自分自身は何処にもいない

私たちは、自分の肉体が何処にあるのかは分かっていますが、自分自身がどこにいるのかを知っている人はいません。

もしも知っていると言い張る人がいたら、その人は自分は自分の肉体の中あるいはその周辺にいるに違いないと信じている人です。

肉体から離れて、途方もない場所にいるなんて考えるのは、頭がおかしい人だということです。それは勿論そうですね。

けれども、その考え方というのはあくまでも自分という存在は個人だという思い込みの上にあるものです。

もしもそんなことを一切忘れて、さらに身体の中にいるという感覚も傍に置いてしまったら、やっぱり自分がどこにいるのかなんて分からないのです。

実はそれが真実であり、そのことを誰もが本当は知っているのです。自分の肉体以外の自分を見た人はいないのです。

自分の本質が全体性であるなら、それは場所というものがないので、どこにも見つけられないか、全部だということになるからです。

だからこそ、繰り返しになりますが、自分自身がどこにいるのかを知ることは元々不可能だったということですね。

この事実は、夢の中の自分がその夢をベッドの中で見ている自分を、夢の中に見つけられないのと似ています。

本当の自分はその夢の外側にいるからですね。ということは、私たちの本質も、この世界、この宇宙の外側に在るということになりそうですね。

思考と感情の関係性

思考と感情が違うものだということは、きっと多くの人がしっかり理解できていることだと思いますが、両者の関係はどうなっているのかという点については、もしかしたら曖昧かもしれません。

まずは、感情の多くは思考によって生み出されるということがあります。ただ理由もなく感情が作られることは、ゼロとは言えないにしてもごく少ないのです。

大抵の場合は、思考が働いて起きていることを判断し、そこから必要となる感情がやってくるのです。

例えば惨めだという思考は、悲しみを作り出します。自分は阻害されていると判断すれば、寂しさがやってくるという具合です。

だから思考は感情の生みの親と言ってもいいかもしれません。その一方で、実は思考は感情を味わうことを妨害する働きも持っています。

感情を純粋に味わうためには、思考がなければないほど良いのです。もしもあなたが、起きたことをああでもないこうでもないと思い出しながら、その時の感情を味わうのであれば、非常に効率が悪くなると知っておくべきです。

また思考によって、様々な理屈を使うことで、感情を抑圧するということもあります。命の恩人にセクハラされても、怒りが出ないなどはそういうことですね。

辛い感情から遠ざかろうとして、あらゆる思考をぐるぐる回転させて、考えが止まらなくなってしまうこともあるのです。

思考はマインドのものであり、感情はハートで感じるものです。両者のバランスがしっかり取れていることも大切なことなのですね。

自然→健康、不自然→不健康

もしもあなたの人生が、なんだかとても生きづらいなあと感じているのでしたら、それにはれっきとした原因があるのです。

よくわからない身体の病気や物理的な身体の不具合、そして鬱々とした感覚、晴々とした清々しい気持ちで生きたことがない。

こうした不健康さにはちゃんとした原因があるのです。それを一口で表現すると、不自然な生き方、不自然な考え方でやってきたからなのです。

それはきっと幼い頃からもうすでに始まっていて、本人としてはその自覚があまりないのです。自覚がないことは止めることは無理なのです。

自然であれば健康という結果がやってきて、不自然であれば不健康という結末がやってくるのです。

これほどシンプルで当たり前のこともありません。不自然な毎日を自然なものへと戻していくためには、次のことが必要です。

なるべく思考を使わずに、できるだけシンプルな生き方を心がけること。それは、したいことをして、したくないことはしない。

会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。言いたいことを言い、言いたくないことは言わない。こんな当たり前のことがきっとできていなかったのです。

そしてもう一つは、正しさに拘ってきたことに気づき、それを止めること。正しさよりも気持ちよさを優先する生き方に変えること。

さあ、今日から不自然な毎日をより自然なものに変えていくように生きていくことにしましょう!

2つの真逆な感覚

全体性という言葉を使うようになって、すでに10年は経っていると思うのですが、その感覚はもっと以前からあったものです。

というのも自我(個人)が目覚める以前の幼児期には、誰であれ全体性の感覚だけで生きていたからです。

それをうっすら覚えているか、あるいはすっかり忘れてしまったかの違いでしかないのです。要するに程度の差だけなのです。

ただ今の私にとってはとてもとても大切な感覚として戻りつつあるのです。それは「遍在」している感覚とも言えるのです。

一方で私たちは個人として存在していると信じているので、「偏在」しているという感覚があるのです。これは個別性(局所的)という意味です。

つまり字は似ているのですが、両者は全く真逆の意味を持っています。だからこそ不思議なのですね。

この両者の違いをもう少し具体的に表現するなら、個人(人間)としての私は、この小さな身体の内側にいるのです。

その外側に出ることは許されず、閉じ込められた状態であり、外側には広大な宇宙が広がっているという感覚。

一方の全体性(遍在)は、こちらから見える世界は奥行きがなく、代わりに内側が無限に広くて、実は自己の中に宇宙が包含されている感覚。

本当にどこをとっても真逆なのです。それが私の中で両立しているのだから不思議なことです。

残念ながら普段は個人側で生きてしまっているので、もっともっと遍在側で生きられるように練習する必要があるということですね。

あなたの本質は動けない

久しぶりにクルマを洗ってあげようと思いたって、少しでも楽をしようと考えて自動洗車機を使うことにしたのです。

この時期、外で待つのはしんどいなと思って洗車されてる間クルマの中で待つことにしたのです。

猛烈な勢いで水や洗浄水などが噴射される様を、内側から見ていられるのもちょっとした魅力だったからです。

もちろんクルマはずっと停車したままの状態でいて、周囲を取り囲んでいる洗車の機械が前方からゆっくり後方へと移動するのです。

その時に、クルマがゆっくりと前へ進んでいるとしか感じられない状態になったのです。何となくそんな気がするというレベルではなく、完全に自分が動いているとしか思えない。

一瞬、停止しているはずのクルマが動いて前方の壁にぶつかるのではないかと心配したほどです。

ああ、錯覚だと理解したのですが、まさかバックに進む感じはしないだろうと思っていたら、機械が後方から前方に移動してきた時には、やはりクルマがバックしているように感じたのです。

それもものすごくリアルに。周囲が動いていて、クルマは停止しているのに、その真逆に感じてしまうという錯覚が起きたということですね。

だとしたら、普段クルマを運転している時、自分が動いていて周囲の土地は不動だと思い込んでいるだけかもしれないのです。

実は自分は不動であって、周囲が移動していると。自分の本質が純粋な意識であれば、それは大きさも位置もないので移動するという概念が当てはまりません。

であれば、真実はあなたの周囲だけが動くということです。もしくは全体性というあなたの本質はあらゆるところに遍在しているということ。

やはり動きようがないのですね。

人生のしつこいパターン

もしもあなたが、幼い頃に両親や家族から何かと世話を焼いてもらっていたとしたら、大人になっても世話を焼いてくれる人が現れるはずです。

もしもあなたが、高圧的で正しさを押し付けるような両親に育てられたとしたら、学校であれ職場であれ、必ずや高圧的な先生や先輩、上司に出会うことになるのです。

もしもあなたが、非常に身勝手な親に育てられたなら、大人になっても身勝手極まりない人と縁ができるのです。

もしもあなたが、理不尽だなと感じてしまう家族に育てられたなら、それ以降の人生で何度でも理不尽な人たちに遭遇してしまうはずです。

このような繰り返しを人生のパターンと呼んでいます。そしてこういった不思議な出来事というのは、決して偶然ではないのです。

幼い頃に経験した人間関係は、それを癒さない限りはその後の人生の至る所で繰り返される運命になってしまうのです。

理由は非常に簡単。経験したエネルギーがそれと同じものを再び呼び寄せるからです。こうしたことは、大なり小なり誰でも身に覚えがあるはずですね。

この永久ループから抜け出したいのなら、最も初期の経験をしっかり見直して、その時の思いや感情を味わってあげることです。

自分1人では難しいと感じるのでしたら、プロのセッションを受けることをお勧めします。

子供は大人の父親

私が生まれ育った家の一軒あけた隣の家に、ヨシカズちゃんという同年齢の友達が住んでいました。

彼とは中学校を卒業するまでずっと一緒でした。小学校低学年の頃、夏の暑い日に自宅のベランダで2人でただじっとしていることがありました。

母親はそれを見て、いったい2人はそこで何をしているのだろうと不思議に思っていたそうです。そりゃあそうでしょうね。

ジリジリする太陽の日を浴びながら、そこでただ黙って2人でじっとしていることが私は好きだったのだと思います。

彼は、どういうわけかいつも従順で、私がすることを同じようにする子だったようで、だから特に会話をする必要もなかったのです。

身体を動かすことが嫌いということは決してなく、運動する時には活発な男の子だった私ですが、身体を動かさずにいることの魅力をどこかで知っていたのです。

彼もそれを感じてくれていたのかどうかは、本当のところわかりません。けれども、あの感覚というのは今で言えば瞑想に近いのかもしれないと思うのです。

ある人の言葉で、「子供は大人の父親」というのがありますが、それは子供の頃の奇妙な体験というのは、その後の人生全体について何かを提示しているのだろうということです。

正直に言って、私はあの頃の少年の頃の自分に戻っている感じがするのです。あのヨシカズちゃんとは、その後会うことはなくなりましたが…。

◯◯上戸は危険信号

会社員だった頃の同僚の男性で、飲み会の席でいきなり赤ちゃん言葉になってしまう人がいました。

最初のうちは、本人も周りもただふざけているだけだという認識でいたのですが、そのうちそれが止まらなくなって初めて、ちょっとした異常を感じるのです。

本人は翌日になっても、それをうっすらと覚えているらしく、朝非常に低姿勢で職場に現れるのです。

何度かそれを経験しているこちらとしても、明日になったらまた後悔するだろうからやめた方がいいと飲みの席で注意するのですが、その時にはもう止まらないのです。

そして案の定次の日は決まって、しょぼんとしたうつむき加減で出社するのです。当時は一体彼の中で何が起きているのだろうと思っていたのです。

今ならわかるのですが、彼はきっとなんらかの理由で幼い頃に自由に言いたいことを言えない状況にいたのでしょうね。その不満がアルコールによって解放されるわけです。

お酒を飲むとこのように、普段とは違う態度になってしまう人というのはどこにでもいます。

笑い上戸になったり、泣き上戸になったり、はたまた怒り上戸等々。それは、それらの感情を十分に表現することができなかった過去があることを物語っているのです。

ただし、逆は必ずしも真ではありません。つまり、お酒を飲んでも変わらないからといって、自分は感情を抑圧していないと考えるのは間違いです。

そこのところは、体質が関係しているので、安易に決めつけることはしないようにしてください。その上で、続きを書きますね。

かつて、ある女性のクライアントさんで、アルコールが入ってくると、周りにいる人を殴ってしまうという人がいました。これは怒りが溜まっているのですね。

もしも◯◯上戸の傾向があるという自覚があるなら、過去溜め込んでしまった感情があるということを理解することです。

その上で、しっかりと癒しを進めていくことですね。さもないと、感情は思いもよらぬタイミングで爆発してしまうことになるかもしれません。

さらには、溜め込んだ感情は、その波動と似たエネルギーを持った現実を惹きつけることになるので、人生が台無しになってしまう可能性があるのですね。

母親の影響が大

これは一般論ではあるのですが、多くの場合に子供が直接的に影響をより強く受ける相手というのは、父親ではなくて母親だということ。

もちろん父親と母親の関係性の中で、父親の影響が母親に行き、それが間接的に子供に降りてくるということはいくらでもあります。

ただ、直接的にという点では、母親なのです。父親と一緒にいる時間の何倍も母親と共にいる時間が長いというのもあります。

それにもかかわらず、父親からの影響が大きかったと感じている人は少なくありません。それにも理由があるのです。

それは、父親の方が母親に比べて分かりやすいというのがあるからです。父親は単純で、怒ったら怖いけど機嫌が良ければ大丈夫と言った具合。

ところが母親というのは、なかなか複雑なのですね。父親のようにはっきりしていないどころか、よりわかりづらい点はネガティブなエネルギーで絡められるから。

何があったとか、どうされたということよりも、一緒に暮らしている時間、母親のエネルギーにずっと侵されてしまうということがあるのです。

それが嫌なものであっても、子供は何が嫌なのかを表現できないし、ただ闇雲に怒りを溜め込んでいくしかないのです。

敏感タイプの子供であれば尚更です。こうした事実に気がつけば、よりピンポイントで癒しを進めて行けるはずですね。

擬人化に興味がない

何年か前のことですが、知り合いの男性があるときポツッと、「神はいると思うんだけどなぁ」と呟いているのを聞いたことがあるのです。

独り言のようでいて、それでも周りにいた数人に聞こえるように言ったのだと記憶しています。

彼は、クリスチャンでとても真面目に教会関連の集会などに赴き、いろいろなボランティア活動などもこなす、ナイスガイなのです。

その時の私の反応はというと、「……」でした。というのも、肯定も否定もなくて、ただ言葉を見つけられずにいたというのが正直なところ。

本当はちょっとしたショックというか、こんなに身近なところにまだもって神を擬人化してる人がいるんだなと知って、びっくりしたのです。

私はどうも擬人化というのが苦手のようで、子供の頃から神をどこかにいる偉大な人物のように例えるのを聞くと、馬鹿馬鹿しいと感じていたのです。

それもあってか、仏像などにもこれといった興味がなく、もちろん芸術作品的な見方はできるのですが、それは仏とは何の関係もないと見なすのです。

お寺の奥に御本尊が鎮座ましましている姿を見ても、なんだか偉そうな感じはしても、そこにどんなご利益も感じないのです。

バチが当たると怒られそうですが、それは仕方がない。ただただ興味がないということですね。