流れ行く人生のすべてを楽しむ

昨日テニスの男子シングルスで優勝したフェデラーという選手を見ていて思うのですが、他の誰よりも試合そのものを楽しんでいるのが伝わってきましたね。

昨年の怪我による半年余りの欠場からすれば、本人もびっくりの奇跡の復活劇を果たしたのだから当然なのですが…。

優勝後のスピーチでは、「おとぎ話のような一週間だった」とコメントしているように、ピンチがやってきてもそれも含めて瞬間瞬間を楽しんでいるだろうことが分かるのです。

人生で一番いらないのが深刻さです。起きていることに一喜一憂するよりも、所詮は流れていく人生なのだから、すべてを楽しめばいいという心の状態が最強なのです。

そこに深刻さが入り込む余地はないのですね。35歳という彼の年齢は、テニスプレーヤーとしての全盛期を過ぎたと誰もが思っているのです。

けれどもそうしたこともすべて含めて、否定的に捉えないでいられることで、逆に心のゆとりを生み出すことができたのでしょう。

それがまたいい結果を生み出すという好循環にもなっているのですね。結果は結果として喜ぶ一方で、結果よりも瞬間瞬間を楽しむことがどれほど大切かを、改めて教えてもらったように思います。

すばらしい選手を見ていると、いろいろ学べるものも多いですね。

生というこの上ない奇跡

昨夜ベッドに身体を横たえて寝ようとしている時に、自分の呼吸に意識を向けつつ、鼻の穴から入ってくる少しひんやりとした空気の感覚に浸っていたのです。

するとどういうわけか、普段はそんな感覚になったことはないのに、呼吸をし続けているということ、呼吸が起き続けていることに、何とも言えない不思議な気持ちになったのです。

呼吸が起きていることの奇跡のような感覚というか、うっすらとした歓喜のような状態になったのです。非常に冷静でしかも小さな歓喜。

もしかしたら、私たちは本当はとんでもない奇跡の連続の中で生きているのかもしれないのですが、いつもは異常なくらいにそれに鈍感になっている。

そうだとしたら本当にもったいないことをしていることになりますね。産声を上げて以来、一度も止まったことのない呼吸。

その呼吸は、意思とは関係なく自然に起き続けてくれていて、それが目でものを見たり、耳で周りの音を聞いたり、そういったさらなる奇跡を作り続けてくれている。

呼吸が止まるまで、生というこの上ない奇跡が起き続けてくれて、それを丸ごと体験させてくれているということに気づいていられたら…。

自然に思考は緩み、今この瞬間を十二分に堪能することになるのでしょうね。

選り好みをしないとエゴは小さくなる

私たちがなぜ個人であることをやめられないのかというと、きっとそれは物事を選択し続けているからなのだろうと思うのです。

選り好みをすることで、自分という存在が際立ってくるからです。それによって、他の人との差別化ができ、より特別な存在だと思おうとするのです。

だからエゴはいつだって自分を特別扱いするわけです。いつも他人と違う部分を自分に対して探そうとするのです。

外見であれ、内側であれ、人と違うことで安心するのです。勿論、人と同じであることで安心する部分もあるのですが、これは消極的な心の部分なのです。

消極的というのは不安を小さくしたいがためにのみ、同じであることをよしとするのです。積極的な部分では、違うことで喜ぶのです。

人と違う考え方、人と違うマイホーム、人と違うマイカー。誰も持っていない宝石、誰も知らない知識など何でもいいのです。

それは人と違う選択をすることで達成しようとするのです。もしも1日に1000回やっている選択を、仮に十分の1にすることができたら、きっとそれだけでエゴは勢いを奪われることになるはずです。

だからこそ選り好みをしないということは、とてつもなく難しいことなのですね。

物語の中には誰もいない

どんな物語であれ、それがまったく実在しない架空のものだということは誰でも知っています。逆に言えば、実在するものを物語とは普通呼ばないわけです。

けれども自分の人生が物語だということを深く理解している人は少ないのかもしれませんね。なぜなら人生はとてもリアルですばらしく実感があるからです。

そのリアルな感覚を空想だと言っているのではないのです。快感もあるし、痛みも実際にあるのは間違いありません。

ただ物語性だけは思考による産物に過ぎないということを言っているのです。今目の前に胸を打つくらいに美しい花があるとします。

今この瞬間に感動して絶句しているなら、それが実際に起きていることではあるのですが、一方できっと誰かが手塩にかけて育てた可憐な花だと思うとき、そこに物語が生まれるのです。

つまり今この瞬間に意識を向けているなら、そこにはどんな物語性も入り込む余地がないのです。なぜなら物語には過去が必要だからです。

どうせ物語の中で暮らしているというのなら、辛く不愉快な人生よりも快適で清々しい人生に変えていきたいと願うのも当然ですね。

ただしその願いやそれに伴う努力全般が、今度は新しい物語として作り込まれることになるのです。そしてその新しい物語の中で、次の苦しみがまた生み出されるのです。

物語とはそのようにして、何度も繰り返されるものだからです。だから本当の救いとは、物語を物語としてただ見る目を養うことなのです。

真の自己は、決して思考がこしらえた物語の中にはいない、物語の中にいることは不可能だと気づくだけでいいのですね。

もちろんその時に、物語と一緒に物語の住人である自分も消えてなくなるのです。

心の拠り所に気づくこと

人は自分の不安や孤独感から逃れようとして、さまざまなものを心の拠り所にして生きているのです。勿論、気づいているかどうかは別として…。

幼い頃は、ごく一般的には家族に対する依存があり、成長するにつれてそれが友達だったり、所属する学校だったり、部活だったり。

あるいは自分の能力やそれまでの実績なども含めて、あらゆるものを拠り所として生きるのです。とにかく不安や孤独が一瞬でも癒えればいいのですから。

当然大人になって、社会人になれば今度は仕事だったり、結婚すれば子育てなどに対しても、気づかぬうちに拠り所とするのです。

そうやって表面的には自立しているように見えても、心の奥底では大なり小なり心の拠り所となるものを握りしめているのです。

それを失くして初めて、それを拠り所としていたと気づくのですが、それまでは自分はもう独りで立派に生きていると思い込んでいるのですね。

心の拠り所というのは、いざとなったときに受け皿となってくれる人、お金、モノ、場所だったりするのです。

だから家族もいなくなり、友人もいなくなり、職も失い、お金もなくなってみれば、どれほど独りでは生きていけないのかが分かるはずなのです。

そのとき、マインドが信じている「分離」からくる不安と孤独がどれほど過酷なものかということにも気づくのでしょうね。

マインドは、拠り所なくしては生きていけないのです。そして分離という幻想が消えたとき、マインドも消えてやっと自然と調和して生きることができるのです。

満ち足りたらマインドは消える

私たちのマインドは、常に満ち足りたいと願っています。できる限り不安や孤独感から逃れて、安心して充足した状態を望んでいるのです。

なぜなら、マインドの軸になっている分離感が不足感、あるいは欠乏感を常に作り続けているからです。それは原理的に消えないものなのです。

つまりマインドとは、満たされたいと願っていながらも、もしも本当に満ち足りてしまったら、そのときにはマインド自身がもたないのです。

マインドというのは、「私」という個人がこうして生きていると思い込んでいる思考の塊のことです。その「私」が一番望んでいることが達成されてしまうと、「私」は消えてしまうということ。

自己消滅という最も恐れていることが、最も望んでいるものが手に入った瞬間に起こるというこの矛盾。あまりに理不尽過ぎて、笑えてきませんか?

一時的であれば、満足感を得ることは勿論可能なのですが、真の充足はマインドにとって身の破滅だということです。

そんな大矛盾を抱えながら、そのことに気づかずにあがいてもがき続けているのが、人生というわけです。このことを深く理解するなら、きっと誰もが脱力することになるはずです。

もうお手上げだからです。これが観念するということ、降参するということ。防衛をやめて、白旗をあげるなら、「私」というマインドは消えて、後に残るのは至福という実在だけになるのですね。

マインドフルネス? ノンデュアリティ?

最近マインドフルネスという言葉を、あちこちでよく聞くようになりましたね。みなさんはどうでしょうか?きっと私だけではないはずです。

何のことを言っているのかというと、このブログでずっと伝え続けていることと、それほど違いはないのだろうと思うのです。

要するに、今この瞬間に気づいているということ。できるだけ思考を落として、意識的な状態を保つということのようです。

人間て不思議ですね。何かこう特別に耳当たりの良い単語や言葉があると、それに反応してそれに興味を示すようになるのです。

日本人に特有なのか、私自身にも該当することなのですが、どちらかというと欧米から入ってきた言葉の方が、何か恩恵があるかのように聞いてしまうのです。

マインドフルネスもその一つですね。ノンデュアリティというのも、日本語にすれば非二元ということなのですが、それよりもノンデュアリティといった方が耳に残るのです。

で、マインドフルネスもノンデュアリティも、今までさんざんこのブログで書いてきたことなのですが、新しい何か特別なことのように感じてしまうのです。

興味を持つためのきっかけとして使うのでしたら、何でも構わないのですが、それが単なる耳新しい物好きを刺激して終わってしまうことのないように。

これまで学んできたことと同様に、一つの新しい知識として捉えてしまうなら、マインドフルネスもノンデュアリティも、全く役に立たない概念の一つになってしまうでしょうね。

惨めさが輪廻する

全体性という真実の中に、個別性というものは実在しません。ということは、個人だと思っているこの「私」も存在することはできないということ。

そして、その「私」が苦し紛れにでっち上げた魂というものも存在しないのです。だからといって、輪廻転生もないという必要はありません。

魂が転成するのではなく、人のマインドの惨めさこそが転生するのです。惨めさというのは、他人との比較の上に作られる思考です。

自分の不安や孤独感を他人のそれと比較することで、惨めさという思考エネルギーが起きるのです。それが執着を生むことで、転生が起きてくるのです。

同じような惨めさのエネルギーが充満している家族において、作られた母体の受精卵の中へと自動的に亡くなった方の惨めさのエネルギーが流れ込んでくるのです。

そうやって、次から次へと惨めな人生が別の肉体、別の人格の上で繰り返されて行くわけです。それを輪廻転生と呼ぶのです。

思考が静まり、惨めさがなくなった人生を生きた人は、肉体の死とともにただ消えて行き、後に伝搬するようなどんなエネルギーも残さないのです。

意識の光でマインドを照らす

私たちのマインドの騒がしさというのは、想像をはるかに超えています。それはもう雑音の連続だと思って間違いありません。

表面上は瞑想をしているようなつもりであっても、実は意識下においては凄まじいお喋りがずっと果てしなく起きているのです。

時々街で変な人を見かけることがあると思います。ブツブツと独り言を言いながら歩いていたり、奇声を発して予測できない行動をする人とか。

彼らは確かに精神を病んでいるのでしょうけれど、それは正常と思われている人たちの意識下の部分が表面化してしまったに過ぎないのです。

私たちが気づいている自分の意識下とは、睡眠中に見る夢の内容だと理解すれば、彼らだけが異常で私たちは正常とは簡単には言えなくなります。

意識下で起きている夢は、奇想天外な内容だったり、何かに必死になっていたり、非常に感情的だったりと、とにかくバラエティに富んでいます。

マインドの意識下の部分、つまり自覚できない部分では、とにかく四六時中とんでもない物語が進行しているのです。

それが私たちのマインドの90%を占めている無意識の部分なのです。ここのお喋りをストップするためには、意識の光で照らす必要があるのです。

そのためには常日頃から、できる限り意識的であるように訓練することしかないのですね。

肯定的な絶望感

「何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」という禅の言葉があるように、すべてはひとりでに起こるのです。

真実に近づこうとするあらゆる努力は、それがまったく効果がなかったと深く理解するためにだけ必要なことなのです。

同様にして真実への探求は、それが真実への道を逆に塞いでしまうことになると気づくためにだけ必要なことなのです。

こうしたことは逆説的で、にわかには受け入れ難い感じがするのですが、じっくりと噛み締めることで理解することができます。

どれほど探求したところで終わりは決してやってこないと、身をもって経験するまでは、私はやはり探求を続けるだろうと思うのです。

それはきっと探求することが楽しくて、非常に興味深いことだからできることなのでしょうね。続けて行った先に、自分の中でひとりでに探究が終わるときがくるのでしょう。

そのときには、きっと肯定的な絶望感が待っていてくれるような気がします。