今この瞬間を見る

今年もたくさんのクライアントさんとご一緒に、自分と対面し逃げることなく癒しの作業をしてきました。どなたも、正直に自らの感情と向き合い、たくさんの涙を流しました。

奇跡的な浄化の場面に立ち会うこともあったりして、人ってすばらしいなあと思わずにはいられません。癒す過程がとても愛しいのです。

誰も完璧ではないし、誰だって臆病なはずなのに、ある時神の恩寵がやってきてごく自然と素直になれるのですね。それはもう見ていていつも感動させられます。

こうした癒しも、突き詰めてみれば人生という物語の一つの側面ではあるのですが、辛くてもがき苦しんだからこその晴々とした気持ちになれるのです。

そして、誰もがどこかの時点で今この瞬間を見るということに気づくことになるのでしょう。その時、どんな物語であろうとすべてが消えて、彼方に在る自己に目覚めるのです。

それはどんな音もない静寂な世界。実はそこからあらゆる物語が紡ぎ出されて、騒がしくて魅力的なこの世界が出現しているのです。

そのことを思い出した時に、自分という真実がただ在ったと気づくことになるのです。それでも、いつものようにまた朝がやってきて、人生という物語の続きがやってくるのです。

けれども、昨日と同じ人生でありながらも微妙にニュアンスが異なってくるのです。来年は今年以上に、ただ在る自分を見ることを伝えていけたらいいなと本当に思っています。

みなさんにとって、来年もまたすばらしい気づきがやってきますように!!

どんな深淵な質問も源泉からやってくる

私はずっと子供の頃からいわゆる質問魔でした。勿論、聞いても分からないだろうと思われる人には、わざわざ聞かないのですが、知っていそうな人を見つけるとしつこく質問をしていました。

その傾向は大人になっても、あまり変わらずにいたのですが、ある時自分が本当に知りたいことを知っている人っていないんだろうなと気づいてしまったのです。

それからは、逆に質問をすることが減ってしまいました。それでも、心の中では自問自答をし続けていたのです。分からないことがあると、それを問い詰めるクセは依然として残っていたからです。

けれども、自己探求を始めたときから、質問の内容よりも質問をして答えを欲しがっている自分を見てあげるようになったのです。

誰にも答えられないような質問がやってきたとき、それを解明しようとするよりも、その質問はどこからくるのかということ、誰がその質問をしているのかを見るようになったのです。

そうすると、質問に答えるということにエネルギーを使う必要がないということが分かったのです。どんな質問も、それに対するどんな回答も、すべてが思考の中でのことだということを忘れなくなったのです。

真理にまつわる質問こそが、自分が知りたいと思っていたことであると同時に、そうだからこそその質問に対する答えはどこにもないということと、本当は質問している誰もいないということを知ったのです。

質問をしているのは、私でもあなたでもなく、その質問は源泉から思考の形でやってきて現象化しているものに過ぎません。答えが欲しいという欲求も源泉からやってくる現象なのです。

そこが科学の限界でもあるのです。科学は、私たちが宇宙について知りたいことを探求して、答えを導き出すということを引き受けてくれたのですが、それはやはり思考の産物だったということです。

あなたの本質は思考の中にあるのではなく、思考を生み出す源泉なのですから、質問をしている誰もいないというのは当然のことですね。

どうしても知りたいという真理にまつわる質問がやってきたら、すかさず思考から抜け出してただここに在るということに意識を向ければいいのです。それだけで、すべてが完璧になってしまいます。

真理こそあなたの本質

このブログで一番お伝えしたいこと、それはあなたの本質についてです。セッションの中で通常やっている心の癒しも大切ですが、真の癒しとはあなたの中であなたの本質がそれ自身について気づくことです。

それは、あまりにも単純であって、単純すぎるからこそ捉えどころがないのです。それは、決して私たちが慣れ親しんできた思考では理解することも解説することもできないのです。

自分の本質に気づくために、必要などんな能力もありません。何かの力を使うわけでもないし、何かの能力を開発するという必要もありません。

自分が自分自身に気づくために、何かを必要とするなどということがあるはずもありません。必要なことは、ただ一つだけ、それは何かをし続けることをやめて立ち止まることです。

立ち止まり、心理的などんな活動もせずにじっとして自分の意識に注意を向けるのです。その瞬間、自分が誰かであるということがウソであると気づくのです。

本当のあなたは誰でもありません。何かでもありません。あらゆる思考がやってきては過ぎ去っていくための土台のようなものです。

だからこそ、どんな言葉を使ってもそれを的確に表現することはできないのです。言葉は思考だからです。思考や記憶からやってくる知識をどれほど積み重ねたとしても、それは思考の範疇に過ぎません。

思考を否定する必要はありませんし、勿論どんなものも否定する必要はありません。否定こそが、思考の中での活動に過ぎないからです。勿論肯定も同じです。

私たちの本質は、ただ在るのであって、肯定も否定もどちらも無関係です。あなたが一度でも真理を見たなら、それは完全な真理を見たのです。中途半端に真理を見ることはできないからです。

真理を見ることができるのは、真理そのものだけです。何者かが真理に気づくことなどできません。だから安心して、人間業を淡々と続けていけばいいのです。

真理のことは真理に任せておいてください。真理こそが、あなたの本質なのですから。

必要な苦しみと不必要な苦しみ

今まで生きてきた自分の人生を振り返って苦しんだことがない人というのはいないはずですね。ところで、人生には必要な苦しみと、不必要な苦しみとがあるということをご存じですか?

自分が体験した苦しみというものを、よ~く見てあげていると、必要な苦しみとそうでないものとがあると気づくはずです。それは、たとえばこういうことです。

あの日本中の人を悲しみのどん底に突き落とした、3.11のことを思い出してみて下さい。暖かな心を持った人であれば、誰であれその体験を苦しむことになるはずです。

そして、そうしたことは決してこれからもきっとなくなることはないだろうと、私たちは知っています。生きている限り、誰かの苦しみを感じて、自分も苦しむのです。

それを避けて通ることなどできないという意味で、必要な苦しみと表現しました。私たちは、人の苦しみを自分の苦しみとして感じることのできるすばらしい能力を持ち合わせています。

それは私たちの生まれ持った宝物なのですね。世界中のあらゆる人たちの苦しみから目を背けるべきではありません。何からも逃げずに、そのままを感じることです。

一方、不必要な苦しみというのは、あなた自身が作り上げる苦しみのことです。残念なことに、私たちはそのことに対する自覚ができないのが普通です。

なぜなら、その苦しみというのはあなたの「自分は傷つきたくない」という思いからやってくるからです。「自分の欲望を満たしたい」、「自分は人生をコントロールできるはず」などの思いも同じです。

こうした思いこそが、自分自身を傷つけてしまい、必要のない苦しみの中へと自分を突き落としてしまうのです。心理的に自分を守ろうとする気持ちが強ければ強いほど、苦しみも強くなるのです。

別の表現をするなら、必要な苦しみとは、愛の中で起きるものですし、不必要な苦しみとは恐怖(自己防衛)において起きてくるものなのです。

あなたが今苦しんでいるとすると、どちらの苦しみを体験しているのか、じっくりと見てみることです。必要な苦しみを感じている人は、苦しみながらも清々しい気持ちを持ち合わせているはずです。

来年から、セッション料金が変わります

新しい事務所に引越ししてから、もうすでに丸一年が経過しました。月日が経つのは本当に早いものですね。それとほぼ時期を同じくして、今年の始めよりセッション料金を5000円にしてスタートしました。

料金を低く抑えたことで、若い人や学生さん、あるいは経済的にそれほど余裕のない方でも、来て下さる方が増えたと感じています。

ですので、本当はこのままの料金でずっと続けていけたらいいなと思うのですが、残念ながら収支がマイナス続きで仕方なく来年から値上げさせていただくことにしました。

HP上ではすでに掲載していますが、料金一律7000円とさせていただくことになりました。是非、アベノミクスの効果を期待したいものです。

ところで、何の理由も見通しもないのですが、来年から少し経済的に余裕ができるのではないかという、不思議な予感があるのです。

それが、今やっている仕事がらみでのことなのか、全く予期しないあぶく銭が転がり込んでくるのかは分かりません。勿論、こんな予感は単なる期待感からくるでっち上げかもしれません。

いずれにしても、そういう感覚を楽しんでいられるのはありがたいことです。その一方で、自分のことを世界一することがない人間だと思っています。

そもそも何の予定もありません。ただ、毎日ご予約が入ったら、セッションをするだけのことです。あとは、このブログを書くことくらいしかありません。

あともう今年も数日となりましたね。すでに、冬休みに入られた人もたくさんいるはずです。年末年始、風邪などひかないように、お餅を食べ過ぎて太らないように、健康に注意して過ごして下さいね。

自分の本質を直接体験し続ける

これから先どれだけこの宇宙が続こうとも、また宇宙が誕生してから今日にいたる137億年の間においても、あなたとまったく同じ存在は二人といません。

仮にDNAがまったく同じであっても、何から何まですべて同じ経験をするなどということはあり得ないことですね。だからこそ、あなたという存在は貴重なのです。

SMAP の「世界に一つだけの花」という曲でも言われているように、あなたという存在は二度と現れない唯一の存在なのです。

だから、どんな自分であろうとも胸を張って生きようということ、私も賛成です。そのことは忘れずにいながらも、今日は違う話しをします。

それは、あなたという存在は、この宇宙という現象の中の一つの現象に過ぎないということ。あなたがどんな行動を取ろうとも、それは風が吹いて枯れ葉がヒラヒラと舞い落ちるのと、何ら違いがないということです。

私たちは、この宇宙という現象の一部に過ぎません。何も特別なものではないのです。その現象の一つに思考というものがあり、その思考の中で自分は自律的な存在だと思い込んでいるのです。

そうした思い込みというのも、単なる現象の一つに過ぎないのですが、私たちは普段そのことを忘れてしまっています。だから、自分が歩いている、自分が話している、という具合にただの現象とは捉えないのです。

思考は私たちの本質ではなく、あくまでも現象の一部に過ぎません。私たちの本質とは、あらゆる現象が起きるその土台のようなものです。それに気づいていないなどということは不可能なことです。

それは絵を描くための白いキャンパスのようなものです。どんな絵を描こうと、そこには必ずキャンパスが密着しています。キャンパスと離れて絵を描くことは不可能なことですね。

けれども、自分を身体と同一視する思考によってしか、自分を見ようとしなければ、本当の自分のことが分からなくなってしまうのは当然のことです。

思考を含めた現象をただ見ることを忘れずにいれば、いつどんな状況下においても、私たちの本質である純粋な意識という白いキャンパスのことを、直接体験することができるのです。

見切り発車の勧め その2

自分の心の中に、とにかくやりたいという純粋な情熱があるときには、迷うことなくやり出してしまえ!ということを昨日のブログで書きました。

迷うと、そこには必ず恐れのエネルギーが隙間に入り込んできてしまうので、失敗して後で後悔しないようにと慎重になってしまうのですね。

慎重になることは、決してそれ自体が悪いことではないのですが、恐れによる迷いが大切なチャンスを台無しにしてしまうことがあるということです。

そして、昨日伝えきれてなかったことがあるのですが、それは、もしも突き進んたそのあとで、それが失敗に終わったとしてもそれはそれでいいという潔さも必要です。

本当はもう失敗していると分かっているのに、そのことを認めたくなくていつまでもズルズルそこにしがみついているのは、得策ではありません。

それこそ、新しい自分の可能性をつぶしてしまうことにもなるからです。しかし、こうしたことを言葉にして書くのは簡単なことですが、それを実践するとなると難しいかもしれませんね。

なぜなら、私たちはみな強力な自己防衛システムによって、コントロールされている部分が多分にあるからです。誰もが、失敗したくないし、傷つきたくないと思っているからです。

失敗して傷つきたくないという思いも、失敗したことを認めたくないという心も、どちらもまったく同じ恐怖からやってくるものです。

自分の情熱を信頼して、迷うことなく見切り発車してください。けれども、同時に失敗したならそれを正直に認めて潔く撤退することです。

こうした生き方は、自分の本質に気づいている人とそうでない人とで、いずれ大きな違いが出てくるかもしれません。人生を物語として見ることができるかどうかにかかっているからですね。

見切り発車の勧め

楽器を習ったことのある人なら誰でも、基本をしっかり身に着けることが大事だということは知っていますね。これは、楽器に限らずスポーツにしても、どんなジャンルのものについても言えることです。

けれども、私が高校生の頃にギターを弾き出したとき、ドレミファの音階もろくには知らずに弾いていました。あのバンドのあの曲の中のあのフレーズを弾けるようになりたい、そういう一心だったと思います。

思い返すと、小6のときに初めてテレビで見た衝撃のバンド、一体彼らが何者なのかも分からないままに画面に釘付けになったのをはっきり覚えています。

数年後に知ったのですが、彼らが何を隠そう、レッド・ツェッペリンだったのです。といっても、何十年も前のバンドのことですから、このブログを読んで下さっている人の中の何人が知っているでしょうか?

小学生の自分が衝撃を受けたあの曲は、彼らのデビューアルバムの中に収められていた「コミュニケーション・ブレークダウン」という曲でした。

そして、高校生になったときに買った彼らの4枚目のアルバムに含まれていた、「天国への階段」という曲のリードギターのパートをどうしても弾きたくて、練習を始めたのでした。

本当にドレミファも知らないままに、ただただコピーしていたのです。ギターが好きな人だったら、似たような経験をしている人も多いのではないでしょうか?

ちょうどそのころ、高2だったかな、彼らは今は幻のコンサートと言われる、武道館でのコンサートをやってくれたのです。自家用ジェットでやってきて、演奏をして、あっという間にジェットで本国へ帰っていきました。

そのコンサートに行くために、初めてジーパンを買ったのを覚えています。今では考えられないことですね。そのジーパンを履いて出向いたコンサートでの一曲目は、確か大ヒットした「移民の歌」だったと思います。

ギターに話しを戻すと、上達するにつれて、いろいろな曲を弾けるようになりたくて、そこで壁にぶつかるのですね。そうなって初めて、基本を学んでみようと思い立つのです。それでいいのだと思うのです。

人生も同じかなと。堅苦しいと感じるルールも、とても役に立つときがありますので、全面否定する必要はありません。けれども、あなたがやってみたいと思うこととあなたの間には、何のルールも横たわってはいません。

ただ、やり始めればいいだけです。やり出してから必要に応じてルールを使うなり、微調整していけばいいのですから。何事も堅苦しく考えずに、乗り出すことですね。

私が、セラピストとして始めたときも、本当に何にも考えていませんでした。完全なる見切り発車です。でも、もうそろそろ丸12年が経とうとしていますが、いまだにこうしてセッションを続けています。

何かをやりたいという純粋な気持ちの奥にあるエネルギーの強烈さを信頼して、とにかく突き進むことです。そのことが、道が開ける最善の方法なのだと思います。

真っ暗な中に輝く光を見る実験

今日は、何も思い浮かぶことが出てこないので、最近自分がやっていることの一つをお伝えしてみます。単にイメージの中でやっていることなので、誰でもできることです。

みなさんは、目をつぶると真っ暗になって、何も見えなくなるということをご存じですね。そのことを疑ってかかる人はあまりいないはずです。

何も見えなくなるということは置いておくとして、真っ暗になるというのは本当のことでしょうか?もしもそうだとしても、それをイメージで変えてみたらどうだろう、ということです。

何でもいいですから、眩しい光を見ているように想像してみるのです。それが、真っ白な光でもいいし、ゴールドに輝く光でもその辺は自由にやってみて下さい。

慣れてくると、真っ暗だと思っていた世界が光輝く明るい世界へと変貌します。はじめのうちは、うまくできないかもしれませんが、それでも何度もチャレンジしているうちに、それはやってきます。

そんなことをやっているうちに、光が自分の外側にあるのではなくて、自分自身が光だったということに気づくことができます。

だから、光源がなくても私たちはすべてを見ることができるということです。このお遊びは、完全に真っ暗にした部屋で目を開いたままでも同じようにやることができます。

自分の体調などによって、見える光の形や色が微妙に違ってくるのも面白いものです。いつだったか、仏像のようなものの後光をイメージしたら、驚くほどの光が見えたときがありました。

イメージとは、面白いものです。バカにできません。だって、この現実にしても究極的にはイメージに過ぎないということをどこかで感じることができますから、私たちが知っている実在とイメージは本当は同じものなのだと思うのです。

ただ、予め言っておきますが、この遊びにはこれといって何の意味もご利益もあるとは思っていませんので、そのつもりで楽しんで下さいね。

受け入れるということの難しさ

セッションでは、いつも「受け入れること」についてお話しをさせていただいています。それが、癒しの本質だからです。「癒し」という言葉の響きには、どことなく解毒のようなニュアンスが含まれていますね。

都合の悪いネガティブな感情を洗い流して、クリーンで清潔な心に戻す作業のような連想をされている方もいらっしゃるかもしれません。

確かに、心の奥に溜め込んだ感情を逃げずにしっかり味わって、感情を解放するということが癒しにはどうしても必要なことであるのは間違いありません。

こうしたことは、癒しの初期の段階では必須のことだと言えます。だからこそ、催眠療法のような技法を使って、年齢退行のセッションをするのです。

けれども、そのような心理療法をいつまでもやり続けるわけにはいきませんし、どこかの時点ですべてが解放されて、ピッカピカの心を取り戻せるわけでもないのです。

人の心は常に不完全であって、否定的な部分がなくなってしまうなどということなど、どこまで行ってもないのですから。だからこそ、「受け入れること」が癒しの神髄なのです。

「受け入れること」は、とてもシンプルなのに、なかなか実践できないものです。それは、私たちは無自覚のうちに頭の中に浮かんできた思考に巻き込まれて生活しているからです。

やってきた思考は、すべて過去から到来したものです。それも、目的はただ一つ、自己防衛を続けることなのです。それが、自我の全貌です。

「受け入れること」がなぜ癒しの本質なのかというと、それだけが過去からやってきた思考に乗っ取られずにいる唯一の状態だからです。

「受け入れること」だけが、今この瞬間にいることを可能にさせてくれるのです。だからこそ、自我の中心である自己防衛システムは、強烈な力であなたをそこから離そうとするのです。

「受け入れる」とは、自分や誰かの行為ではなくてその存在を見ることです。存在に対しては、努力なしにただ「受け入れること」しかできないのですから。