左脳くんの刺客かな

数日前のこと、もうすぐ家に着くというときに、腕の内側の柔らかな部分にチクッという痛みが走ったのです。

少しの間気のせいかなと思っていたら、本格的に痛くなったので見たら何と真っ黒いてんとう虫が張り付いていました。

慌てて手で払って難を逃れたのですが、てんとう虫って噛むんですね。知りませんでした。帰宅して部屋で着替えていたら、そのてんとう虫がポロリと何処からか落ちてきたのです。

コイツかあと思って、成敗してやろうと思いティッシュを取るために一瞬目を離したら、もう見つからなくなってしまったのです。

よくあることですが、これって本当に不思議ですよね。一度いなくなると、どれほど探しても絶対に見つからないのです。

この歳まで生きてきて、てんとう虫に噛まれて痛い思いをするなどとは、想像もできませんでした。さては、左脳くんの刺客かなと。

肥大してしまった左脳くんの異常さに気づき、それを何とかして正常な状態に戻そうと奮闘していることが、彼の本気の反発を呼んでいるのかなと勝手に思っているのです。

腰痛はほぼ1日で治ってくれたので、今度はてんとう虫を使ってくるとは。それが今日帰宅したら、部屋の床に動かなくなっていました。

私は部屋を締め切って出かけるので、暑さで死んでしまったのかなと。色々な作戦を繰り出してくるのは想像していたのですが、ちょっと面白くなってきたというお話でした。

世界は人の数だけある

電気自動車の旗頭であるテスラ・モーターズの創始者である天才イーロン・マスクが、この世界は99%の確率で仮想世界だと言ったとか。

それについては何とも分かりませんが、ただし私たちの主観が感じているこの世界は、自分の内側に仮想的に作ったものだというのは、ほぼ間違いないのではないかと。

客観的に見れば、この現実世界の中に個体としての自分の存在も含まれているのですが、それでも私たちの経験の全ては、この現実世界からは切り離れたところで起きているということ。

なぜなら、感覚器官から入ってきた情報を元にする以外、外側の世界を認識する手段はないからです。つまり、世界を情報として取り込むことしかできないのです。

世界は世界としてあるとしても、その存在と私たちが慣れ親しんだこの世界とは別物だということです。そこから見えてくるものがあります。

それは、このブログでも過去何度もお伝えしていることですが、一人ひとりが全く異なる世界を生きているということです。

実在する世界は一つだとしても、各自が生きている世界はそれぞれ異なるものだということです。そこにこそ争いの原因があるのです。

誰もが同じ世界を生きていると信じているのに、実際には異なる世界を生きているからこそ、意見の違いや感じ方の相違が生まれてくるのです。

もしも誰かがあなたの思っていることと違うことを主張してきたとしても、そういうことは当然のこと、あり得ることだと知ることです。

それを容認することが自然にできるようになれば、人生はもっと生きやすくなるはずですね。あなたのワールドと近くにいる人のワールドは別物だと気づいていることですね。

「固視微動」って何?

私は夜空に輝いている星を見るのが大好きで、昔はよく冬の寒空をずっと眺めていたものです。その時に使ったのが、我が相棒の双眼鏡です。

望遠鏡よりもお手軽で、見たいと思った時にさっと準備できるし、尚且つ両眼で覗けるので目が疲れにくいという利点があるのです。

その双眼鏡は結構倍率が高く、例えば月とかを見るとかなりの繊細さでクレーターとかがまるですぐそこにあるかのように見えるのです。

ただし、倍率が高い分すぐに手ブレを起こしてしまうので、その手ブレ補正する装置までついていたのです。優れものでしょう?

最近ではスマホのカメラも手ブレ補正の機能があるようですね。この機能があるのとないのとでは、雲泥の差があります。

ところで、私たちの脳にも手ブレ補正のような機能があるってご存知ですか?実は人間の眼球は常に手ブレならぬ眼ブレを起こしているのです。それを「固視微動」と呼ぶらしいです。

それには理由があって、網膜上に投影された像を細かく動かしておかないと、私たちには見えなくなってしまうらしいのです。

要するに、視覚の情報処理回路が変化するものに敏感になっていて、逆に眼球内の血管などずっと定位置にあるものを見えないようにするためらしいです。

だから目に映ったものをそのまま見ているとしたら、大変な景色を見ることになってしまうのです。脳がそれを自動的に補正した結果を、私たちは見せられているということです。

ある一点を凝視していても、自分の眼が小刻みにブレているなんて全く気づかないですよね。身体って本当にうまくできているものですね。感謝です。

左脳さんの逆襲

今朝起きたら何の前触れもなく、突然のように腰痛がやってきました。初めは大したことはないと思っていたのですが、トイレから出てくる時には普通に歩けなくなっていました。

すぐに頭をよぎったのは、あの四重苦のことでした。10年以上前に、ずっと意識的であり続けるためのワークをしていた時のことです。

インターバルタイマー付きの腕時計を買って、1分ごとに振動するように設定して、その瞬間に意識的であるかどうかを確認できるようにしたのです。

そんなストイックなワークを続けていた時に、腰痛と腹痛が同時にやってきて、それに重ねて眼球の異常と歯に問題がやってきての四重苦だったのです。

原因はそのワークにあるという感じがしたので、それをやめた途端に回復してしまったのです。それ以来、あまりやり過ぎないというのをモットーにしていたのです。

ところが今回、また似たような感じで時間があればずっと自動思考や自動演奏を監視して、同時に腹式呼吸や瞑想を繰り返していたのです。

だからすぐに察しはついたのです。けれども、今回は手を緩めたくなかったので、何かいい案はないかと考えていたところ、いいことを思いつきました。

それは、苦痛を感じていると過去や未来に飛ばす思考が出て来づらいということに気づいたのです。さあどうする、左脳さん?

こうした経験がないと、なぜそんなひどいイジワルを左脳がするの?それって本当なの?と疑問に思うかも知れませんね。

もちろん私にしても確証があるわけではないのですが、ただ左脳にとって今のワークは自分の活動が制限されてしまうということに気づいているのだろうと。

これだけ左脳優位で生きてきた実績があるのに、なぜ今頃になって急に右脳に肩入れするのか、許さん!ということだと。

ただやはり、苦痛は今この瞬間にいられるように後押しするものだと分かったので、腰痛はかなり楽になりました。

1日が終わろうとしている今、まだ痛みはあるのですが、これ以上悪化はしないのではないかと楽観視しています。

画用紙の白い部分が残っちゃダメ

子供の頃から絵を描くのが苦手で、図工の時間はやる気がないので好きな時間ではありませんでした。今でもはっきり覚えています。

とにかく、白い画用紙に絵の具を塗っていくのに、白い部分が完全に無くなるまで塗る作業をやっていかなければならないのがしんどいのです。

幼稚園の頃は、そんなことは全く考えもせずにただ描こうとする物体の枠を線で描いて終わっていたので楽だったのです。

それが、急に年齢とともにそれではダメだということになって、白い部分が残ってしまうのはなにしろ幼い奴だとなったわけです。

それからというもの、誰かの絵画を観ても、よくぞ全部塗ったなあとそんな具にもつかないことばかり考えているのです。

そんな私が、ふと目の前に広がっている景色に対して、あれ白い部分が完全にないってすごいことだなと思うのです。これ、通じなくて大丈夫です。

こんなおバカな話は、よほど分かり合っている人にしかできません。ところが、最近ある人の動画の内容にドキッとさせられたのです。

それは、私たちが見ているこの世界、この景色は現実のものをそのまま見ているのではなく、現実をベースに無意識が作り上げた仮想世界を見せられているというのです。

それで直感的に、前述した画用紙の話を思いだしたのです。ああやっぱり、いつも自分が感じていること、よくまあこんなに緻密に景色を作ってるなあというのと合体したのです。

この世界、この景色を描いているのは自分だったのかって。そうしたら、よく頑張ってきたなと労いの言葉をかけたくなったというお話です。

呼吸のように自然にやってくる

何度も繰り返し同じネタを書いてしまって申し訳ないのですが、私のマインドの中にいる自動演奏さん、呼び方を変えれば鼻歌野郎のことを、今日もどうしても書きたいのです。

彼は年齢的にはきっと10代だろうと想定しているのですが、なぜなら自分が10代の頃から確実に存在していたからです。

そして今やもう、例えて言うならまるで呼吸のように何気なくやってくるのです。そして、最近では私にバレないように小さな音量で奏でるのです。

私は決して悪者扱いしているわけではないのですが、ただ主人の私がいらない時にやってくるので、それを止めたいというだけなのです。

随分前のことですが、歌手の宇多田ヒカルさんが、常に頭の中に音楽が流れ続けていると言うようなことをある番組で話していたのです。

なるほど、プロのミュージシャンともなれば、それくらいのパッションがあって当然だし、仮に趣味のレベルであろうと音楽に思い入れがある人であれば、いつも音楽と一緒の生活は想像がつきます。

けれども、私は音楽がちょっと好きという程度だし、歌も下手くそだし毎日の生活の中にそれほど音楽が入り込んでいるわけでもありません。

確かに若い頃は、一人で音を重ねて楽曲を作って楽しんだりしていたこともあったのですが、それもど素人のお遊び程度です。

独り言のようなものがバックでずっと続くよりはいいのですが、それでもマインドをシーンとした気持ちのいい状態にしておきたいときに、バックグラウンドミュージックは不要なのです。

彼をおとなしくするのが先決か、彼から距離をとって聞こえないようにするのがいいのか、いずれにしても彼が作った脳内のニューロンの神経回路は、かなり丈夫なものができてしまっているようです。

本気で彼を止めようと思い立ってもうそろそろ一週間が経ちます。まだまだ成果は出ていないので少し先が思いやられますが、この作業も楽しみながらやるようにしたいですね。

運動は思考を止める

週6でスポーツクラブに行って筋トレをしているのですが、上半身と主に下半身とを交互に3日ずつというペースで続けています。

そのうち、下半身の方はあまり好みではないらしく、適当なウェイトでやっているのですが、一方の上半身の方はベンチプレスをそこそこ真面目にやっているのです。

少しでも胸筋をつけようとか、1kgでも重いものを挙げたいといった単純な目的ではあるのですが、今の自分の能力を全開にして挑んでいるのです。

そのせいか、ベンチプレス中はほとんどの思考がやってこなくなるのです。バーベルを挙げているときも、休憩している時も頭の中は空っぽ状態。

今日もう一度確かめたのですが、自分の持っている力を100%近く出そうとすると、余計な思考が入り込む余地がなくなるのですね。

だから、自動思考はおろか、ほぼどんな思考も発生しなくなるのです。100メートルを全力で走っている時に、頭に何も浮かんでこないのと同じです。

楽しみながら身体を動かす程度だとどうだか分かりませんが、グルグル回り続けるしつこい思考を止めたいと思っているなら、運動はお勧めということですね。

あのしつこい自動演奏野郎も、全く動きを停止してしまうようです。今日また運転中に無理矢理メロディを突っ込んできたので、強制的に停止させたら「この曲唄いたいんだろ?我慢するな!」と言われてしまいました 笑。

吉夢に期待したい

年齢のせいなのか、最近はもうずっと夜中に2〜3回は目が覚めてしまうのです。一度も目覚めずに朝までぐっすりというのは、ここ何年も経験していないかも知れません。

昨夜はさらにとても特徴的な夢を見たので、何だこれはと思って目覚めてすぐにネットの夢判断サイトを見てみたのです。

どんな夢かというと、ちょっとびっくりされてしまうかも知れませんが、両親がクルマに乗っていて、後ろから来た何者かに銃で撃たれて死んでしまうのです。

間近で見ていたというよりは、自分も並列にならんだ別のクルマを運転していた感じなので、ちょっと距離をおいて見ていた感じなのです。

だからなのか、ものすごく怖い思いをしたとか、悲しくなったということもなく、意外と冷静でいたようなヘンテコな夢でした。

ネットの情報によると、それは意外にも大吉夢だそうで。予期せぬ幸運が起こることを知らせる吉夢なのだとか。

自分の身に幸運が起こると聞いても、実のところ何も想像できないのがまた寂しいですね。ただ一つだけ、もしかして?と思えることがあります。

それは、先日このブログで書いた自動演奏野郎を、徹底的にウォッチしていずれは息の根を止めてやろうとしていることと関連しているのかなと。

何はともあれ、あまり期待せずに吉報を待とうかなとのんびり構えています。普段は占いなどをあまり信じないくせに、いざとなるとどうしても気になってネット等で調べてしまいますね。 

右脳との繋がりを復活させる

さまざまな動物は、その動物に特有の社会を持っているようですね。象にしても猿にしても、それなりの社会を築いて生活しています。

その頂点に立つのが人類である我々です。人間が作り上げた人間社会は、他のどの動物よりも複雑な社会なので、それに見合った脳も発達させました。それが左脳ですね。

左脳の発達の中でも特に画期的だったのは、今目の前にある現実とは異なる想像の世界を作り出し、それを対象にあれこれ考えることのできる力です。

つまり、過去の出来事を思い返す能力、あるいは未来を想像する能力。そこにこそ時間という概念が入り込んできたのです。

右脳にはその能力がありません。だから、右脳はいつも今この瞬間を生きているのです。過去や未来を考える能力を他人と共有することで、さらに複雑な人間関係や社会にも対応できるようになったのです。

その時間の流れの中にこそ、自我という私が存在するのです。私たちは、過去からこれまでずっと変わらずに存在している私は、確実に存在するものと思い込んでいます。

けれども、それは左脳によって時間の流れの中ででっち上げられたモノだったということ。だからこそ、右脳優位の状態では個体としての私というものが薄れてしまうのです。

左脳の申し子である自我は、左脳が投げてくる思考とベッタリと一体化してしまっています。そして、過ぎたるは及ばざるが如しで、元々右脳が持っている全体との一体感を左脳が遮断してしまったのです。

それが現代人である私たちの不幸なのです。満たされた人生にしたいのであれば、外側に求めるのではなく、太古の昔からある自分の中の右脳との繋がりを復活させるしかないということですね。

とにかく聞いてみる

左脳優位から右脳優位へというお題を自分に掲げて、色々試していく中で、左脳型の私にとって苦手なことがあるのです。

それは、得体が知れない右脳の能力へのちょっとした拒絶感。これ自体が左脳側の発想なのは分かっているのですが…。

論理で考える左脳に対して、右脳の直感は気持ちわり〜い!と言っている奴がいるのが分かるのです。

けれども、そんなことばかり言っていられないので、左脳では決して分からないことを敢えて右脳に聞いてみるということを実践しようと思っています。

今朝のこと、安売りスーパーにクルマで買い物に行ったのですが、そのお店自体には駐車場がないので近くのコンビニの駐車場を利用するのです。

その駐車場、3台分しか停められない上にコインパーキングのスタイルなのです。15分は無料ということで、まあまあ狭き門。

到着する直前に、空いてる?って聞いてみたら、早口の感高い声で、「空いてるヨォ」と教えてくれた感じがしたのです。

おぉ!と思っていざ着いたら、確かに今日は一台も停まっていませんでした。あれが本当に右脳の声なのか、気のせいなのか、はたまた偶然なのかは分かりません。

この一発目の「聞いてみる」に気を良くすることができたので、この調子で実践していこうと思うことができました。

右脳型の人にとっては、当たり前のことなのかも知れませんが、左脳人間にとっては嬉しいことなのです。ただ、左脳がこれから邪魔をしてくるかも知れないなと思っています。

癒しであれなんであれ、邪魔はつきものです。もしも明らかな邪魔が入ったと分かったら、間違ったことをしていないと証明されたようなものですから、よりやる気が出るというものですね。