内奥の中核に目覚める

osho の次の言葉を一緒に見てみましょう。

『あらゆるものがすばやく過ぎ去ってゆく、それは流転だ。私たちは朝露に似ている–太陽が昇ると、私たちは消える。それが起こる前に、ただひとつのことをやりなさい、あなたの内奥の中核に目覚めるのだ。朝露が消える前に、あなたの内奥の中核に目覚めなさい。』

↑これを読んだだけでも、すごく穏やかな中心が据わるような気持ちになることができます。

あらゆるものがすばやく過ぎ去っていく…、これは気持ちがいいですね。どこにも留まることなく、執着なくスムーズに過ぎていくのですから。

仕事をしている人にとっては、仕事が順調であったり、人生がうまくいっているときは幸せな気持ちになれるものですね。

けれども、それとは全く次元の異なる深々とした至福感というものがあって、それはこの世界で起こるどんなものとも関連がありません。

生きている間に、あなたの内奥の中核に目覚める…、その次元を体感することこそが最大の気づきであり、唯一の起きるべきこと。

人生は思いの他短いのです。太陽が昇ってしまえば人生が終わり、朝露のように私たちは消えていくのです。

そのほんのわずかな間に、内奥の中核に目覚めるなら、再び朝露としてやってくることもなくなるのでしょうね。

バカバカしさに気づく

私たちは毎日の生活の中で、物事を善悪や正不正のような概念を使って判断するように習慣づけられてしまっています。

あの人の行いは良いことであり、また別の人の行為は悪いこと、のように評価しています。

だからこそ、申し訳ないことをしたなと思えば、得意の罪悪感に苛まれることになるし、不正を正さねばと感じれば深刻な気持ちになるのです。

けれども、この世界には悪いことがあるのではなく、バカバカしいことがあるだけなのだと気付けばいいのです。

そこに合点がいけば、何であれ深刻になることも激減するはずです。あるいは罪悪感もそれほどは気にならなくなるのです。

昨日のブログの記事をここで持ってくるなら、最も表面的な私の自我さんは結構真面目で、時として深刻になったり罪悪感をつらく思うこともあるのです。

ただ、その奥にある自我はあらゆることの中にあるバカバカしさに気づいているので、かなりの部分を達観することができるのです。

そして最後の意識に近い部分は、起きることがただ起きているだけだという淡々とした見方をしているので、善も悪も消えている状態なのですね。

内側をしっかり見つめる

クルマを運転していると、歩行者や自転車などの交通ルール、マナーを無視した姿を見かけることが多くなったように感じています。

基本的には、もしも自分が歩行者や自転車の側だったなら、運転者がなるべくブレーキをかけずに済むように心がけると思うのです。

けれども実際には、1日のうちに何度もブレーキをかけさせられてしまうのです。そしてそのことに対して歩行者自転車組は何も感じていないようなのです。

運転しながらも、私の自我は密かになんで平気なのだろう?と憂う気持ちになるのです。他にもあります。

ウクライナの悲惨な状況を見れば、明日は我が身だと分かるはずなのに、非核三原則は絶対に守らねばならないという、政府の方針にも呆れてしまうのです。

そして私の自我はそんな政府を絶対に許してはならないと息巻いているのです。こうした私の自我は、至極まじめに日本人の内面を心配しているのです。

この自我は私の自我の中でも一番表面的なもので、曲がったことが大嫌い。日本人よ、目覚めなさい!と言っているのです。

ところが、そうした自我の後ろ側にはもう少し冷静な自我があって、それは表層の自我に対して、「気持ちは分かるよ」という感じで余裕があるのです。

そしてさらにその後方には純粋な意識に近い部分があって、そこはただただ見守るのみなのです。

大雑把に分けて、この三つの部分がそれぞれの立場から同時に一つの人生を見つめているというのが私の内側なのです。

みなさんの内側もどうなっているのか見てみるといいです。それを見ようとするだけでも、人生に飲み込まれないようになる効果があると思いますね。

恐怖に負けると損をする

私たちは知らないものに対して主に二つの反応をするようです。一つは、それを恐れ、もう一つは好奇心を抱くのです。

知らないということは危険だと判断するなら、それを恐れることになるのです。一方で、知らないということで新鮮さを感じるなら、そこに興味を持つわけです。

その二つの反応のうち、自分はどちらをメインに使って生きているのか、よく見つめてみることです。

概して敏感なタイプの人は、怖がる傾向が強くなるのかもしれませんね。敏感ではない人の方が、面白がることができるとも言えます。

ところで、この二つの反応というのは、もしかしたらどちらか一方だけというよりも、常に同時に起きるのかもしれません。

その際、恐れが強い人はその恐れが際立ってしまうために、好奇心が影に隠されてしまうだけなのかも。

要するに、恐れの大きさ、あるいは恐れに対して必要以上に拒絶感を持たなければ、好奇心や興味が際立ってくるということなのでしょう。

ということは、恐れに立ち向かっていく傾向をより強く持つことができるなら、未知なるものに対しての探究心をいつも感じられるようになるのですね。

なんだか今更ながらですが、怖がりの人の人生がなんとも勿体無いものに思えてきましたがどうでしょう?

哲学は自我のゲーム

大学生の頃まったくの趣味で、ある哲学書を読んでいた記憶があります。それは、フッサールという人の「現象学」という本でした。

何やらとても難しいことがまた面白く感じたりして、自分はこんな難解な本を読んでいる、ということで悦に入っていたのだと思います。

とはいうものの、思い返せば「存在」ということを探求していたのだろうなと思うので、今自分が感じていることと関連がないわけではないかなと。

けれども、今と全く違っていることが一つあって、それはどれほど思考を巡らして存在の究極に迫ったとしても、それはただの思索に過ぎないと分かってしまったのです。

その思索が止んだ時に初めて、真理の近くにいくことができるのです。人類史上フッサールのように天才と言われた哲学者は数多くいます。

ただ彼らの誰一人として覚醒した人はいないのです。それは当然のことであり、哲学はどこまで行っても自我のゲームに過ぎないのですから。

哲学者が瞑想をすることで、それまでの思索が馬鹿馬鹿しいものだったと気づくことになったら、それはそれですごいことだなと思うのですね。

執着と理解は反比例する

一般論としても執着は良くない、ということは分かっているのですが、それでもマインドというのはすぐに執着してしまう傾向が強いのです。

執着というのは、しがみつきのことなので、執着の対象に対する距離がゼロになってしまうのです。

密着して距離がゼロになってしまうと、それを見守ることができなくなってしまうのです。悪くすれば同化してしまうこともあり得ます。

見るためにはある程度の距離が必要だからです。そして対象を理解するということは、距離を置いて見ることが必須なのですね。

結果として、執着してしまうと理解することができなくなるということになるのです。「執着大=理解小」ということ。執着と理解は反比例するということです。

マインドというのは、不安から執着心を起こして、物事を深く理解することを妨げるようにするのです。

私たちの誰もが自分自身の内面を深く理解できずにいるのは、自分自身に強く執着しているからだと言えるのです。

意識的であろうとすることは、自分の内面を見ようとすることであり、その結果マインドとの距離ができて、理解を深めることに繋がるわけですね。

満ち足りたら消えてしまう

以下の osho の言葉をじっくり味わってみてください。そして、それを自分の身に当てはめることです。

『マインドは満ち足りると存在できない。それは飢えていなければ存在できない。マインドは飢餓状態でなければ存在できない。あなたが、すっかり満たされ、渇望も飢えもなく満足していたら、マインドは朝日のなかの露のように消える–あなたは二度とマインドを見出すことがない。』

いまだにあなたの自我(マインド)が健在であるとしたら、それはあなたが満ち足りていないということです。

つまりは、世界中のあらゆる人について、その人が個人として生きているつもりになっている限りは、その人は満ち足りていないということ。

だからどれほど羨ましいと感じる人がいたとしても、その人もあなたと同様に満ち足りてはいないことを思い出せばいいのです。

あなたの自我(マインド)は何が足りないと訴えているのでしょうか?そのことにしっかり気づいてあげることです。

愛が足りないと思っているのか?認めてもらうことが足りないのか?楽しいことが足りないのか?お金が足りないのか?充実感が足りないのか?

何が足りないのかは人それぞれなのです。その足りなさこそが、あなたの自我の生命線だったということです。

そうしたことをひた隠しにしつつ、私たちは自分が満たされるためにはどうすればいいのかで日々闘っているのです。

その馬鹿馬鹿しさにつくづく気づいてしまえば、あとは力が抜けてちょうどいい具合に人生を楽しんでいられるようになると思いますね。 

マインドが問題を生み出している

改めて考えてみるまでもなく、人生というのは誰にとっても問題だらけだということに変わりはありません。

沢山の問題は一体どこからやってくるのかというと、それはたった一つ、あなたのマインドが起源なのです。

マインドこそがあらゆる問題を作り出す生みの親だったのです。マインドが日夜全ての問題を創造しているという事実に気づくこと。

もしも多くの人々が、日々瞑想を心がけて自らのマインドの活動を低下させるようになったなら、あっという間にこの世界は変わってしまうはずです。

もちろん瞑想だけでマインド(自我)が消えて無くなってしまうわけではないので、問題がなくなることはありません。

けれども、問題の深刻さは和らいで、今起きている殺し合いのような事態は無くなっていくはずです。

人間の困った性質は、自分(のマインド)は悪くない、自分は正しい判断ができる、自分は正常だと信じて疑わないのです。

いつも悪いのは、他人(のマインド)だと思っているのです。それこそがマインドの病んでいる証ですね。

雉も鳴かずば…

「雉(キジ)も鳴かずば撃たれまい」という諺がありますね。この言葉から今誰のことを連想するでしょうか?

正直言って、現在の総理大臣である岸田さんの支持率がそこそこ高いままで推移しているのは、きっと彼が何もしないからなのでしょう。

マスコミは何もしないリーダーを批判できずに、何かした場合に限り難癖をつける傾向にあるのです。

そのために、テレビと新聞が主な情報源の人にとっては、悪評が少ない無難なリーダーだという評価になるのでしょう。

あなたも雉(キジ)になってはいませんか?つまり、人との関わりの中で余計なことをなるべく言わないようにしていないかということです。

あなたに悪意がないのであれば、言いたいことは表現することです。言わずに過ごしていると、それがチリも積もればでいずれは強大な怒りとなるのです。

百歩譲って表立って表現しないまでも、少なくとも心の内ではしっかりと表現するように心がけることです。

それもせずにいると、自分の本音が自分でも分からなくなってくる恐れがあります。そうなると、危険ですね。

人生物語に興味なし

戦国武将の中で誰が好き?と聞かれても、ええと分かりません、特に好きな人や尊敬する人も見当たりません、というのが本音なのです。

それが普通だと思っていたのですが、大人になってみて分かったのですが、多くの人が戦国時代の歴史に興味を持っているのですね。

その歴史への興味が武将への興味に繋がるのだろうと思うのですが、私にはそれが全くないのですから仕方ありません。

若い頃、自分の先祖が武田信玄の家臣だったという事実を知ったときに、武田信玄の歴史小説を読んで面白いと思ったことはあったのです。

だからと言って武田信玄に心酔するとかは全くありませんでしたし、結局はその内容についてもほとんどを忘れてしまいました。

それなら、戦国武将に限らず歴史上の偉人と言われている人で、尊敬する人や注目する人がいるかというと、それもないのです。

要するに、この世界でどんな活躍をしたかということ自体に、それほどの興味を持つことがないということです。

だから自分はそもそも人物やその人の人生に興味を持てない人間なんだと思って、人間が嫌いなのだと思っていたのです。

ところがセラピストをするようになって、その認識が少し違っていたことに気づきました。

私の興味は人物や人生ではなくて、人の内面に向いていたということです。マインドの仕組みはどうなっているのかを探求することは好きなのです。

そしてその先に、つまりはマインドよりももっと私たちに近いところ、そこに本当の私たちの姿が隠されていることを知りました。

これほど興味深いことは他にないですね。