この世の物語とその源泉を同時に意識する

一体全体自分はなぜ生まれてきて、どうしてこのような不思議な人生を経験させられているのだろう?と感じたことのある人は沢山いらっしゃると思います。

何かとても不思議で、天の神様にでもその理由を聞いてみたいと思うわけです。何かが仕組まれているに違いないと感じて、前世にそのわけを見出そうとしたりするのです。

自分の人生に興味を持つことはいいことだと思います。それは自分という存在にも興味を抱くことになるからです。ただし、そうした人が二手に別れることも見逃せません。

一方では、この人生に起きることは決して偶然ではないと感じて、そのことを追及しようとするのですが、もう一方ではこの人生がやってくる源泉に思いを馳せるのです。

両者の違いは歴然としています。どちらが優れていて、どちらが劣っているということではありませんが、見ようとしているレベルには決定的な違いがあるのです。

前者は、この世のしがらみから離れているようで離れてはいないのです。思考によって、この世界のからくりを解き明かそうとしているからです。だから、そこにはカルマとか輪廻などの時空がからんでくるのです。

このやり方は、面白い結果を導き出すことができる場合もあるかもしれませんが、やはり真理ではないのです。なぜなら、個別性がその主役の座から降りていないからです。

一方後者は、上手に言葉で説明することはできない分だけ、真理に近いと言えるのです。真理には、原因と結果、つまり因果というものがありません。

それはあたかも真理のようにも見えるのですが、あくまでも思考の産物に他なりません。興味深いというのは、そういう物語を思考が好むからなのです。

双方を同時に視野に入れて、日々を過ごすというのもいいかもしれませんね。私は、この人生で起きる不思議も、それを現象化させている自分の本質も、どちらも同時に見ることが気に入っています。