無自己性

by osho

言葉が消えて初めてわかることだが、自己は境界なしでも存在できる。それはひとつの体験だ。論議によって証明するものではない。自分自身の中に入って、どこまでも沈黙してごらん — 境界もなく、言葉もなく、ただ純粋な在ること・・・。

にもかかわらず、あなたにはわかる - 「自分は在る」と。

知ることなく、口に出すことなく、あなたは体験する-「自分は在る」と。

この「在ること」は始まりの前からあった - もし始まりというものがあるならば。

それは今もあり、これからも永久にある。たとえ終わりというものがあっても、この「在ること」は終わらない。

そしてこの「在ること」は、あなたとは関係ない。この「在ること」は、あなたの所有物ではない。だからそれは自己ではない。

ブッダの説明はじつに的確だ。たぶん、彼ほど的確な人もいないだろう。彼はそれを自己ではなく、無自己と表現した。なぜなら自己と呼んだら、線や、境界や、領域を与えてしまうからだ。

その領域をこわすために、ブッダはそれを無自己と呼ぶ。そのせいもあって彼は長年、誤解されてきた。というのも、誰が無自己に到達したがるだろう。誰が無になりたがるだろう。

そしてこの無や無自己こそまさに、自己の存在の中心に到達したとき、あなたが成るものだ。この無自己性は不滅であり、この無自己性は純粋な喜び、原因のない至福だ。