進歩も後退もない

若い頃から、「3歩進ん2歩下がる」という言葉があることは知っていたのですが、どこかで自分には無関係だと思っていました。

せっかく3歩も進んだのだから、2歩下がるなんてありえないと思っていたのでしょう。何歩であろうと、進んだ分を奪われたくないということです。

しかも、奪われることはないとも思っていました。ところがです。年齢を重ねていくうちに、あれ待てよ、となってきたのです。

なんであれ、一直線に進み続けることなんてないのかもしれないと思うようになりましたね。もちろん実体験からです。

たとえば、何かを深く知るようになると、それまで気づけなかったことに気づくようになるために、新たに知る必要のあることが見えてくるのです。

それは後退しているわけではありませんが、キリがないなあということに気づいてちょっと大変だなと思うのです。

癒しについても同じようなことが言えます。セッションを通して、様々な気づきがやってくるのはいいのですが、その周辺がより鮮明に見えてくるのです。

そうなると、新たに癒すべきところが増えてしまったという感じになったりするのです。場合によっては後退したと感じてしまうかもしれません。

私は後退してるわけではないと知るに至りましたが、それでも感覚的にはそう感じてしまうのは仕方のないことですね。

癒しを進めるという表現をつい使ってしまいますが、実際には培ってきたものを手放していく作業なので、元に戻していく作業という方が正確です。

そこに気づくことができれば、進むとか後退という概念とは無縁だと分かって、ちょっと気持ちが楽になるはずですね。

どこにも行き着かない

以下の osho の言葉をしっかり胸に刻んでおきましょう。

『生はどこでもないところからどこでもないところへの旅だ。それを通して達成されるものは何もない。誰ひとり、生を通して何かを得た者はいない。

人々は走る。疾走する。そしてどんどんスピードをあげてゆく。が、彼らはけっしてどこにも行き着かない。』

私たち(自我)は、より早く、より強く、より高く、より賢く、より多く、より正しく、という戦いにいつも挑んでいます。

このままでいいとは決して思っていない証拠です。昨日よりも今日、今日よりも明日という具合に進み続けようとするのです。

ところが、osho が言うように生はそれを通して達成するものなど何もないのです。本当は誰もがそのことを知っています。

知っていながらそれを認めようとしないのは、自我にとっては走り続けなければ底なし沼にズブズブと沈み込んでしまうと恐れているからです。

実際前へ進んでいる気がしなければ、自我は憔悴してしまうのです。自分はまだまだイケると思ってはいませんか?

いやいや、どこへも行く所などありません。それを腹の底から認めることができるかどうか、そこには大きな気づきがありますね。 

意識的であれば思考は入れない

思考がグルグル回り続けて止めることができずに困っている人が沢山いますね。思考に抗うことはとても難しいものです。

それが困難であるのは、思考を止めようとするからです。思考を止めようとすればするほど、ラッキーとばかりに思考がやってきます。

その理屈を理解する必要があります。それは、思考を止めようとすること自体が思考だからです。意志というのは思考の一部なのです。

だから自分の力で思考を止めようとすることをまずは諦めること。その上で、思考が寄り付けない状態になればいいのです。

あなたが充分に意識的であるとそれがバリアのようになって、思考はあなたの中に入ることができなくなるのです。

もしも瞑想をするとしても、心静かに座して目を閉じて…、のような型にはまったやり方にとらわれる必要はありません。

もっと自由に、例えばいつもより少し目を見開くような状態にして、あなたが今いる部屋の周囲の音に耳を傾けるのです。

見開いた目は、どこを見るでもなく部屋の宙に向けていればいいです。目よりも耳に意識を向けた方がうまくいくかもしれません。

そしてもしも思考が忍び込んできたら、それをただ見る側になっていることができれば、いずれは出ていってくれます。

人それぞれ好みが違うように、自分に合ったやり方を模索するといいと思います。いずれにしても、意識があなたを救うのです。

自我の不思議

もしもあなたに、たった今完全なる満足、とてつもない充足がやってきたとしたらどうなると思いますか?

すぐには想像できないかもしれませんね。私自身もその感覚がはっきりとは分からないというのが正直なところです。

けれども、20年以上にわたって自我を見つめてきた経験からすると、自我が崩壊することは間違いないでしょうね。

自我を支えているマインドの思考群が、一つにまとまっていることができなくなって、溶けていってしまうのです。

それはまるで一滴のインクを水の中に垂らしたような感じで、すぐに水の中に広がってインクは溶けて消えてしまうのです。

なぜそんなことが分かるのかというと、自我が何を頼りに一つのまとまりを維持しているのかを知ったからです。

それは不満、不足感、欠乏感、そういったものがベースにあって、そこからそれを解消しようとして欲望が生まれるのです。

その欲望を原動力として、思考が塊となってマインドの働きを継続しているのです。欲望は自我の死活問題です。

だから完全なる充足は、自我にとっては命取りになるというわけです。自我という個人とは不思議なものですね。

いつだって満たされたいという不満を抱えていながら、万が一満たされたなら消えていく運命にあるのですから。

どこでもなさを感じてみる

この広大無辺の宇宙がずっと膨張し続けているということは、多くの人にとっての常識となっているかもしれませんね。

もっとも自分がこの目で見たわけではないので、物理学者の言うことをただそのまま信じているだけですが。

ではこちらはどうでしょうか?宇宙には中心がないということ。これも確か、物理学的に言われていることだったと思います。

けれども、この件に関しては、個人的には学者の言うことを信じているというよりは、どこかでそれを知っていると感じます。

というのも、そもそもが中心という概念は特定の形のある対象物に対してのものだと理解しているからです。

中心があると自ずと周辺もあるのです。宇宙に周辺があるというのはこれまで聞いたことがありません。

宇宙に中心があるとしたら、それは物理的な中心ではなくて、もっと違う次元の話しになるのかなと思います。

私の場合は、自分が宇宙のどこかの一点を占有しているという感覚を持っていると同時に、どこでもなさというのも持っています。

その感覚は、表現が全く異なるのですが実は全体性と同じものです。どこかの一点の感覚よりも、どこでもなさの方が気に入っています。

きっと真実はそちらの方なのだろうなと感じるのですが、皆さんはいかがですか?雨の夜中をそんなことを意識しながら過ごすのもありですね。

潜在意識は過去の貯蔵庫

セラピストとしてのキャリアが20年を超えた今、自分としてはごく当たり前になってしまっている様々な事があります。

私たち人間のマインドについては、世間一般に理解されているようでいて、実はあまりきちんと知られてはいないのです。

例えば、もしもあなたの年齢が40歳だとしたら、そのあなたのマインドには0歳の頃から現在に至るまでの全ての自分がいるのです。

自分はもう40歳になって、そんな幼い頃の自分が潜んでいるはずはないと思うかもしれませんが、実際には潜在意識の中には盛り沢山の自分がいます。

もう少し具体的に言えば、潜在意識の中にはこれまで生きた中で解決してない事柄、わだかまっていること、思い残していることなどがぎっしり詰まっているのです。

そのエネルギーは主に感情です。それに思考が絡まった状態で、かなり頑固に居座っているのです。それはあなたに見てもらいたいのです。

それぞれの自分が現在の自分にしっかり認識してもらって、思い残しを解決して欲しいと願っているのです。

円錐形をイメージしてみてください。その円錐の頂点の尖った部分が0歳のあなたであり、円錐の底面が現在のあなたです。

そしてその円錐の体積こそが、あなたのマインドの内容物であると思えばいいのです。面倒臭いですが、これが事実です。

過去は過ぎ去ったというのは嘘です。あなたのお腹の中は、過去のエネルギーで満たされていることを忘れないことですね。

そしてその内容物が手に負えないという場合には、セラピストの力を借りて、過去を癒すことが必要になるのです。

自分と周囲のどちらが動いている?

今や当たり前になったカーナビ。クルマを運転しない人であれ、誰でも一度や二度はその画面を見たことがあるはずですね。

その画面の真ん中やや下辺りに矢印のようなマークがあって、それが自分のクルマの位置を示しているわけです。

クルマを走らせると、そのマークは微動だにせずに周りの地図情報だけが動いていくのが分かります。

逆に固定した地図情報の中を、自分のクルマのマークが動いてしまうとしたら、ちょっと不便ですよね。場合によっては見失ってしまうかも知れません。

ところで、春が来たとか季節が巡るといった言い方をしますが、あれは自分は固定されていて季節の方が動くというイメージですね。

つまりカーナビで言えば、クルマのマークを固定した状態と同じということです。何が言いたいのか分かってきたと思います。

要するに、自分は微動だにせずに周囲の場所や季節(時間)が動いているという感覚の方が自然だということです。

それなのに、なぜ私たちは普段自分が行きたい場所に移動すると考えるのでしょうか?それはきっと大きさの問題なのではないかと。

自分の身体とこの地球の大きさがあまりにもかけ離れているため、地球の代わりに小さな自分が動いているとみなした方が自然なのでしょう。

けれども、本当のところはどちらだと思いますか?充分に意識的であるとき、その答えが分かる気がします。

自然に回帰する

自我というのは、とにかく何であれ手に入れたいという強い願望を持っています。その理由は、自分は足りないが根っこにあるからです。

足りないという思いからスタートしているので、それが満たされるまで、それを夢見てひたすら外側から手に入れようとするのです。

それが人生ですが、足りないものが足りるようになることは決してありません。だから人生ゲームに上りがないのです。

終わってしまっては、自我の推進力がなくなってしまうため、それは絶対に困るわけです。だから決して満たされては困るのです。

そんなシンプルな仕組みを理解しようともせずに、ひたすら馬車馬のように頑張るのです。このバカバカしいゲームにしっかり気づくこと。

どれほど努力したところで、結果は見えています。癒しというのはその反対の向きに気づいて実践していくことなのです。

つまり、外側から手に入れてきたあらゆるガラクタ、本人は宝物だと思い込んでいるかもしれませんが、そこから脱出すること。

要するに培ってきたものをなるべく使わないようにして、ウブな子供のようになっていくこと。不安は無くならないことを受け入れること。

そうやって癒されていくと、それまでとは全く違った世界が見えてきます。自分の自然な姿が見えてくるからですね。

身体との同一化を外す方法

かつて、「ミクロの決死圏」というアメリカのSF映画があったのをご存知でしょうか?今調べたら、1966年公開だそうです。

ある人の病気を治すために、医療チーム全員がものすごく小さくなってその患者の身体の中へ入って行くというものです。

宇宙船のような乗り物ごと極小になって、確か注射器の中に入って体内へと送り込まれるのだったと思います。

あるときは血管の中を白血球や赤血球を見ながら進んでいったり、抗体に異物だと思われて襲われてみたり。

人の身体の中での大冒険活劇なわけです。なんでこの話しをしたかというと、どうやったら身体への同一化を捨てられるかを考えていたからです。

私たちが、自分は身体だと思う時、一定の大きさの身体をイメージしているはずですね。いつもそばにあるこの大きさがカギです。

遠くから自分の身体を見たり、逆にこの映画のように近距離で身体の中を覗いたりできたとしたら、それでも同一化し続けられるのか?

イメージしてみると、ちょっと疑問な感じがしてきませんか?やっぱり、これが私だと言えるのは、意識だけだと感じる気がします。

もしも映画の中の患者が私であって、体内での様子をリアルタイムで見ることができたとしたら、そこに映し出されている身体の内側を自分だと認めるのは難しいと思いますね。

執着は理解を鈍らす

あなたが拳を握りしめようとすると、そこには必ず執着が生まれてしまいます。一度手にしたものを奪われたくないと。

執着が悪いというのではなく、それは理解を鈍らすということです。このことはあまり知られていないかもしれません。

私たちのマインドは執着をするようにできているし、誰であれ執着するメカニズムを持っているのです。

問題は、その執着する対象に対して、深い理解をすることができなくなるということです。執着によって目が曇ってしまうのです。

例えばお金に執着すれば、お金の本質を見失うことになるし、誰かに執着すれば、その人のことを理解することができなくなるのです。

勇気を持って、その人のことを見守ることができれば、執着は自ずと外れていくものです。だから手のひらを開いたままにしておくこと。

逃すものかと手を握り締めれば、その中を覗き込むことができなくなってしまいます。深く理解すること。

それを気付きと呼ぶこともできます。執着を意志の力で取ろうとするよりも、そのメカニズムを理解することで、それは消えていってくれるはずですね。