んでいるようなすばらしい人格の持ち主になるわけではないのです。そうした直接的な変化ではなくて、言ってみれば間接的に人生に影響が出てくるのです。

しかも、その影響というのはとても緩やかで、他人から見たら一体その人は気づき体験をして何が変わったのか分からないかもしれません。

けれども、気づきは人生のあらゆる場面に本質的で継続的な変化をもたらしてくれるのです。その人の内面では、実は計り知れないパラダイムチェンジが起きているのですから。

例えば、気づきへの信頼が増せば増すほど、自分の手柄がなくなっていきます。一生懸命に努力して、何かが成し遂げられたとしても、それが自分という個人の手柄ではなくなってしまうのです。

それは、自分以外の誰かに対しても同じです。嬉しいこと、喜ばしいことは沢山あっても、それが誰かの個人的な手柄のようには見なくなっていくということです。

そして、その逆もあります。自分がこれまでにしてきた間違いや犯した罪に対する罪悪感が薄れてきます。その感覚は、他人に対しても同様にやってきます。

結局、自分や他人という人物が成し遂げた成果に対する手柄感も、誰かが犯した事に対する罪の意識も減ってきてしまうということです。

このように書くと、一見正常な人としてのものを見る目が退化してしまう感じがするかもしれませんが、そうではありません。物事をマクロ的に見る視点ができてくるだけなのです。

それが全体性の眼なのです。