時空から解放される

以下の osho の言葉をゆっくりと味わってみてください。瞑想について、とてもシンプルだけど、適切な表現がなされていると思います。

『瞑想とは ”家に帰ってくること”以外の何ものでもない。どこへも行かないこと-それが瞑想だ。

ただあなたのいるところに在ること。ほかの場所なんかない。ただあなたのいるそこにいること。ただあなたのいるその空間を占めること。』

私たちの本当の姿は、この時空の次元を超えたところにあります。そこに戻ることを、“家に帰ってくる“と表現しているのでしょう。

瞑想によって、時間的にも空間的にも一歩も動かずにいることができれば、時空を使わずに、時空に触れずにいられたら、時空は消えるということです。

時空というのは、私たちの本質である意識からすると、低い次元の世界のことなので、言ってみれば夢のようなものです。

私たちの毎日の生活は、ずっと時間と空間を旅しているようなものなので、“家に帰ること“を忘れてしまうのです。

さあ、今日も瞑想によって時空から解放されてみましょう。それが目覚めるということでもあるのですね。

自他の自由を尊重する

あなたが自由であるということは、誰からも何も押し付けられたりせずにいられることを指しますね。

自分が自分に何かを強いる場合も同じです。自分が自分に何かを押し付けてしまえば、自他の違いはありません。

それは押し付けられた側の自分がそこにいる限り、自由を奪われることになるからです。言いなりになるなら、それは奴隷ということ。

何を押し付けられるかということにも関係はありません。例えば、どんなに好きなワインであっても、飲むことを強要されたら美味しくないのです。

私自身の人生においても、この押し付けられるということを極端に嫌って生きてきた記憶があります。

それは勿論相手からしたら良かれと思ってのことであったとしても、押し付けることになるのであれば、何ら変わりはないのです。

どんな理由があろうとも、結果としてあなたの自由を奪おうとする人からは遠ざかることです。

私たちは完全に自由である必要があるのです。そのことを決して忘れないようにして生きていきたいものですね。

そして誰もが己の自由を、生きる上での絶対的な条件にできるなら、この世界から醜い争いごとは消えていくはずです。

なぜなら、自分を自由にしておきたいと願うことは、他者に対しても同じように自由にしておいてあげようとすることになるからですね。

瞑想で意識に気づく

ある医師の方のYouTube チャンネルで見たのですが、あがり症の人向けに簡単にそれを克服する方法があるというような内容の動画でした。

非常に単純なのですが、姿勢を正すだけで脳内にセロトニンが分泌されて、緊張を和らげてリラックスさせてくれる効果があるのだそうです。

逆にあがり症で緊張しやすい人は、猫背になっていたりして姿勢が悪いのだそうですね。そのせいでセロトニンの分泌が不十分であるらしいです。

確かに瞑想する時には、横になるよりも上半身は真っ直ぐにして姿勢を正しておく方が、深く入りやすいということがあります。

これもセロトニンの分泌と関係があるのでしょうね。私は勝手に上半身を垂直にしておくことで、重力を感じない事のメリットがあると思っていました。

脳内物質で言えば、瞑想することでβエンドルフィンという快感物質も分泌されるので、セロトニンと合わせて二重に癒されるのですね。

いかに瞑想が心身に良いのかが分かります。さらに言えば、瞑想してると心と身体のどちらとも異なる全く不変の部分がある事に気付かされます。

正確に言うとそれは部分ではなく、心と身体が存在するための空間のようなもので、それこそが私たちの本質である純粋な意識なのですね。

追い求めれば出会えない

あなたがあれやこれやと追い求めて、なんとか手に入れられたとしたら、それはこの世的なものに過ぎません。

それはこの3次元世界の、つまりは一過性のものであるだけです。だから、またすぐに次のものを求めることになるのです。

こうした欲望はエンドレスとなるに決まっています。それこそが自我が生き延びる作戦でもあるわけです。

けれども、本当にあなたが求めるものは、追い求めれば求めるほど手に入らなくなるものなのですね。

なぜなら、追い求めるという欲望こそが、それを遠ざけることになってしまうからです。このジレンマを理解することです。

そして追い求めることをやめたとき、無欲の状態になったときに初めて、最も輝かしいあなたとの出会いがあるのです。

そのあなたこそが、本当のあなたの姿ですね。どんな不安も恐怖も孤独もなく、あらゆる惨めさから解放された、初めから救われているあなたの姿です。

追い求めずにいることができたときに限り、それが手に入るということを覚えておいても損はないでしょうね。

他人の評価≠自分の姿

私たちの誰もが大なり小なり抱えている問題の一つとして、他人の目、他人からの評価を気にし過ぎるというのがあります。

けなされるよりは誉められた方が嬉しいし、否定されるよりは肯定される方が気持ちがいいのは確かかもしれません。

けれども、それがあまりにも強くなってしまうと、非常に不自由な人生を生きなければならなくなるのです。

自分らしく自由気ままに過ごすことができなくなり、自分を過度に縛り付けてしまうことにもなるのです。

それは、「他人の評価=自分の姿」のように思い込んでいるからなのです。人はその人の都合のいいように評価するのだと気づくことです。

例えば、その人にとってあなたが都合のいい人と感じるなら、いい人という評価を与えるし、その反対に都合の悪い人と感じれば、悪い人と評価するのです。

あなた自身も含めて自我というのはそのようにしか評価できないのです。そんな不確かな評価などに縛られる生き方ほど、バカバカしいものはありません。

あなたという存在はあなた自身でしかなく、それを誰がどのように評価しようと直接的な関連はないということ。

このことを深く理解し、あなたのあるがままに生きることができれば、人生はシンプルで寛容なものへと変化するでしょうね。

カラクリを理解する

以下の osho の言葉をよく噛み締めて、理解できるようになるといろいろなことが大きく変わってくるはずです。

『もし本当に理解したら、ものごとは落ちてゆくものだ。そしてそのときには、あなたは自分がそれを落としたのだという手柄を誇ることはできない。それはひとりでに落ちたのだ。あなたが落としたんじゃない。自我はそれを通じて強められたりしない。』

もしもあなたがさまざまな問題を抱えているとしたら、それは全て自己防衛を繰り返してきたことが原因なのです。

その理解ができずに、起きている問題だけを見てそれを終わらせるにはどうしたらいいのかを考えるのです。

これが自我のやり方です。結果ばかりを気にしてその原因を探そうとはせずに、自らの力で克服しようと頑張るのです。

これが当然のこととして自我をさらに強める方向へと向かうことになるのです。とにかくこうしたカラクリを理解すること。

自己防衛は必ず自己犠牲を生み出し、それをやめて欲しいというマインドの一部がそれを気づかせる目的で、いろいろな問題を作り出しているのです。

防衛をやめられないのは、大きな不安を安心に変えたいと思っているからです。つまり全ての問題の根本原因は、私たち自我が抱えている不安なのです。

不安を殊更悪者にすることなく、そのままに見守ることができたら、防衛は緩み、その結果自己犠牲が減り、問題はひとりでに落ちていくのです。

加えてあなたの自我は弱められていくことになるという、一石何鳥ものご利益がやってくるのですね。

自我を見守る観照者

ベタっと100%当事者として生きるのか、つまり自分は一人の個人として生きているということに何の疑問も感じずに生きるのか。

それとも、本当のところはどうなんだろう?という疑問を持ちつつ生きるのか、両者の違いは途方もなく大きいのです。

前者の場合は、完全に人生という物語の主役として生きているつもりになっているということです。

この場合は、物語から抜け出すことは不可能になってしまいます。長い人類の歴史の一員として、過去を引きずりながらの生活となるのです。

後者の場合のように、何らかの疑問を持って、それも否定的な疑問ではなくて素朴な疑問を持って生きることは、異次元への入り口に立つことを意味します。

本当は自分とは一体何なのだろう?なぜ自分はいるのだろう?ただ生まれていずれは死んでいくことが決定しているのに、なぜ大騒ぎするのだろう?

こうした純粋な疑問を持つことで、自我の絶対的な立ち位置というものが揺るぎ始めるのです。

そして、当事者として生きている自分を見守る立場というものがあることに気づくようになるのです。これが観照者、つまりは純粋な意識のことです。

真の自分は当事者ではなくて、それをただ見守る観照者(意識)だという感覚を思い出すことができれば、ベタッとした人生に空間的な感覚があることに気づくようになるはずですね。

カルマは実在しない

みなさんも「カルマ」という言葉をご存じだと思います。あまりいい印象を感じられないのは私だけでしょうか?

カルマというのは、要するに「過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる。」という因果応報の法則のことです。

自分の身に何か都合の悪いことが起きると、これはカルマを解消していないからだというように考えたりするわけです。

輪廻によって何千年も何万年も生きてきたとしたら、それは誰だって良い行為も悪い行為も無数にやらかしてきたわけです。

一体どうしたら、完全にカルマを解消することができるのか?都合の悪いことが起きるたびに残っているカルマのことを考えるのは、かなりバカバカしいと思うのは私だけでしょうか?

そもそも良い行為とか悪い行為というようなものが、この世界に本当に実在するでしょうか?

そのように良し悪しを判断するのは単に思考でしかありません。つまり、思考の中にのみ在るように思えるだけなのです。

ということは、カルマは思考、自我の世界でだけ通用するということです。瞑想状態になって思考から解放された瞬間、カルマのカの字も消えてしまうのです。

実際、自我が落ちて覚醒してしまうときには、あらゆるカルマが一斉に燃えて全てが灰になってしまうのですね。

だからもうカルマに怯えるのはバカバカしいことだと気づくことですね。

人生の節目

何事にも節目というものがやってくることがありますが、人生にもやはり節目というのがやってくる時があるのですね。

節目というのは、“物事における区切りとなる大切なところ” という意味です。ここで、「大切な」というところが特に重要なのです。

ただの区切りであれば、わざわざ節目などと表現しなくてもいいからです。では節目の大切さとは一体なんなのでしょうか?

それは、これまで自分ではいくら頑張っても変えることのできなかったものが、その節目の威力によって変化させられてしまう、と言ったことです。

例えば私の場合であれば、全く望んでいないにも関わらずガンを患ったことがあって、それが人生の節目になったのです。

人生をより良い方向へと向かわそうとしても自分の力ではどうしていいの分からなかったのですが、病気によって勝手に新たな方向へと舵を切ることになったからです。

大抵の場合、人生の節目で起きることは、本人にとってはあまり歓迎できるようなことではないかもしれません。

病気になって身体を壊してみたり、仕事がこれまでのようにうまくいかなくなってみたり、大切な人との別れがやってきたり…。

そうした苦難がきたときには、人生の節目としての大切な気づきがやってくる可能性が高いのだと思えばいいのですね。

孤独から逃げない

私たちの本質は純粋な意識であって、それを全体性の感覚として体感することができるようになると、世界が変わって見えてきます。

その一方で、この世界で自我として生きているつもりであるなら、私たちは完全なる孤独、どんな環境においても独りなのです。

多くの人々が、このどちらも認めることができずに生きているのです。特に、絶対的に独りだということはみたくないのです。

そのために、家族、友人、パートナー等々の孤独を紛らしてくれる人々を周囲に必要とするのです。

これは私の考えですが、独りであることを100%認めるためには、その真逆の全体性の感覚を持っていると非常に有利なのです。

なぜなら、自我の孤独というのはかりそめの姿の一時的なものでしかないと理解することができるからです。

自我が消えて全体へと吸収されてしまえば、孤独というものは意味をなさなくなってしまうからです。

もしも私たちが自我の孤独から逃避することがなくなったなら、つまり孤独を紛らすための他者依存がなくなったなら、誰かと共にあることの問題が消失していく可能性が大でしょうね。