無自己性

by osho

言葉が消えて初めてわかることだが、自己は境界なしでも存在できる。それはひとつの体験だ。論議によって証明するものではない。自分自身の中に入って、どこまでも沈黙してごらん — 境界もなく、言葉もなく、ただ純粋な在ること・・・。

にもかかわらず、あなたにはわかる - 「自分は在る」と。

知ることなく、口に出すことなく、あなたは体験する-「自分は在る」と。

この「在ること」は始まりの前からあった - もし始まりというものがあるならば。

それは今もあり、これからも永久にある。たとえ終わりというものがあっても、この「在ること」は終わらない。

そしてこの「在ること」は、あなたとは関係ない。この「在ること」は、あなたの所有物ではない。だからそれは自己ではない。

ブッダの説明はじつに的確だ。たぶん、彼ほど的確な人もいないだろう。彼はそれを自己ではなく、無自己と表現した。なぜなら自己と呼んだら、線や、境界や、領域を与えてしまうからだ。

その領域をこわすために、ブッダはそれを無自己と呼ぶ。そのせいもあって彼は長年、誤解されてきた。というのも、誰が無自己に到達したがるだろう。誰が無になりたがるだろう。

そしてこの無や無自己こそまさに、自己の存在の中心に到達したとき、あなたが成るものだ。この無自己性は不滅であり、この無自己性は純粋な喜び、原因のない至福だ。

全部言い換える その2

昨日の「全部言い換える」のアップデートバージョンをご紹介します。
これは、どんな言葉にでも使用可能ですので…。

私が考えている  →  私が考えている、という思考がある

私は空腹だ  →  私は空腹だ、という思考がある

私は頭が痛い   →  私は頭が痛い、という思考がある

私は嬉しい  →  私は嬉しい、という思考がある

もう気が付きましたね?言葉に出したとたんに、すべてが思考の中身だったということです。
思考はあるのですが、その中身は真実ではないということです。

全部言い換える

心の中に浮かんできた様々な言葉を、次のように言い換えるのです!

私が考えている  →  考えがある

私は空腹だ  →  空腹がある

私は頭が痛い   →  頭痛がある

私は嬉しい  →  嬉しさがある

もう気づきましたよね?そう、「私」は必要ないのだと…。
「私」がなくても、この世界は成り立っているという事実に気づくと、どんな気持ちになるでしょうか?
悲しくなるのか、気楽になるのか、どうなろうと大丈夫です。
なぜなら、あなたの中にそうした気持ちを感じている「私」はいないのですから。
ただその気持ちがあるだけです。

瞑想誘導 その2 by osho

by osho

力を抜いて・・・身をゆだねて、溶け去る
ちょうど氷が大海に溶けるように・・・
分離はすべてなくなる
あなたは<存在>とともに安らぐ
この<存在>との安らぎはどんどん成長していき
ついには 二十四時間継続する気づきとなるーー起きているときも眠っているときも・・・
花々があなたに降り注ぎ <存在>全体から祝福される
<存在>はいつも瞑想者の中で歓喜している
なぜなら瞑想者によって<存在>は その究極の表現 究極の美に到達するからだ
今この瞬間 あなたはブッダだーーあなたはいつもそうだった
覚えやすいように三つの段階にわけよう
第一段階は ブッダがあなたの影となって現れ あなたに従う
第二段階は あなたが影となってブッダに従う
そして第三段階は 影としてのあなたもブッダの中に消え去る
あなたはただ純粋な光に 覚醒になるーー無限で永遠だ
あなたはいつもそうだった ただ忘れていただけだ
想起するーーサマサティ

瞑想誘導 その1 by osho

by osho

さあ静かに・・・
目を閉じて・・・そして自分の身体がすっかり凍りついたと感じなさい
今こそ内側へと入るときだ
エネルギーのすべて 意識の全部を集め 自分の存在の中心へと突き進む
それはちょうど臍の下五センチの内側にある
深い切迫感がないと到達できないーーまるでこれが自分の最後の瞬間であるかのような
早く もっと早く・・・
深く もっと深く・・・
自分の存在の中心にだんだん近づくにつれて 大きな静寂が降りてくる
そして大きな光があなたの存在をすっかり満たすーー源のない光だ
あなたはこの光だ
この光の別名をブッダという
この光の中にくつろぎ 三つのことを見つめる
一番目 あなたは身体ではない
二番目 あなたはマインドではない
三番目 あなたはただこの見つめる意識

「ただあるがままを見ている」実践

皮肉なことに、私たちに大切な気づきがやってくるときというのは、決まって何かがうまく行ってないと感じるか、あるいは都合の悪い状態になっているときなのです。

けれども、考えてみればこれも当然のことなのだと分かります。物事がうまく行っていたり、都合のいい状態であるときに、それを変えようとは誰も思わないのですから。

今が幸せだと感じるときに、それを何とかしようなどと思う人は一人もいないのは、当り前のことですね。別に大切なことに気づかなくても、幸せならいいじゃないかとも思うわけです。

けれども、それもそう長くは続かないのです。この世界はすべてが一過性で成り立っているのですから。そしてまた、困った事態というものがやってくることになるのです。

人はそれを、どうしたものかと思い悩み、何とかしようと考えるのです。その時点で覚えておかねばならない大切なコツのようなものがあるのです。

それは、外側では何等かの行動が起きるかもしれませんが、内面では静観し続けるということです。見るという立場になっていることから意識をはずさずにいるということです。

これはいわゆる現実逃避とは根本的に違います。一歩も逃げずに、「ただあるがままを見ている」ということを実践するのです。上手くいけば、そこは完全に困った事態とは無関係だということに気づくことができるのです。

起きている事態に100%で巻き込まれてしまうと、見ることはできなくなってしまうので、日ごろから見る実践を繰り返して、いつでもそのことを忘れずにいられるようにする必要があるのです。

もしもあなたが今何か困った事態にはまり込んでいると感じているなら、気づきのチャンス到来というわけです。そのことに飲み込まれずに、内側で淡々と「ただ見る」を実践してみて下さい。

問題は解決するのではなく、ただ見ることによって、それは問題ではなくなっていくということを知ることになるはずです。

人生は壮大なドラマ

思考のない静寂の中に入っていくと、すべては完璧だということを感じることができます。すべてということは、この世界のあらゆる人物のどんな人生も、完璧だということでもありますね。

このことは、本当に普遍的な真実です。ただ、あまりにも現実離れしていると思われてしまう気がするので、普段はそのようには口に出して表現することはありませんが…。

現実はと言えば、人も羨む素晴らしい人生もあれば、どうにも見苦しい醜悪な人生もあると感じているのが普通ですね。私はセッションを通して、本当に様々な人生を疑似体験させてもらってきました。

そして、それがどんな人生であれ、1ミリもそれを否定する場所は見当たらないのです。なぜなら、その中に悪の要素を見つけることができないからです。

同時に、善の要素もありません。善悪も正不正も、何一つ見つけることができないのは、それがただあるがままの姿だと感じられるからです。

人生は壮大なドラマであって、それは体験を通して楽しむものなのです。勿論、その中にはネガティブな感情や、苦しみなども入っているのですが、それも全部含めてドラマの味わいだと感じるのです。

この現実が作り物のドラマと同じだなどとは、とても考えられないというのも当然ですね。けれども、内面のどこかでだれもがそのことに気づいているのです。

現実と夢は真反対ではなく、どこか似た部分があるのです。どちらも同じような素材で作られているとも感じるときがあるのです。

現実は夢でも幻でもありませんが、<存在>からやってくるプレゼントであることは間違いありません。そのプレゼントの中には、あなたという存在も含まれているのです。

そのことに気づくと、何とも優しい穏やかな気持ちになれますね。

初回の方は、二枠分のご予約も検討して下さい

今日のセッションは、この仕事を始めてから実に7250回目でした。数だけを見ると、そんなにやったのかと思うのですが、正直それほどの実感は全くありません。

というよりも、未だに気づかせていただけることが多くて、セッションをどれほど続けて行ったとしても、常に新しい出会いがあるのと同じで、新鮮な驚きもなくならないのですね。

ところで、最近二枠分(4時間)のご予約をされる人が少しずつ増えてきました。ホームページ上でも記載しているのですが、一回2時間のセッションというのは、長いようでいて、意外と短いのです。

特に、初回の場合にはお聞きしたいことや、お伝えしたいことなどが山盛りあるので、どうしても2時間では時間が足らなくなることが多いのです。

それで、時間と経済的な余裕があって、じっくりと時間をかけてセッションを受けたいという場合には、二枠分のご予約をしていただくようにお勧めしているのです。

現在正規の約半額程度の費用でセッションをさせていただいているということもあって、個人的にはできたら二枠分のご予約をしていただけると、余裕を持ってセッションができるので、とても助かるのです。

ただし、前世を見たいというようなとても単純な興味などでいらっしゃるような場合や、もうすでに何度もセッションにいらしているという場合には、2時間の枠で時間的には充分ですので、ケースバイケースだということです。

また激しい感情の解放などが起きるようなケースでは、催眠のセッション後全身が痺れてしまって、正常には歩けなくなってしまうこともあるのです。

そういう場合には、危険ですので痺れがある程度収まるまで休憩していただく必要があるので、そういった時にも二枠分取ってあると、とてもあり難いということがあります。

あなたが今後、もしもセッションを受けてみようかと考えているのでしたら、一度是非、一枠分か二枠分かを検討してみて下さい。二枠連続(4時間)の効果はあなたが想像している以上に大きいかもしれません。

究極の不安の原因とは…

あなたの心の中に不安があるとするなら、その不安はどこからやってくるのでしょうか?その根本的な原因を知ろうとしたことはありますか?

大抵私たちが知っている不安の原因とは、経済的な不安であったり、健康上の不安であったり、人生の未来に対する全般的な不安であったりするのです。

勿論それ以外にも無数の不安の材料がありますが、そのどれをとっても実は後付で作られた不安感なのです。だからこそ、その一つひとつを安心に変えることができたとしても、またすぐに別の不安材料を見つけてしまうのです。

個別の不安を何とかして安心に変えようとする人生を、どこかの時点でしっかりと見直すべきときがやってきます。そして、それらの不安の根っこには何があるのかを探ることです。

その不安の大元は、自我が芽生えた頃の自己イメージに原因があるのです。自分のままではいけないのだという、理不尽な思い込みが作られることによって、漠然とした不安が残ることになるのです。

自分という存在への不信感とでも言えばいいのでしょうか?マインドの中に、存在否定が忍び込んできたために、ただここに居るということ自体が不安となってしまうのです。

その不安感を払しょくしてあげるためには、できるだけ多く自分を受け止めるということを繰り返すことです。可能な限り、思考を使わずにただただ愛を持って受け止めること。

それだけで、長い間謎だった不安感が減少していくはずです。けれども、それだけではまだ本当の意味での不安をなくすことはできません。残念なことに、不安は自我がある限りは消えないのです。

なぜなら、不安の究極の理由とは、それは私たちが自分とは本当は何かを知らずにいることからやってくるものだからです。自我とは自分の本質ではないからです。

自分のことを本当に知らずにいて、安心していられるはずなどありませんね。自我という仮面の奥に隠された自分の素顔と対面するまで、不安がなくなることはないということを憶えておくことです。

もがけば、もがくほど…

みなさんは、金縛りにあったことがありますか?あれは単なる体質の問題なのだろうと思うのですが、私は高校生の頃からひどく金縛りに遭うようになったのです。

不規則な生活をしていると、どうもやってくるようですね。高校生になってから、ラジオの深夜番組を明け方まで聞いていたりするようになったのが、原因だと思っています。

そして、酷い時には、一晩中金縛りに苦しみ続けるということもありました。一度、金縛りになってしまうと、そこから抜け出そうとして全力でもがくのです。

勿論、いくらもがいたところで身体は少しも動かすことができなくて、本当にしんどいわけですね。悪くすると、誰かがやってくるような気がしたり、何か得体の知れない存在が近くに来るような錯覚まで起きるのです。

だから、本当に怖くてそれで必死になってもがいてしまうというわけです。唐突に目が醒めて、何かゼイゼイしているような感じで、疲れ果ててしまうのです。

ところが、大人になってからは、慣れたせいもあるのでしょうけれど、次第にもがくことが減ってきたのです。ああ、またなってしまったな、と冷静に考えることができるようになったのです。

自分の力では、もうどうすることもできないということが分かるので、金縛りが解けるのをただ待つようになったのです。もがかなくなったおかげで、ずいぶんと楽になりましたね。

そうこうしている間に、自動的に解けて(目覚めて)、ああ自由になれたとなるのです。で、ふと思ったのですが、この現実の世界で生きるということも、何かそれと同じようなものではないのかと…。

私たちは、問題が起きれば、その現実の苦しみから何とかして抜けようともがくのです。そして、もがけばもがくほど、悪循環にはまってしまい、クタクタになってしまうのです。

何とかして…、という気持ちを見つめ、人生と闘うことをやめること、もがけばもがくほど人生は肘鉄をくらわしてくるということに気づくことです。

そして、どんな問題も所詮は一過性のものであることを思い出し、解けて(目覚めて)いくことをただ待つことです。そうすれば、最短で問題は消失して、自由の身になれるということです。