ただ自分自身を感じる

毎日生きていると、ただそれだけで様々なことがやってきて、その刺激の中で翻弄されたり影響されたりしながら生が流れていくのです。

そんな中で、比較的ヒマな人もいるだろうし、忙しさに巻き込まれて四苦八苦している人もいるかもしれません。

どんな人生であれ、それが間違っているということはないのです。なぜなら、それが起きたということはそれが起きることだったからです。

ただ、自分にとって都合の悪いことだと思えば、それは決して起きては欲しくなかったと現実を恨めしく思うかもしれませんね。

どんな人生であれ共通して言えることは、ほんの少しの時間で構わないので、ただ自分自身を感じる時間を作ることです。

これはとても大切なことです。そうした静かな時間を持たずにいると、知らぬ間に自分のことよりも起きていることの方にばかり気が向くようになるからです。

大事なことは何が起きたかではなく、そこにいるあなたの存在こそが最も大切なものだということです。

ここを間違わずにいること。そのためにも、一日に一回、心を静かにして意識を内側に向け、ただただ自分自身を感じるのです。

その静寂、その空間こそが自分の本質なのだと気づくことになるはずです。少しずつ実践することをお勧めします。

不可能に挑戦しない

何か物凄い勘違いをしている人がたくさんいるように思うのです。人は、他のすべての動物と同じで天使ではないということ。

私たちが住むこの世界は二元性の世界であり、それは簡単に言えば一つのコインには表と裏が必ずあるという世界。

表しかないコインはこの世界には存在できないということ。つまり、二元性の世界に生きているあなたにも表の部分と裏の部分があるのです。

それは表現を変えれば、自分にとって都合のいい部分と、都合の悪い部分があって、どちらか一方だけということは不可能なのです。

怒らない人になりたいとか、強欲な人からそうでない人になりたいとか思うのは勝手ですが、この二元性の世界では不可能なことです。

明るい部分も持っているけれど、暗い部分もしっかりあるということ。これは絶対的なことなのですね。

この原理原則を忘れずにいること。それをしっかり理解して、受け入れるしかないということに気づくこと。

不可能に挑戦することくらい、バカバカしいことはありません。ここまでしっかり理解することができれば、人格者になろうとする人がいなくなるはずです。

人格者というのは、理想的な人のことではなくて、実を言えばこういった原理に気づいた人だとも言えるのですね。

受け入れれば満たされる

私たちは誰もが幸せになりたいと願っています。その幸せというのが一体どういうものなのかをあまり考えることもなしに。

その漠然とした幸せを求める気持ちというのは、もう少し精度を上げて見てみると満たされたいと願っていると気づきます。

満たされたいというのは満たされてはいないからですね。満たされていないというのは、不平不満、希望が叶えられていないというものです。

満たされようとして誰もがやろうとすることは、一生懸命努力をすることだったり、強く願うことだったり、戦略的に生きることだったり。

つまりは、満たされるためには得ることを前提としているわけです。得ることなしには満たされないと信じているからです。

けれども、心理的なことをじっくり見つめてみると、満たされないというのは状況を受け入れられないからだとわかります。

もしもあなたが受け入れてしまったら、満たされようとする欲望は消えていってしまいます。これがマインドの原理です。

結論として、もしもあなたが誰よりも満たされたいと願うなら、人一倍受け入れるようになればいいだけだということです。

自我にとっては受け入れられないことが山ほどありますが、どうして受け入れられないのかというのを、一つひとつじっくりと検証してみることもありだと思います。

そしてほんのちょっとしたきっかけによって、これまで受け入れることができなかったことでも、自然と受け入れられるようになることもあるかもしれませんね。

思い込みを外すには?

幼い頃からずっと、お前はダメだ!、お前のままではどうしようもない、もっとこうならなければならない、そう言い続けられたとしたら…。

しかもそれが親の怒りのエネルギーと共に突き刺さってきたとしたら、その子はどうなるのでしょうか?

幼い子供であれ大人であれ、自我は自分の存在が危ぶまれるのが最も怖いので、できる限り相手の希望に沿うようになろうとするでしょう。

そうなったら、ああ自分て何てダメな奴なんだろうという固定観念が出来上がるのです。それをずっと信じて生きていくことになるのです。

そんな病んだ親の期待に応えようとして必死に頑張るのですが、大人になったあなたは決してダメじゃないよという言葉を聞いても、そう簡単には受け入れられないのです。

それはなぜなのでしょうか?私が思うに、自分はダメだという思考と自分の存在を同化してしまっているからではないかと。

同化してしまっているので、ダメな自分ではなくなってしまったら、自分が消えてしまうという恐怖がやってくるのです。

だから、安易にそうか自分はダメな奴なんかじゃなかったんだとはならないのです。全ての思考は自分という存在とは違うものです。

自分は思考ではないということをしっかり自覚することができれば、どんな思い込みであれいずれは外していくことができるはずですね。

体験よりも観照者に焦点を合わせる

先日のブログで、この世界の中心はあなたであり、万物はあなたの中を通り過ぎては消えていくということを書きました。

実は、その通り過ぎていくものの中にあなたの体験も含まれるのです。自我のレベルでは、体験がとても大切なものだと思われています。

けれども通り過ぎていくものに真実はありません。真実というのは永久不滅だからです。体験は一過性のものです。

そして体験よりも体験する者こそが真実なのです。もっと正確に言えば、体験する者とは、体験を観照する者のことです。

つまり、観照者だけが真実だということです。あなたが何かを体験しているとき、その体験がどれほど素晴らしいものであろうとです。

体験よりも、観照者に焦点を合わせなさいと osho は言います。この感覚を持って生きている人がどれほどいるのか?

なかなか難しい発想の転換と練習が必要ですね。ただし、このブログで常にお伝えしている、いかに意識的であるかということと連動することでもあるのです。

意識的であるなら、必然的に体験そのよりもその観照者に焦点が向くようになるはずだからですね。

直面か?先送りか?

政治の世界では、特に他国との間の外交問題が起きた時に、よく聞く言葉として「棚上げ」というのがあります。

要するに、その問題をすぐには解決することが難しいので、それを一旦棚上げしておいて、それ以外の外交に取り掛かりましょうということです。

問題は解決してはいないのですが、他国との関係はずっと継続しなければならないので、敢えて取る大人の方法ですね。

私たちは、こうしたやり方を個人的なことにも適用しているのです。とりあえず、この問題は置いておいて…、という方法です。

このやり方を自らのマインドに対して多用してしまうと、思い残しやわだかまり、否定的感情の蓄積といった困った問題が起きてしまいます。

場合によっては、ご自身ではっきりとした自覚があって、来世への先送りがいっぱいあるなどと表現される方もいらっしゃいます。

osho が言うように、恐怖を超えていくためには、それに直面しなければならないし、苦悩を超えるためには、それに直面しなければならないのです。

そんなことを言われても、実際には荷が重いと感じてしまうことが沢山あるのも事実です。だから私は個人的には、棚上げしようと先送りしようとOKだと思っています。

その代わり、ここぞというチャンスが到来したと感じた時には、少し立ち止まって逃げずにいてみようと思ってみるのもありなのかなと。

見方の違い

ものの見方というか視点というのか、そういったものは個人個人で少しずつ違いがあるものかもしれません。

例えばセッションの中で、クライアントさんに対して自分の内側に視点を向けてくださいと言うことがあるのです。

その時に、その意味が分からなくて困ってしまうこともあります。日頃どのように見ているのかによるのですね。

このようなことは、国民性にも大きく影響しているということを最近知りました。日本人と英語圏の人の見方が決定的に違うのです。

日本人は自分がいるところから相手を見るので、そこに自分の姿はありません。ところが、英語圏の人は外側から自分と相手の姿を見ているのです。

つまり、彼らはよく言えば俯瞰しているということです。私たちは自分の国のことを我が国と表現しますが、彼らは our country とは言わないのです。

その代わりに this country というのです。直訳すればこの国という意味になりますが、それは実際には我が国という意味なのです。それだけ視点が異なるのです。

どちらの見方が正しいということでもないのですが、それぞれに良いところとそうでないところとがあるのです。

俯瞰する見方のいいところは、偏りのない全体的な見方ができることです。一方の日本人の見方の利点は、直接的なところです。

ただ残念なことに、私たちは自分の姿が見えないのにも関わらず、そこには相手と同じ姿をした自分がいるというイマジネーションを作ってしまうのです。

その無駄な作業に気づいて、それを排除することができるなら、この世界に個人としての自分はいないということに気づくのです。

それと同時に、この世界全体こそが自分の本質なのだということにも気づくことになるのですね。

あなた自身でいること

私たちが気づいて実践すべきことは、他でもないたった一つだけ。それは、ただただ自分自身でいようと努めることなのです。

誰かの従順な奴隷になることをやめ、何者かになろうとすることをやめること。あなたはあなたでしかないのですから。

あなたがあなたらしくいることは、とてもシンプルなことなのですが、それがとても骨の折れることになってしまっているのです。

両親からの圧力、社会からの強制、最後は自分自身からも強いられて、結局あなたの中のあなたらしさが奪われてしまうのです。

誰かの役に立とうとすることや、自分の居場所を探す代わりに、十全にあなた自身であればいいのです。

恐怖のあまりに自分を守ろうとして、あなたの中のあなたをどこかへ押しやってしまうのですが、それを止めること。

本当は、あなたがあなたであることを邪魔するものなど、どこにもないのです。身体の力を抜いて、ハートを開くのです。

全体は、あなたがあなたであることだけを望んでいるし、それを絶対的に保証してくれてもいるのですからね。

未来の自分からの声を聴く

人生を生きていれば、誰であろうと必ず今人生の岐路に立っているなあと実感することがあるはずですね。

その時に大抵の場合、憂鬱に感じたり辛いなあと感じることになるのです。それは、自分で1番最良の道を選ばねばならないと思うからです。

要するに間違ってしまうことを恐れるあまり、荷が重いと感じて参ってしまうのです。重圧に負けてしまうとも言えます。

けれどもそんな時、一つやって欲しいことがあるのです。それは、何年後でも構わないので、未来の自分からの声を聞こうとするのです。

未来の自分であれば、もうすでに今を通過した経験者として、落ち着いた感覚で大切なものを伝えてくれそうではないですか?

実際、他の誰の助言よりも未来の自分からやってくる言葉が最も信頼できるのです。どれを選択していいのか悶え苦しんでいても、未来の自分はそれとは全く違く視点を持っているのです。

そして多くの場合、岐路に立っていると言っても、物事はあなたが思っているように複雑ではないと教えてくれるはずです。

本当はとてもシンプル。なぜなら、あなたが正しい選択をするのではなく、そうなることになっている道が選ばれるだけだからです。

あなたに責任はありません。しかも、人生全体を見渡せる視野を持っているなら、正しい選択も間違った選択もないと分かります。

とにかく一度未来の自分の声を信頼してみてください。きっと、何かがストンと腑に落ちた感覚になれるはずですね。

あなたは宇宙の通り道

この宇宙、この世界ではおよそすべてのものが流れているのです。文字通り流れ星しかり、川の流れしかり、あなたの血管を流れる血液もそうですね。

流れていることが自然であって、それがどこかでストップしてしまうと不自然なことになってしまうのです。それは病気です。

もしも川の流れがどこかで滞ってしまうと、水の汚れが酷くなり、終いには腐り出すことになるのです。澱むということですね。

この世界の中心はあなたであり、万物はあなたの中を通り過ぎて消えていくのです。その感覚を大切にすること。

夏がやってきて、やがて秋の到来とともに夏は去っていくのです。つまり、夏があなたの中を通り過ぎたわけです。

その時に、ああ夏が行っちゃうのが名残惜しいとなるのはいいのですが、それでも潔く手を離してあげることです。

あなたの中を通り過ぎるどんなものも捕まえたりしないこと。悲しみがやってきたら、逃げずにそれを見守ること。

それを握りしめたりせずにいれば、自然と通り過ぎていくのですから。怒りについても同じです。捕獲しないこと。

やってきたものを隠したり小突き回したり、責めたりせずにただ過ぎ去るのを悠々と待つことです。それが自然だからです。

その時、ああ自分はただ宇宙の通り道なんだなと気づくのです。そうなったら、いかなる執着も他のものと一緒に流れていってしまうでしょうね。