ホンモノはどこにもない

過去も未来も同じように幻想でしかない、ということが実感としてやってくるようになったということを直近の2回のブログでお伝えしてきました。

それと同時に、今この瞬間というものが大きく広がったわけです。今この瞬間には時間という概念が入る余地がありません。

そしてこの今というリアリティの中でさえ、どんな実体も本当には存在しないのですから不思議です。

もしかしたら、もうすでにリアリティという言葉を使うことができなくなってきているのかもしれないとも感じています。

一体リアリティってなに?そんなものは最初からどこにもないのではないかと。直接の体験や現象はリアルではないの?

それも最終的には、幻想でしかなかったということになってしまうのかもしれません。ホンモノはどこにも存在しない。

こうなってくると全くもって思考停止状態になってしまいます。それを放っておくと、見えてくるものもあるのかもしれないですね。

未来も過去と同様に遠のいた

ゴロっと横になって、もうすぐ4月も終わるなあと、すぐに5月がやってくるなあとぼんやりと思っていたのです。

ところがそこでふと、アレ?いつものクセでそう思っただけで、本当はどこにも向かってなどいないなと感じたのです。

もうすぐ5月になるというのは、思考の上では正しいことだけれど、事実ではないという感じですね。

5月に向かって進んでいるわけでは決してないということに気づいた感じです。時間の流れという思い込みを外せば、そうなるわけです。

昨日のブログで過去が遠くへ行ってしまった感じがあるということを書きましたが、今度は未来に対してもそんな感じになったのかもしれない。

我々はどこにも行き場なんてないのですね。時間的な広がりは空想に過ぎなかったわけです。じゃあ閉塞感があるかというと、それはない。

かえってこの瞬間が瞬間ではないということなのかも。今というのは、時間の中の一点というのも思い込みに過ぎないということですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

過去が見当たらない

ここ数日何となく気分が浮かない感じがしてるなあと思っていたのですが、その本当の原因はまだ見つかっていないのです。

けれども、今ちょっと気づいたのですが、これまでの自分が生きてきたこの人生というものが、ものすごく遠くに感じるのです。

遠くというか、リアリティがまったくなくて、どこか作り物のような気もするのです。本当だったの?という感じで。

今この瞬間に静かにいると、本当は何も起きてはいなかったのではないかと。それこそ夢の記憶のような。

だから自分のこれまでの実績というのか、生きてきた軌跡がなくなってしまったかのように思われるわけです。

非二元の立場からすると非常に好都合なんだろうけれど、どこかでそれを受け止めきれていない自分がいるのかもしれません。

やることがまったくないというのも、自我にとっての不都合な状態なのでしょうね。毎日にハリがなくなったなあと。

やあ、まったく過去がなくなった感じがしてますね。思い出そうとすれば、それなりにあることはあるのですが、相当に嘘っぽい。

過去が完全に今と切り離されてしまったようにも感じていますが、これもそのままにしておいてみようかなと。

モノのない現象だけの世界

先日ちょっと変わった夢を見たのですが、それは多分ですけど戦争体験を思い出したと言った感じの夢だったのです。

普段はそんな記憶はまったく持っていないのですが、かなりリアリティがあって匂いも体験したのです。

物語の内容としてはほとんど覚えていないのですが、あの匂いは強く印象に残っています。いつも言っている通り、体験はリアルなんですね。

それとまったく同じで、この現実という夢も体験だけはリアルなんですけど、あらゆる実体というものがないのです。

私たちは、想像の中で「モノ」をベースとした世界で生きていると思い込んでいるのですが、本当はそんな「モノ」はない。

これは現象世界なんですね。現象だけがずっと起きては消えてを繰り返しているのですが、長い間生きていてそんなこととは気づかなかったのです。

その現象には、あらゆるものが含まれるのです。この宇宙も、地球も、人間も、思考や感情、気分や欲望も、一切合切がただの現象なんですね。

自我への加担をやめる

人生に目的があるとしたらの話ですが、人によって色々な目的があっていいと思うのです。より幸福になるためとか、やりたいことを実現するためとか。

こういう自分になるためなんていうのもあるかもしれません。いずれにしても、目標を掲げるのは悪いことではないと思われています。

ただ、どんな目的であったとしても、目的、目標はいつまでも実現しない方が、自我にとっては好都合なのかもしれません。

なぜなら、もしも目的を遂げてしまったとしたら、目的に向かって突き進んでいくというこれまでの生き方が使えなくなってしまうからです。

その時は、すぐにでもまた別の目標を設定することによって、新たな人生がスタートするというわけです。

ここで気づかなければならないことは、どこまで行ったとしても目標に到達することは、それで終わりにはならないということです。

これに気づかないうちは自我は元気でいられるのです。けれども、一度でもこのカラクリに気づいてしまうと、自我への加担をしたくなくなるのです。

人生物語の中では、無目的というのはあまり良い印象がないのですが、しっかり見つめてみれば瞬間瞬間を生きる方がよほど生を楽しむことができるように思いますね。

過去はないと分かりますが、未来も決してやってくることはありません。いつだって今があるだけなので。

というわけで、今この瞬間に全力でいられるようにしたいものですね。

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自分を放っておくという生き方

昨日のブログでは、「自分を放っておく」ということについて書いたのですが、この感覚になったことはこれまで一度もなかったのではないかなと。

実際に、自分以外でそのように生きているだろうと思われる人はいるにはいるのですが、あまりにも自分自身とかけ離れていたので、それほどリアルに捉えてはいなかったのです。

もちろん今でも自分を放っておくことが、この自分に本当にできることなのか?あるいはできるとしてもどこまでできるのか?

そういった疑問は満載なのですが、それでもそういう地平が見えてきたということは自分としてはちょっと驚きなのです。

これが非二元の探求などによって、自然とやってきたことであればとても喜ばしいことですが、そこはまだ不明です。

何せ自分としては非常に真新しい感覚なので、しっかりと気づいているようにしなければ、すぐに元に戻ってしまうのです。

ここで自分の自我はこのことをどのように見ているのか?そのことにもとても興味がありますね。今のところはノーリアクションのようですが…。

とにかく放っておく

自分の自我が強い理由がちょっと分かった感じがしました。というのも、自我の思い入れに肩入れしていたことに気づいたのです。

自分の好みというものを、とても大切にするという傾向が強いのではないかと思っていたのですが、そのことにしっかりと気づきましたね。

自我に物凄く力を与え続けてきたということにようやく気づいたのです。うまく言葉にすることができないのですが。

それで、これからは自分が大切にしてきたものをごく普通のことのように接することにしようかなと思うのです。

特に自分の気分がすごく大事なわけですが、これもできる限り放っておくようにできたらいいなと思うのです。

それと、繰り返す思考やそこからやってくる感情なども、そのままにして相手にしないでいられるようにしたいなと。

なんで今頃気づいたのかは定かではないのですが、自分を異常に特別視していたことに気づいたのですね。

これでは生きている限り自我にエネルギーを送り続けることになるのです。自分にまつわることで、大切なことなど一つもないと明確に断言するといいかもしれないですね。

被害者のままにしておかない

久しぶりに癒しの話を書こうと思います。癒しのプロセスの途中で、クライアントさんに必ずお伝えすることがあるのです。

それは、自分の身に起きたことは自分がそれを起こしているということ。もちろん幼い頃のことは例外としてです。

それでも、あの辛い出来事の台本を書いたのが自分だとは、到底信じられないと感じるのは当たり前のことですね。

けれども、どこかでこれをある程度は受け入れることができないと、その人の癒しはそこでストップしてしまうのです。

つまり、苦しみを自分以外の誰かのせいにしている限り、それ以上は進めなくなるということなのです。

癒しの最初の頃にお伝えしないのは、これを知ってしまうことで、自分を責めてしまったりして感情をそのままに感じることが難しくなるからです。

特に、怒りを味わうときに自責があるとブレーキになってしまうのです。ある程度、感情の解放ができるようになった時に、次の段階へと進む時に必要な知識なのです。

誰かのせいにするということは、自分を被害者の状態で置いておくということなので、確実に人生はうまくいかないままになってしまうはずです。

誰も悪くない、もちろん自分自身も。この感覚になることができて初めて、気持ちが軽くなってこの世界が優しく感じられるようになるのですね。

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仏教の縁起とは…

「すべてのものは、単独では存在せず、条件(縁)がそろうことで成り立っている」という見方をするのです。

例えば、火は「薪・酸素・温度」などがそろって起こるし、雨は「雲・気温・気圧」などの条件で降る。私たちの感情も「出来事・記憶・体調」などで生まれる。

つまり、何かが単独で“それ自体として”存在しているわけではないということです。原因と結果というより、相互に依存しあうネットワーク的な関係です。

この教えが重要なのは、単なる理屈ではなく固定された「自分」はない(=無我につながる)、すべては変化し続ける(=無常につながる)、という理解に直結するからです。

本質的な表現で言うと、世界は「もの」ではなく「関係の現れ」であり、実体ではなく「出来事(プロセス)」とも言えますね。

あなたが普段見ている「これはこれだ」という確かなものも、よく観るとすべて条件の束でしかない。それを見抜くのが縁起の洞察なのですね。

非二元とは似て非なるものがある様ですが、私は仏教徒ではないので本当のところは分かりません。いつか、わかる時が来るといいのですが。

無常には因果がある?

無常というのをキーワードとして、初期仏教と私が見ている非二元の関連性を検証してきたのですが、ここで決定的な違いを発見しました。

それは、因果についてです。仏教では物事の起きる全ては因縁によっているという言い方をしますね。

つまり、原因があって結果が起きているという見方なのです。瞬間ごとに現れが変化するというところは分かるのです。

けれども、前の現れが次の現れの原因となっているというのが、どうにも分からないのです。私の感覚では、その連なりはない。

一体全体、現れ同志の繋がりってどのように起きるのか、これは是非仏教の長老に説明をして欲しいところです。

相手は悟った人ですので、どうやったってむこうが真理を突いているということなのでしょうけれど。

そこの仕組みが分からないのです。こうした謎も、少しすると解決してしまうのかもしれませんけれどね。