身体に意識を向ける

春だからなのか、あるいは気持ちがたるんでいるからなのか、とにかく常に眠くて仕方ないのは私だけでしょうか?昼寝をしてもまたすぐに、眠気がやってきたりします。

寝たからといって、それほど爽快な気分で目を覚ますわけでもないのですけどね。それでもたまには、いいこともやってきてくれたりするのです。

それほど頻繁に起きることではないのですが、寝ようと目を閉じて静かにしていると、言いようのない変な気持ちよさに襲われることがあるのです。

まったく何の理由もなしにそれはやってきます。自分では勝手に、何かの都合で脳内に快感物質のようなものが分泌されてるんだろうと…。

おお、来た来たと内心喜んでいると、それは残念ながらそれほど長く続いてはくれずに去っていってしまうのです。それを惜しんでいるうちに、寝入るという具合なのです。

本当には自分に何が起きているのか分からないのですが、精神的な幸福感とかそういった類のものではなく、明らかに身体的な快感なのです。

私の身体は、日ごろからそれほど健康体ではなく、いつもどこかが具合を悪くしているので、たまには気持ちよくさせてあげるよと、やってくれているのかもしれません。

今これを書いていて思い出したのですが、寝入るタイミングだけではなくて、何かの拍子にも似たような快感が身体に押し寄せて来ることもありました。

短時間なので忘れていましたが…。みなさんはどうですか?こうしたことを他人と比べたこともないので、自分だけなのかどうか分かりません。

身体に意識を向けておかないと、ほんの些細な快感には気づけないかもしれませんね。ただし、そうしてると逆に身体の不快感にも敏感にはなってしまうのですけどね。

心理的な貸し借り

人は誰でも、他の人に助けてもらったら「ありがとう」という気持ちになりますね。勿論、相手が人でなくても構いません。

起きている事態そのものをありがたいと感じれば、そこには感謝の念がやってきます。そしてそれはそこで完結しているのです。

誰かに誕生日のプレゼントをいただいたら、そのことを心から喜ぶことができるなら、自然と感謝の気持ちがやってくるものです。

けれども、そこでもし今度は自分がプレゼントのお返しをしなければと思うなら、実はマインドは相手の気持ちを受け取れていないのです。

受け取れているなら、感謝することで完結するはずなのです。その場合には、プレゼントは自分のものとすることができるのです。

一方、受け取れないでいると、それは宙ぶらりんの状態でどこかに隠し持ったままになっていて、それを今度は相手に返球しなければとなるのです。

だからそこには本当の感謝がないということですね。その場合には、相手に借りがあるという感覚になってしまうのです。

だからなるべく早く借りを返したいと思っても当然です。勿論この逆もあって、相手に与えることができないと、貸しがあるという気持ちになるのです。

その場合には、私がこれだけのことをやってあげたのに、感謝が足りないなどと相手を恨むことにもなったりするわけです。

物理的なものやお金に対して、貸し借りがあるのは分かるのですが、心理的な貸し借りは全くもって何の役にも立ちません。

復讐心もその一つですね。自分の内面を深く探ってみて、心理的な貸し借りがあることが分かったら、そのどちらもゴミ箱へ捨ててしまうことです。

私たちの存在は、すべてに平等なのですから。

自己改善プログラムの放棄

私たちが目指す究極の存在があるとしたら、それは神かもしれませんね。人間は明らかに不完全な存在だから、完全を目指そうとする部分が誰にもあるのです。

そしてそれが不可能なことだとしたら、次の二つのことが考えられるのです。一つ目は、人間と神の間にはそれこそ途方も無いくらいの隔たりがあるということ。

だからどれほど努力したところで、どだいはその隙間を埋めて行くことなど到底あり得ないということです。

そしてもうひとつ不可能な理由があるとするなら、もうすでに神だからだということ。私たちの本質が神であるなら、それを目指すことは初めから不可能なことです。

そうであるものになろうとするくらい、馬鹿げたことはありません。そして真実はどちらなのかと言えば、後者なのです。

私たちが理想を求めれば求めるほど、それから遠ざかってしまうというジレンマがあるのです。あるがままを受け入れる時、自己の本質に気づくことができるのですから。

このことを深く理解するなら、ずっと続けてきた自己改善プログラムを放棄することになるでしょうね。あなたがあなたのままで在ることで、全体性は成り立つのです。

不足感から解放されるには?

私たちのマインドというのは、とにかく常にもっともっとと飽くなき欲望を糧として生き続けているということです。

もう少しいい給料をもらえたら、もっと健康になれたら、もう少し背が高ければ、もっと頭が良かったらという具合に、常に足りなさを原動力としているのです。

これこそが本当にリラックスすることを阻害しているものなのです。リラックスしたいけれど、すぐにやらねばならないことが迫ってるし、というわけです。

もっといえば、リラックスしたくても、このままじゃ生きていけないし、仕事を捜さなければならないし、というのもあるかもしれません。

不足感というのは、本当は物理的なことからやってくるのではなく、分離感から直接的に起こることなので、何をしても何を手に入れても決してなくなることはないのです。

結論からいうと、リラックスしたマインドというものはありません。したがって、マインドがある限りは、私たちは完全にはリラックスできないのです。

マインドが突き動かす作為的な人生の代わりに、無為自然、自然が起こすがままの人生へと方向転換できるといいのでしょうね。

それだけが、不足感から解放される唯一の方法なのです。

至福とは自分に関心がないときやってくる

以前ある人が次のようなことを言ったのです。「自分が幸せかどうかなんて考えたこともない。」それを聞いてドキッとしたのを覚えています。

なぜなら、その言葉の意味することは、自分が幸せかどうかということに関心がないということだからです。もっといえば、自分自身に関心を持っていないということ。

だから衝撃を受けたのですね。だって、誰だって自分の人生をより満ち足りた幸福なものにしたいと望んでいるのですから。

自分自身への関心を失くしてしまったら、どうなってしまうのだろうと思うわけです。けれどもこれこそが、個人的な苦しみから解放される唯一の生き方なのだろうと思うのです。

私たちは、なんらかの不自由さを感じると、そこから逃れたくて何か他のことに興味を向けるのです。そしてそこに没頭すればするほど、自分の問題から離れられると感じるのです。

その場合には、自分自身への関心があたかもなくなったかのように見えるのですが、根底には不自由さから解放されることへの関心が隠されているということです。

それも結局は、自分自身への関心がベースにあるということですね。自分のことが好きであれ嫌いであれ、関心を持っている限りは苦しみは避けられないのです。

現実という夢に気づく

朝目覚めるときに、まだ半分夢の中にいるような中途半端な状態ってありますよね。誰でも経験していると思うのですが…。

そのときに、その夢の内容が気持ちのいいものでなくても、なかなかそこから離れようとしないでいることに気づくことがあります。

そして完全に夢から冷めるまでの間、繰り返しぼんやりと夢の内容を反芻しているのです。嬉しい夢とか、心地いい夢なら分かるのですが…。

かえって、嫌な夢だったり、焦っていたり、何かを解決しなければならないような夢の場合にも、その内容に執着してしまうことがありますね。

それは問題を解決して、なんとか安心しようとする防衛心のなせる技なのです。元々、このエネルギーこそが夢の原動力でもあるのです。

それが無意識の中で、ずっと生き延びていて、決して消えてなくならない理由がよくわかるのです。完全にに目が覚めた後でも、しばらく引きずっていることさえあるからです。

そして、こんな夢に引っ張れてバカみたいと思うのですが、実はそれとまったく同じことを現実の世界で繰り返しているのが私たちの人生なのです。

それと気づかずにわざわざ問題をこしらえては、それをなんとかして解決しようと躍起になっているのですから。

それは朝目が覚めたとしても、本当には覚醒してはいないからです。意識が100%にならない限りは、私たちは目覚めた後もまだ眠っているのです。

夢から覚めても、まだ現実という夢の中にいることに気づけずにいるということです。あれをしなければならない、これを間に合わせなければならないという物語です。

このことに気づくと、人生はもっと楽になるはずですね。

カルマは物語の一部

カルマを満たすそんな必要はどこにもない

あなたがただ醒めるということだけで

突然すべてのカルマははがれ落ちてゆく

ただ一瞬の強烈な覚醒のもとに

すべての過去は消え失せ、ごみくずと化す!

by osho

自己留意し続ける

このブログでずっと言い続けていることの中心となるものは、「常に意識的であること」といういたってシンプルなことなのですね。

グルジェフの言葉で言えば「自己想起」であり、osho の表現を使えば「自己留意」ということになるだけで、とにかく気づいているということ。

そのことがあまりにも単純で、それに一体どんなご利益があるのかが分からないのが普通なのです。だから興味をそそられる内容にはならないということは、私自身よく分かっています。

もっと具体的なことを書いて欲しいと思ったとしても、不思議ではないのです。具体的という意味は、問題となることへの直接的な解決策をイメージさせますね。

けれども実は、どんな問題であれその真の問題とは私たちが意識的でないことこそが、本当の原因なのです。そこにしっかり目を向けることです。

たとえば、すぐに怒ってしまう人がいるとして、怒った後ですぐにそれを後悔してもう二度と怒らないと決意しても、またすぐに怒ってしまうのです。

そういったことを自制心だけで解決しようとしても、決して成功することはないのです。そんな人に是非気づいてもらいたいのです。

もしもしっかりとその瞬間の自分に気づいていられるなら、つまり充分に意識的であることができるなら、決して激怒することなどできないということを…。

私たちが抱えているあらゆる問題とは、全部意識的ではない状態が引き起こすのだと分かればいいのです。だから一つひとつの問題自体に目を向ける必要はないのです。

あくまでも意識的であること、自己想起していること、自己留意し続けること、歩いているなら歩いていることに気づいていること。

ただそれだけを実践することが最も大切なことなのです。

流転するがままに任す

人生をなるべく気楽に生きるためには、物事へのこだわり、わだかまりをできるだけ少なくしていくことが必要なのです。

こだわるということは、そこに必ず執着を生むのです。執着というくらいですから、エネルギーがそこに固着してしまうわけです。

そうなると、自然の流れに逆らってしまうことになるために、不必要な労力や気苦労を背負いこむことになるのです。

執着心は、完全に過去と未来にのみ存続するので、今この瞬間とともに流れていくことなど到底できなくなってしまうのです。

何であれ、自然な流れが滞ってしまうと、川であれば水が腐敗するし、血管であれば血流が悪くなるのですから、これ以上身体に悪いこともないはずです。

物事は常に起き続けているので、自分も動き続けていることが健全なのです。そのためには、マインドの勝手な動きを少しでも小さくしなければなりません。

マインドが停止してしまえば、100%今この瞬間に在り続けることができるのです。そのときには、どんなこだわりも消えて、「何でもいいよ」だけが残るのでしょうね。

「寛いだ注意深さ」とは?

私たちは雑念に飲み込まれている時には、決してリラックスして寛いでいることができなくなります。自然とアドレナリンが分泌されて、一種の戦闘態勢のようになるのです。

そして同時に、意識的でいることも難しくなってしまうのです。何かの一点に集中することはできるかもしれませんが、今この瞬間に気づいていることはできないのです。

覚醒に至る質というのは、この寛いでいるということと、全方位に注意深くあるということの両方が同時に起きている必要があるのです。

どちらか一方だけでは足りないのです。たとえば、寛いでいるというだけなら、無邪気な幼子や動物であれば、たやすいことです。

猫がゆったりと寛いでいる姿を見ることはあっても、彼らは常に無意識的な状態なのです。だから猫は覚醒に至ることはできません。

また猫が獲物を捉えようとして、微動だにせずにそれに集中している姿を見ることもできますが、やはりそこに気づきはないのです。

一心不乱に何かに没頭できると、自然と雑念が消えてくれるので、その後の気分も比較的良くなることが多いのですが、残念ながらそれはただの集中なのです。

この寛いでいることと注意深くあるということの双方が同時に起きる時に初めて、私たちは覚醒の何たるかを実感することになるのでしょうね。