昨日のブログへの補足

昨日のブログで、自分の幸せを求めることを放棄することは理に叶っている、自分を幸せにするどんな義務も責任も果たす必要はない、ということを書きました。

真剣に読んでいただいた方の中には、違和感を感じたという人もいるかもしれませんね。なぜなら、いつもとちょっと違うことを言っているからです。

気をつけなければいけないのは、何らかの理由で自己犠牲を自分に強いてきた人が、この記事を鵜呑みにしてはいけないということです。

まずはしっかり自己表現をして、立派なエゴとして生きることができなければならないのです。自分本位の生き方が身についている必要があるのです。

そうでなければ、自己犠牲のままに幸せを放棄するとしたら、それこそ自己犠牲を継続させてしまう可能性があるからです。

十分に我がままに自由に生きて、そしてそれでもこの生き方では決して満たされないと知るに至った時にこそ、幸せを放棄するという地点に辿り着くのです。

自分のために生きてきたという明確な自覚なしに、自分のために生きることを放棄するなどというのはとても危険なことです。

そういう意味では紛らわしい内容を書いてしまいましたが、このブログは自分が書きたいことを書いているので、読まれる場合には気をつけてくださいね。

より気楽に生きるには

一般的に言えば、私たちが目指しているのは自分自身が幸せになることであり、それが成就した先にようやく他人の幸せも願うことができるのです。

誰もが幸せになりたい、辛く苦しい人生から解放されて、自由で気持ちのいい人生を生きたい、そう願っていると言ってもいいと思います。

ところが、冷静に自分自身を見つめてみると、これが自分だと思っている自我は決して真に満たされることがないという究極の皮肉があるのです。

自我というのは、満足したいと願っていながらそれが本当に実現してしまうと消滅してしまうのです。自我のエネルギー源は不満、闘争、欲望などだからです。

真に満たされてしまえば、自我は餓死するしかないのです。そのことを見ないふりをして、どこまでも自分の満足を手に入れようとし続けるのです。

腰を据えてじっくりとこうした仕組みを見つめてみると、だったら自分の幸せを求めることを放棄することこそ理に叶っていると言えないでしょうか?

自分を満たそうとすることから離れてしまえばいいとも言えます。もしかすると、これってものすご〜く清々しい感覚で生きるためのコツかもしれません。

自分を幸せにするどんな義務も責任もなくなってしまうし、これまで自分を満たすために使ってきたすべてのエネルギーを余裕で他のことに充てることもできる。

今日の内容は理屈では完璧に理解していたことですが、それが少しだけ腑に落ちたという感覚になったので書いています。

元々かなり気楽に生きてきたつもりですが、さらに気楽さが増したように感じています。この先私の自我がどのように反発するのかを見てみたいと思います。

何でもなさに気づく

子供の頃からずっと、親や学校あるいは社会から「何者かになれ!」と言われ続けて成長してきたのです。

そのために誰もがまだ何者でもない子供時代から、このままではいけないと思い始めてしまうのです。

いつかは何者かになるべく、つまりは何かを成し遂げて、周囲から認められる存在になるために、精一杯頑張ろうとするわけです。

そしてそのことを疑うことがないのです。いつまで経っても、社会から認められたと思えずにいる人は、何者かになれなくて自己否定するようになるかもしれません。

けれども一度でも立ち止まって、じっくりと自分の内側深くに入り込むことができたら、自分は何者でもないし、それが変わることはないと知ることになるのです。

何者かになったというのは非常にバカバカしい幻想でしかなかったと気づくのです。自分のなんでもなさを見つけてしまったら、それが何かに変化するなどという考えは起きません。

ないものはないのですから。何もないからこそ、比較の対象になることもないし、評価の対象にもなり得ないと分かるのです。

自分の何もなさに気づいた人から順番に、義務や責任からも解放されるし、欲望や罪悪感からもゆっくりと遠のいて行くことになるのですね。

内側を見るようになった理由

最近ふと気づいたことがあるのです。それは、自分は比較的小さな頃から内的世界で生きてきた自覚があるのですが、なぜそうなったのかについての面白い気づきです。

もしかすると身体の具合があまりよくなかったからなのではないかと思うのです。身体の内側からやってくる様々な感覚というのは、当然内側の世界です。

そのせいで、外側への興味が継続しそうになっても、身体からの黄色信号がやってくるとそれが邪魔をしたのではないかと考えられるのです。

身体が丈夫で具合の悪さをあまり感じたことがない人からすると、何を言っているのかあまり理解しづらいことかもしれませんね。

例えばこういうことです。明日は楽しい遠足だと思ってウキウキしている時に、突然お腹が痛くなったとしたら明日出かけることが不安になるはずです。

そうなったら、楽しみなはずの遠足が逆にうとましく感じられるようになるかもしれません。それに似たようなことが沢山あったのではないかと。

それで自ら身体の内部からやってくる不快感や痛みというのは、いったい何なのだろうと考えたりして、自然と内側に意識を向けるようになったのだろうと。

最初は身体への関心だったものが、次第に心の方へと関心が移っていったのだと思います。そして最終的には、心よりももっと奥底へと興味は移って行ったのですね。

外側の世界よりも内側の世界に興味を持って、益々意識を向けるようになったのは、そんな意外な原因があったのかなと。

そう考えると、具合の悪さで人生の楽しみを損しているなと思ったりもしたのですが、今となっては自分にとっては好都合だったとも考えられるのです。

人生というのは、何が功を奏するか本当に分からないものですね。今では、自分の感覚として外側2で内側8の比率くらいで生きている感じがしています。

素粒子には自己同一性がない

私:素粒子には自己同一性がないということについて教えて。

AI君:量子力学において、素粒子は波動関数として表され、その位置や運動量などの物理量は確率的に予測されます。つまり、素粒子は確率的な存在であり、ある時点での位置や運動量は確定的に決まっているわけではありません。そのため、素粒子の「自己同一性」を確立することはできません。

また、素粒子は他の素粒子との相互作用によってもその性質が変化することがあります。例えば、素粒子同士が衝突すると、新たな素粒子が生成されたり、既存の素粒子が消滅したりすることがあります。これらの相互作用によって、素粒子が持つ性質や特徴が変化するため、「自己同一性」という概念が適用されないとされます。

私たちは、精神が破綻していない限りは、昨夜眠りについた自分がその続きとして今日目覚めることを知っていますね。

また、街で誰かと鉢合わせしてぶつかり合ったとしても、突然それまでの自分とは違う誰かになってしまうということもありません。

簡単に言えば、これが自己同一性なわけです。ところが、可能な限りスケールダウンして、素粒子のレベルまでいくと、自己同一性が適用されないということです。

元々素粒子と呼んでいるのに、粒子としてではなく波動として存在しているので、自己同一性がないのは当然とも言えるのです。

これが本来のこの世界の姿なのではないかと思っています。つまり存在というのは、そもそもが波動であって曖昧なモヤのようなものだと。

ところが観測された瞬間に、我々が見て知っているようなこの世界の姿に変貌してしまうのです。だから何が起きても真夏の夜の夢のようなものだと。

私たちが当然だと思い込んでいる自分の自己同一性の危うさの一端を感じ取っていただけたかなと思います。

そしてそこから、この世は夢のようなものなのだから、肩肘張らずにゆったりとそしてシンプルに生きることができればいいですね。

心のブレーキ

自分の気分は自分が責任を持って、少しでも良い状態にしてあげようと最近心がけるようにしているのですが…。

そうすればするほど、何やら周囲にちょっとした不都合なことが起きてきたりするのです。ははあ、やっとるなあと。

自我の中でも黒幕的な奴がいて、そいつは本当にあらゆることにチャチャを入れてくるのです。まるで良い気分になってはいけないと主張しているようです。

こういうのを「心のブレーキ」と密かに呼んでいます。何か嬉しいことが連続して起きたりすると、早速そのブレーキさんが活動を開始します。

世の中そんな甘いもんやおまへんねん、的な言葉が聞こえてくるようです。こうしたブレーキが長期的なものだと困りものです。

私の場合は、割と早めに結果が出てその日のうちに終わってしまう感じがするのですが、それが保証されてるわけでもありません。

クライアントさんの癒しの変化を見ていると、定期的にブレーキをかけられているのに気づく時があります。

要するに、誰にとっても心のブレーキは存在するということです。その存在のことをしっかり理解してあげること。

そして、それと上手に付き合っていくことです。次第に、ブレーキは程度が小さくなると同時に期間も短くなっていくはずです。

親教の恐ろしさ

以下のoshoの言葉を味わってみてください。誰かの言葉で「信じる者は救われる」というのがありますが、それとちょうど正反対の内容だと思います。

誰かの言うことを信じるのは破壊的であり、あなたの生にとって有害だ。信じないこと、決して信じないことだ!信仰体系を生の基礎とする者は、盲目の世界へと入るだろう–すると、生に光が射すことはない。生涯、光には到達できないだろう。他人の言うことを信じる者は、決して自分自身を知り得ない。

なぜ他人の言うことを信じてはいけないのでしょうか?残念なことですが、この世界にはあなたを利用しようと思って虎視眈々と狙っている者がいるからです。

それがこの世界の実情なので、信じてはいけないのです。それともう一つ、他人を信じてはいけないもっと大切な理由があります。

それは、信じた瞬間に自ら検証しようとしなくなってしまうからです。誰かが正しそうなことを言ったとしても、それがそのままあなたに当てはまるとは限りません。

本当のことを知りたければ、自分自身で身を持って確かめる以外に方法はないということです。信じた瞬間に、人は何もしなくなってしまいます。

ただし、幼い子供の場合は信じるなと言ってもどうしようもないのです。無力な子供は、親を信じて生きるしかないからです。

そのため、自分がいつも正しいというような親、あるいは子供をコントロールしようとする親などは、子供に自分を信用させようとあれこれ策を練るのです。

子供はまんまとその作戦に乗せられて、大人になるまで親という教祖に入信したような状態で生きていくことになるのです。

他のどんな宗教よりも親教は洗脳が強いのです。なぜなら、まだ自我の発達前から心を侵略されてしまうからです。

もしも親の正しさが自分のマインド深くに影を落としていると感じるなら、人生を棒に振る前にしっかりと癒しをすることですね。

外の熱狂と内の静寂

この数日の間、スポーツクラブがガラ空き状態で非常に気分がよかったのです。初めのうちはなぜか分からなかったのですが、朝から自宅で野球観戦をしている人が多かったらしいのです。

元々のファンであれ、にわかファンであれ、とにかく熱狂の日々だったのですね。久しく野球の試合を見ていない自分は、ほぼ興味がないのです。

そのことをスポーツクラブの知り合いに告げると、非国民だと言って笑われてしまいました。そう思われても仕方がないのかもしれませんね。

かつては私も野球観戦が好きでしたし、基本的にはスポーツ観戦が好きだったので、熱狂する人の気持ちはよく知っているのです。

ただ、もうそういった興味が薄れてしまっているのも事実なので、どれほど興奮させられたかを延々と聞かされるのには、閉口してしまいます。

私にとって、一度離れてしまって何とも感じなくなってしまったものは、元々本質的なものではないということです。

仮に熱狂することがあったとしても、それを引きずることはないと分かるのです。熱狂は自我のものであり、自我を強めることになるのです。

どれほど熱狂したとしても、すぐに内側にある静寂に戻ることができるのです。それはとてもありがたいことですね。

機嫌の悪さは罪

少し前にこのブログで、自分の気分をコントロールできたら最強ですよね、ということを書いたことがありました。

「気分」という言葉に近い言葉で「機嫌」というのがありますね。気分は自分自身が体験する内面の状態を表すのに使われる言葉です。

一方で、機嫌は他人から見た表情や態度を通じて、その人が現在どのような気分なのかを表すのに使われる言葉だと言えます。

そのせいなのか、私は個人的に機嫌という言葉があまり好きではありません。自分の状態を他人に機嫌がいいとか悪いと判断されるのが嫌なのです。

その逆も然りで、他人の機嫌の良さとか悪さなどに翻弄させられるのは、もっと嫌いなのです。これは誰にでも言えることだとは思いますが。

機嫌が悪いというのは非常に人迷惑なことだなとつくづく思うのです。親の機嫌が悪いだけで、子供はビクビクしてしまうこともあるからです。

子供は常に親の感情的エネルギーに晒されて、そこから逃げる方法がありません。できることと言ったら、ハートを閉じることくらいです。

その結果、親とのコミュニケーションに支障をきたすことにもなってしまうのです。機嫌の悪さは本人が自覚して改善することができるものです。

つまり、気分が悪くてもそれを表に出さないように気をつけるだけで、子供は救われるのです。それができない親は、本人のインナーチャイルドが暴れていると思って間違いありません。

私自身も思い当たることが多々あるのですが、機嫌の悪い状態は大人げないのでしっかりそれを自覚した上で、自分の気分をもっと上手にコントロールできるようにする必要がありますね。

マインドの土台を作り直す

今となっては、我が家は築43年のご老体になってしまいました。新築当初は、地震が来ても揺れ方が固い感じがして強さを感じることができたのです。

ところが、年月が経つうちに徐々に柳のような揺れ方をするようになっていて、土台もシロアリにやられている箇所があるようで、なんとかしなければならない状態となったのです。

いざ新築を建てようとすると、勉強しなければならないことばかりでウンザリしてしまって、そう言うのを楽しみにできる人が羨ましいなと。

近年は、高気密高断熱、換気、耐震などをしっかり考えて家を建てることが大事な時代になっているようです。

けれども、どれほど性能の良い家を作ろうとしても、その土台がしっかりしていなければその努力は無駄になってしまいます。

仮にお金が潤沢にあったとしたら、鉄筋コンクリートの家を建てれば、最高性能の家が建つとしても、土台や土地そのものが軟弱だったりしたら、何にもならないのです。

実は人間もそれと全く同じ事が言えます。例えば自分の存在価値に気づくことなく、大人になってなんとかして人生を立て直そうとどれほど頑張ってみても、土台無理な話なのです。

マインドの土台となる、自分の存在を認めることができなければ、単なる悪あがきで終わってしまいます。

その間違った努力がむしろ仇となって、悪い方向へと進んでしまうのです。まずは、土台を作り直すこと。これしかありません。

具体的には、幼かった頃の自分を繰り返し受け止めてあげて、安心させてあげることに徹するのです。

そこからようやく、高気密にするには、高断熱を確保するには、耐震等級3にする等々が意味を持ってくるのですね。

自分一人では難しいと思うなら、プロの力を借りることも検討すべきだと思いますね。