特定の誰かなどいない

私たちは日頃、何の意識もせずに自分のことも他人のことも特定の誰かであると信じ込んでいます。それがリアルな現実だと感じているのです。

けれども過去の集大成である記憶へのアクセスをストップしていると、次第にこの特定の誰かだと思っていた自分が一体誰なのか不明になってきます。

いつも過去と未来しか扱えない思考に飲み込まれていると、特定の誰かとは過去の中にしか存在できないということがわからなくなるのです。

単に何も考えないから、自分が誰だか分からなくなるだけだろうと思うわけです。もしも本当にこの自分が間違いなく特定の誰かであるなら、考えることなくそのことが明確であるはずです。

ところが残念ながら、過去の情報を引っ張ってこない限り、つまりただ今この瞬間にあるなら、自分はけっして特定の誰かとは言えなくなるのです。

言えないばかりか、実際に特定の誰かなどではないのです。そのことを深く理解し、受け容れることができるなら、人生は物語だということも同時に理解するはずです。

この誰でもなさを感じていると、どこからともなく至福感がやってきてくれます。それにしばらく浸っていると、エゴは退屈という戦略で元に戻そうとしてきます。

そしてまたいつもの物語の住人としての時間が始まるというわけですね。