意識について

一般的に言えば、普通「意識」というのは自覚できるマインドの部分のことであり、「無意識」というのは、自覚できないマインドの部分のことです。

ところが、意識という言葉と深く向き合っているうちに、そういうことではないということに気づくことになるのです。

意識の本質とは、マインドとは無関係なのです。無関係どころか、全く次元の異なるものなのです。

意識こそがこの宇宙の究極の真実であって、それはこの宇宙の次元を超えていると捉えることもできるのです。

であれば、それがこのちっぽけな自分のマインドなどと比べるべくもないと分かるはずです。ただし、意識(目覚めていようがいまいが)はこの宇宙のあらゆる森羅万象の裏側にあるのです。

そういう意味では、私たちのマインドにも意識は張り付いていて、目覚めている意識が自覚できるマインドに、目覚めていない意識が自覚できないマインドに、それぞれ対応しているのです。

そして目覚めている意識が、一部とはいえマインドと張り付いているのは人間だけなのです。他のあらゆる生物は全てが目覚めていない意識とくっついているのです。

そして今更ですが、目覚めている意識とか目覚めていない意識って何なの?ということなのですが、どのように解釈すればいいのか?

きっと、意識がそれ自身に気づいている状態であれば目覚めている意識であり、気づいていなければ目覚めていない意識ということになるのでしょうね。

少し分かりづらかったかもしれませんが、興味があれば自分自身で検証して見るのはきっと役に立つと思います。

物事の道理を知ってる幼い子

この仕事をするようになって、いくつか驚いたことがあるのですが、その一つとして幼い子供の聡明さというのが挙げられます。

子供は無邪気で何も知らず、経験豊富な大人たちから様々なことを教えてもらって、それを覚えて自分のものにして成長していくと思っていたからです。

もちろんそういう子供もいるのでしょうが、生まれ持った敏感さあるいは生まれながらの聡明さ、そして物事の道理のようなものを初めから知っている場合もあるということ。

これは本当に驚きなのです。誰からも教えてもらったわけでもないのに、すごく大切な考え方や法則などをどういうわけか知っているのです。

そうした子供は、普通の大人、そして少しばかり病んでいる親などを見て、すぐに見切りをつけてしまうということもあるのです。

この人たちは何も分かっていないし、話しが通じるということもない。愛情にも欠けていると判断して、諦めと絶望と共に生きることになるのです。

そうなると、その子は3歳だろうが4歳だろうが、無邪気さを無くしてしまって、親の期待に応えながらどうやったら生きながられるかを考えるのです。

半ば奴隷のようになって、自己表現をすることもなく、何かを訴えるでもなく、淡々と毎日をやり過ごすことになるのです。

その子のマインドは想像するのも嫌になる程、きっと孤独に満ちているはず。なぜなら、家庭の中に味方がいないのですから。

誰にも甘えられず、それでも愚痴一つ言わずに生きていく。できることと言ったら、心の奥深くで親を見下すことだけです。

受け止められた経験もないので、自分の存在価値を知ることもないのです。その結果、人生は問題行動の嵐と化すことになるでしょう。

ご本人がこうしたことのカラクリにしっかり気づいて、一歩ずつ確実に問題行動を起こし続ける原動力を見つけて、そこを癒していくことが絶対的に必要ですね。

右脳はすでに悟っている!?

あまりこのブログで人間の脳について書いたことはなかったと記憶しているのですが、それは普段私自身が自分の脳について考えることがないからです。

とはいえ、脳をベースに考えていくことも可能かなと思い、今日は脳ベースの話をしてみたいと思います。

ご存知の通り、脳は右脳と左脳に真っ二つに分かれています。両者は脳梁というところで互いに繋がってはいるものの、ほとんどは全く別人格のように綺麗に分かれているのです。

右脳は論理がなく、主に感覚や感情を司るのであり、一方の左脳は論理的言語的で思考によって活動をしているのです。

ということは、左脳が自我の大部分をまかなっていると言えるのではないかと思います。左脳は、心理的な防衛と過去と未来を中心に思考するのが仕事です。

であれば、右脳は今この瞬間にずっと在るということですね。瞑想して思考を停止するということは、端的に言えば左脳の活動を停止するということかもしれません。

日頃から右脳を優位にしていることができれば、瞑想状態に近い感覚で生きているのと同じことになるのかなと。

ということは、えっ、右脳はもうすでに悟っているということ?自我がどれくらい右脳に関わっているのかにもよるのでしょうが…。

自我の正体を見抜く

私たちが自我として生きている限り、周りの世界から分離しているという共通認識のもとに生活をしているのです。

その分離感からやってくるのは、恐怖と孤独です。自分という個は、生まれてから死ぬまでずっと独りであることが確定しています。

もちろん、さまざまな幻想を持つことは可能です。相手を思い切り抱きしめていれば、一心同体になれるとか…。

大勢に囲まれて、みんなに見守られていれば孤独ではなくなると思ってみたり。子供であれば、お父さんとお母さんに挟まれて寝れば一人ぼっちじゃない等々。

けれども、あらゆる幻想を捨ててしまえば、完全なる孤独であることを思い知ることになるのは明らかです。

恐怖と孤独を誤魔化すために、欲望が生まれました。欲望を達成することができれば、恐怖も孤独も消えてなくなるに違いないという、切実な願い。

それが叶った試しはないのです。なぜなら、恐怖と孤独は個体である限りは絶対についてくるものだからですね。

しかもその欲望こそが、自我を存続させるだけでなく、私たちを苦しみへと導く張本人なのです。でも欲望を無くすなんてことはできません。

じゃあどうしたらいいのか?自我という個体こそが幻想であるということを見抜くこと。その分離感は偽物だったと気づけば、恐怖も孤独も消えて、全ては一つという愛だけが残ることになるのですね。

身体を動かさずにいると…

瞑想をしていて感じることがあるのですが、それは瞑想中に身体を動かしてしまうと、どうも感覚を普段の状態へと戻されてしまう傾向があるなと。

だからこそ瞑想中は、なるべく身体を動かさずにいるようにするわけですね。けれども、それはどうしてなのか?

私なりに導き出した答えなのですが、身体を動かすということは空間内を移動するということを意味しますね。

それはとりも直さず、自分は局所的な存在であるということを印象付けることになるのです。そうやって、個体として空間から分離しているという確固とした感覚を絶やさないためなのかなと。

身体をなるべく動かさないでいるようにする方が、全体性の感覚がやってきやすいのもそのためなのだろうなと。

全体性の感覚とは、時空はない(幻想である)もしくは、時空を超えているというものです。どちらも同じことです。

子供の頃、身じろぎもせずにじっとしていることがなぜか好きでした。あの頃は自覚はなかったですが、今思い返すとそうやって全体性の感覚を取り戻していたのかなと。

子供の頃は、この世界にやってきてからまだ日が浅いだけあって、来る前の感覚が色濃く残っていたりするのかもしれませんね。

内側にこそお宝が在る

私たち自我の特徴は、周りの人々や出来事への関心ばかりで、一向に自らの内側を見ようとしないということです。

外側の世界は華々しいことが山ほどあるし、魅力的な人やモノにも溢れかえっているように思えるので、仕方のないことかもしれません。

けれども、外側の世界と共に暮らしているあなた自身は、実は内側にこそ在るのです。だから、おかしなことになっているのです。

人生のどこかのタイミングで、内側を覗き込んでみる必要があるのです。自分のマインドの中は一体どうなっているのだろうか?

自分自身に無関心のまま、人生を楽しむことなど本当にはできないと知ることです。とはいえ、内側なんて見たことがないので、見方が分からない。

そういう声が聞こえるようですが、それは無理もないことです。ずっとずっと外の世界にばかり囚われて生きてきたとしたら、すぐにその視線を内側に向けるという意味すら不明でしょう。

でも安心してください。時間をかけてじっくりとゆっくりと、自分のペースで意識を内側に向けるということを工夫しながらやっていけばいいのです。

内側の世界にしばらくいるだけで、外側の世界の見え方が変わってきます。どちらが本当でどちらがイミテーションなのか。

まず何かを見ていなければならない時以外は、とりあえず目を瞑る習慣をつけてみるといいと思います。

視界がブロックされるだけで、自然と意識は内向きになっていってくれるのです。そしてそこにこそお宝が埋蔵されていることに気づけたら、人生が大きく変化してしまうでしょうね。

裁くマインドを使わない

この人間社会で暮らしていれば、必ず何が正しくて何が間違っているか、何が道徳的で何が非道徳的なのかと言ったことがやってきます。

もしかしたら、そんなことばかりを気にしながら生きている人だっているかもしれません。これに関しては、自我の一つの特徴でもあるのです。

自我がこうした考え方に依存してしまうのは、それを自己防衛として利用できるからなのです。自我の目的は自分を守りたい、安心したい、これだけです。

自分自身や他人の言動を見るにつけ、いつもそれは正しいことだ、それは間違ったことだとやっているのなら、防衛ど真ん中の人生だと気づくことです。

誰のマインドであれ、こうした傾向が大なり小なりあるのですが、大事なことはそれを優先的に考えるかどうかということです。

あの男性は可愛い子供が何人もいるのに、外に愛人を作っているのは人間として許されるものではないとか。

あの政治家は日本のことを考えずに、自分の私利私欲のために他国に我が国の情報を売っているような売国奴だとか。

善悪の判断によって、他人を裁く目的は単に防衛なのです。そのことに気づかなければ、自分は正しい判断をしているだけだとして、永久にこの防衛の人生から抜け出すことはできません。

善悪、正不正の判断をしなくなるなんてことは自我には土台無理なことです。けれども、その優先順位を下げる練習はできるはずなのです。

物事を裁くマインドを担ぎ上げないようにすることです。それがあってもそれを使わずにやり過ごすことができれば、人生の見え方が大きく変わってくるはずです。

正しさは、とても大事なことのように思えてしまったとしても、それは防衛が習慣化してしまっただけだと気づくことです。

本当に大切なことは、決して正しさなどではなく、気づくこと。深く気づくことができれば、やってきた甲斐があったというものですね。

内側に意識を向ける

子供の頃は、多くの人が手と手を合わせてやや上の方向に向かって祈りを捧げる姿を見て、神はどこか遠くの上の方にいるのかもしれないと思っていました。

人間は下等で、神は精神的に高いところにいる。そんなイメージが自動的についていたように思います。

ところが、いつの頃だったのかはっきりとは覚えていないのですが、きっと大人になってからだとは思うのですが、神は外側にはいない。自らの内側にこそいると直感的に気づいたのです。

その感覚がやってきてからは、内側の世界に意識を向けずに生きているのは、ほとんど動物と同じだという感じがするようになったのです。

人間であるなら、外側の世界と内側の世界の両方をバランスよく意識する必要があると分かったのです。

神が内側に在るというのは、外側よりも内側の世界の方がはるかに大きいということを理解するのと同じです。

外側の世界が一過性の夢のようなもの、儚い幻のようなイメージに過ぎず、内側の世界こそがリアルなものだと。

ただし、あまりにも五感に頼り過ぎて生きてしまうと、内側の世界をどう捉えたらいいのかが分からなくなってしまうのです。

五感は主に自我のものであり、内側を感じるのは意識の範疇なのかなと思うのです。だから、今日も相変わらず意識に意識を向けることを忘れないことですね。 

マインドへの理解を深める

クライアントさんとセラピストである私の違いは、セッションの時に立場の違いがあるということを除けば、ほとんど同じだと言っていいと思います。

ただ一つだけ、ここが違うのかもしれないという点がありますね。それはやはりマインドに対する理解の深さです。

理性における理解ということでは、違いはないのですが、その理解が腹の底にまで浸透しているかどうかは異なるのです。

一つ例を挙げるとすると、他人に対する客観的な理解度の違いです。「あの人は幸せに違いない」とか、「あの人は恵まれているので自分とは違う」という思い込みです。

どうしても、目に見える物質的なことが目立ってしまうので、そういう勘違いをしてしまうのですが、私たちは内面であるマインドに支配されているのです。

そのことを忘れてはいけません。どれほど物質的に豊かであろうと、多くの人に尊敬されようと、稀有な才能に恵まれていようと、社会で活躍していようと関係ありません。

人は自分の幸せアピールを怠らないので、それにも騙されてしまうかもしれません。けれども、その人が真に満たされているかどうかはひとえにマインドの状態にかかっているのです。

そしてそれは簡単には推しはかることはできないのです。もしもあなたが、幼い頃に親から酷い仕打ちを受けたとしたら、その親のマインドの奥にも似たような苦しみが隠れていると思って間違いありません。

自分以外の誰かのことを羨ましいと思うのは悪いことではないですが、相手のマインドの中を覗くこともできないのに、勝手な結論を出すのは馬鹿げたことです。

マインドのことを深く深く理解すれば、自分のことも他人のことも公平に見ることができるようになり、その結果心から幸せな人なんていないということにも気づけるのです。

幸せですか?と聞かれたら、一番正直な私の答えは、「不幸ではない」というものです。幸せなんて所詮は自我の幸福感なので、そんなものは吹けば飛ぶような怪しいものだと知っているからです。

自我とマインドへの理解をもっともっと深めていくことを、是非みなさんにはお願いしたいと思っています。

なぜなら、それができると自分を惨めな存在だと思っているバカバカしい思考が吹っ飛ぶことになり、もっと悠々とした人生を送れるようになるはずだからですね。

人生ははかないもの

少し前のブログでも書いたのですが、私の人生の根底にあるもの、それはどんなものでもやってきては過ぎ去って行く、これです。

これがとてつもない救いでもあるのです。それが喜びであれ悲しみであれ、どんなことでも留まらずにドンドン過ぎていくのです。

それだけ人生というのはつかの間のものだということ、本当にはかないということなのです。それがあるから生きていられるのです。

ところが自我というのは、何であれそれを捕獲して自分のところに取っておこうとするのです。それを執着と呼ぶのです。

執着は自我にとっては自然なものですが、この世界の法則からするとかなり病んでいると言わざるを得ません。

滞れば腐敗するのです。右から左へ淡々と流れていくことの美しさに気づけばいいのです。それが清々しさを感じさせるのですから。

どれほど大切な人と共にいる時間が愛おしくとも、それも他のものと一緒に流れていってくれるからこそ、光り輝くのです。

人生の素晴らしさはそこにあるのだと思います。そして二度と同じことは起きない。常に流れて変化し続けている。

損をしたと思っても、得をしたと思ってもそんなことは川の流れに浮かぶゴミのように消えていってしまうのですから、どうということはありません。

そして全てが流れ去ったとしても、そこにいつも変わらずにいるもの、それこそが本当のあなたの姿なのですね。