家族ぐるみの宗教漬け

私はいわゆる宗教というものとは縁遠い人生を生きてきました。それでも若かりし頃は、どんな教義があるのだろうかという、ちょっとした好奇心はあったと思います。

でもなぜか深入りするようなこともなく、逆に宗教という言葉に若干の異物感を感じる、ごく一般的な日本人だったわけです。

ところが、この仕事をするようになって、意外なほど多くのクライアントさんが、何らかの宗教団体に属しているという事実に出会ったのです。

そしてそれが理由で人生をひどく苦しい状態にしてしまっていることに気付かされたのです。その理由もいたってシンプル。

教義の中で、より良い自分になれ!ということを教わるのですから。裏を返せば、今のままのお前ではダメだ!という事を毎日仕込まれるのです。

私はいつもこのブログでも触れているように、より良い自分、より正しい自分を目指すなら、いつか病気になるという事に気づいて欲しいのです。

幼い頃に、その目標と現実の自分との間の落差に辟易して、惨めさをたくさん溜め込む事になるのです。

と同時に、目標である理想の自分になろうと虚しい努力を積み重ねた結果がウツになるのですね。

こうしたことを見つめると、正しさを教える宗教がどれほど人の人生を破壊してしまうのかが分かるというものです。

日本の家族制度の中で、親がそうした宗教にはまり込んで、家族ぐるみで正しさを押し付けられた子供は、どうすることもできません。

成長して、家の環境が劣悪だったことをしっかり認めて、必要な癒しを進めて行くしかないですね。

ルールや正しさから離れる

私のこれまでの人生の中で、2度ほど生きるのが楽になった時があったのです。一つは小学5年生の頃であり、もう一つは会社員を辞めた45歳の頃です。

小学4年生の頃までの自分は、真面目で正義感が強く、毎晩寝る前に1人で反省会をしているような子供でした。

その日一日の自分の言動を思い出しては、どこかどういけなかったのか、もっと正しい生き方がなかったのかをレビューするのです。

先生と友達との間に挟まれて苦しかったことを覚えています。先生の正しさも理解できるし、でも友達の気持ちも分かるといった具合に。

そのせいなのか、5年生くらいになってから次第に正しいこと、正義にあまり興味を持てなくなっていったのですね。

その結果、ひとり反省会は消滅して、代わりに気持ちのいい自由さを手に入れたような気がしました。正しさから解放されたということです。

ところが社会人になって、根っこにあった真面目さがまた顔を出すようになり、知らぬ間にどんどん社畜のようになっていったのです。

正確に言えば、社畜のように見えて実は単に自己防衛が強くなっていってしまったということです。

その結果が大腸癌という病を引き起こし、小学5年生の時に感じた自由をもう一度取り戻したくなったのだと思います。

自分が家族の大黒柱として働かねばという正しさから離れる覚悟を病気がプレゼントしてくれたのでしょうね。

自分を癒すというのは、培ってきた正しさやルールを傍に置いて生きるようになるということです。

今となっては、もうすでにだいぶ自由に生きてはいるのですが、できたらもう一度くらいどでかい自由を手にするチャンスがやってこないかなと思って、楽しみにしています。

その愚かしさを見る

この世界には悪いことはありません。罪悪とか劣悪とか、とにかく「悪」の字が付く言葉は沢山あるのですが、その悪がないのですから。

それは単なる思考、イメージなのです。その代わりと言ってはなんですが、くだらないこと、馬鹿馬鹿しいこと、愚かしい事はたくさんあります。

その代表格が、「自分はダメだ」、「自分はこのままだと価値がない」という信念ですね。

この間違った愚かしい思い込みがあるおかげで、人々はより立派な自分になろうと奮闘努力をするのです。

その目標に近づいていくことが成長だと勘違いしているのですから、本当に愚かしい限りです。

本当の成長とは、自分の間違いに気づくこと。自分のままではダメだという愚かしさに気づいて、目標に到達しようとするあらゆる努力を落とすこと。

実際、気づいてしまえば落とすなどという作業は必要なくなります。あるがままの自然な姿にOKを出せれば、目標など自ずと消えてしまうからです。

善悪があると信じていること自体が愚かしいことだし、その馬鹿馬鹿しさ全体を丸ごと見てしまえば、それだけで事足りるのです。

そのあとは、自動的により気楽な自分になっていることにびっくりするでしょうね。誰のマインドも全部その仕組みも働きも同じだと見抜くこと。

そうしたら自我が大好きな「ランク付け」も全くもってくだらないことだと一掃することになるでしょうね。

公的自己と私的自己

公的自己というのは、他人との関わりの中で養われていく自分のことです。社会の中で生きて行くには、必要なものですね。

じゃあ、独り部屋で過ごしているときには、私的自己になるのかというとそんなことはなく、あくまでも公的自己のままでいるのです。

それはとても面倒臭いことになってしまっているのですが、あまりにも公的自己のことを自分自身だと強く信じ込んでしまったために、それが外れなくなったのです。

あまりにも長く一つの仮面をかぶっていたら、自分の素顔のことを忘れてしまったということに近いかもしれません。

この公的自己のことを、一般的には自我(エゴ)と呼ぶわけです。どうですか?あなたには、公的自己である自我の他にも私的自己というのがある、と言われてもピンとこないでしょう?

それもそのはず、私的自己のことは幼い頃に次第に忘れていった残念な経験をしているからです。

最初は少しずつ、私的自己から徐々に公的自己へとグラデーションのように移り変わり、気がついたときには私的自己は奥深くへと葬り去られたのです。

公的自己である自我にとって、私的自己を思い出すことは危険を伴うことになると感じるからでしょうね。

そんなこんなで、私たちはみんな自我として毎日生活しているのです。そして時々は私的自己を垣間見る体験をする人もいるのです。

私的自己とは、私たちの本質、純粋な意識、全体性、どんな呼び方でも同じです。それに気づかずに死ぬのは、本当に勿体ない。

いずれは公的自己が落ちて、代わりに元々の私的自己が出現することになるのでしょうけれど…。

完全さと全体性は真逆

昨日のブログでは、完全になろうとせずに「不完全であれ」というお話をしました。不完全であることが自然だということ。

自我は完全さを追い求める習性があるのです。それこそが不自然だといっているのですね。

完全さを求めるのは神経症のようなもの。絶対に不可能なことに挑戦し続けるのですが、それによって自我は存続するのです。

なぜなら、完全さを求めるということは、今の自分の不完全さと未来の完全さの間で分裂してしまっていて、それこそが自我(思考)の本性だからです。

分裂の反対が全体性です。全体ということはそれが全てでそれ以外はないので、分裂ということが不可能だからです。

全体性あるいは全一性でもいいのですが、自分の中が分裂せずに一つになっている状態。ここに自我が入り込む余地はありません。

あなたが何かに集中している時とか、熱心に脇目も振らずに物事に取り組んでいる状態では、あなたは一つになっているはずです。

全てを忘れて歌ったり、ダンスをしたりして開放されている瞬間があるなら、その時にもあなたは一つになっているのです。

そのような時には自我は落とされている状態なのです。ただし、それはあくまでも一時的なものです。

普段の状態に戻れば、すぐに自我が戻ってきてあなたを分裂の中へと戻してしまうのです。

完全さは全体性とは真逆であるということをしっかり理解することですね。

不完全こそ素晴らしい

この世界には罪というものは存在しないのです。なぜなら、罪は思考が作り出した幻想、イメージだからです。

けれども、敢えて罪があるとした時に、この世で一番罪深いこととは、「あなたのままでは価値がない」という教えだと思っています。

なぜなら、幼い頃に「自分のままでは価値がない」という自己イメージが植え付けられてしまうと、その人は死ぬまでそのイメージの虜になってしまうからです。

ちなみに、どうしてそんな冷酷無比なことを伝える親がいるのかというと、親自身も幼い頃からずっと、「自分のままでは価値がない」という自己イメージを持たされていたからなのです。

もちろん、親自身はそんなことをしているという自覚は全くないにもかかわらずなのです。

人はされたことは仕返しするものです。そうして、知らず知らずのうちに世代を超えてこの劣悪な教えの連鎖が起きるのですね。

子供は、何とかして少しでも価値ある存在になろうとして、あらゆる努力をし続けるのです。それは必ず酷い自己犠牲を伴うことになるはずです。

価値がないという自覚ほど、惨めなことはありません。生きているだけでも罪深く思えてくるのですから。

解決策はたった一つ、価値ある自分になろうとするあらゆる努力をやめること。不完全であることが自然だし、素晴らしいことだと気づくことなのですね。

自己イメージが人生を決める

誰もがうっすらと気づいていることがあります。常識的にはなかなか信じ難いことではあるのですが、それでもきっとそうかもしれないと…。

それは、自分の観念が現実化してしまうということ。もっと簡単に言えば、考えていることがそのまま現実としてやってくるということです。

そういえば、という感じがする人の方が多いと思います。それでも、宝くじに絶対当選するといくら考えても、やはり当たらないじゃないかと思うかもしれません。

実は、表面意識で宝くじが当たると思っていても、その10倍の力で無意識の中で宝くじには当たらないと思っていれば、その力の方が強いので当たらないという現実が起こるのです。

幼い頃、まだ自我が十分に発達していなかった頃から自己イメージが出来上がってしまうのですが、それが一生その人の人生を支配してしまうのです。

自己イメージとはもちろんイメージですので思考なのです。観念、あるいは強い信念といってもいいのです。

私たちはその自己イメージがやっぱり正しかったと確信するような経験を何度もすることになるのです。

自分の人生は何でこんなものなのだろうか?と不満に感じているのでしたら、間違いなく自己イメージが原因となっていると知ることです。

そして人生を変えたいと真に願うのであれば、なんとしてでも自己イメージを変えてしまえばいいのです。

そのためには、自己イメージはそれがどんなものであれ思考でできていることを見抜いて、それが作られた過程を真正面から見てあげること。

勇気を持ってしっかりと見ることができれば、自己イメージは次第に薄れて来るはずです。そうなったら、あなたは自由になりますね。

希望も絶望もない

歳を重ねてみて、分かることがあります。きっと若いうちは頑張っても気づくことができないことがあるのですね。

若い頃というのは、人生はまだまだこれからと思っています。だから、希望があるのです。今はこうでも、きっと未来にはこうなっているに違いない。

希望を信じて、それに向かって生きることは、人生の支えになるのです。私たちの毎日は希望によって下支えされているということです。

ところが、長く生きて人生の終わりが透けて見えるようになってくると、そろそろ希望を持つことが難しくなってきます。

そして、希望を叶えたところで、期待していたようなことにはならないことを知ってしまうのです。

要するに、願いが叶っても結局は満たされることはないということ。この気づきが年齢を重ねてきた今の一番の大切な気づきかもしれません。

希望を持つことができなくなるといっても、若い頃のように希望の反対である絶望がやってくるということとは違うのです。

希望も絶望もどちらもなくなるのです。過去を思い出すことも、未来を思い描くことも無くなるわけではないですが、その頻度が激減します。

今日一日くらいがちょうど自分が生きている視野の範囲になってくるのです。今日に焦点が当たっている感じですね。

それが更に進んで、今この瞬間だけに生きていられるようになれたら、それはもう理想ですね。

自我の孤独を認める

私たちの根っこにある恐怖とは、孤独だということです。人は、独りで生まれてきて、また独りで死んでいくのですから。

その誕生と死の間で、自分は孤独ではないというごまかしをしつつ生きているのが私たちの人生というものです。

だから共に生きるとか、何かを共有する誰かを必要とするのです。ごく普通は家族がその役目を果たし、大人になると恋愛相手がそれに取って変わるのです。

どんな手段を使ってでも、孤独ではないと思いたいのです。孤独ではないと証明しようとして、人生は終わっていくのですね。

ところが残念なことに、自我は原理的に絶対的な孤独であるしかないのです。それを受け入れるしかないのです。

幽霊を怖がるのも、本当は孤独があるからなのです。愛する人にどれほど強く抱き締められたとしても、溶け合うことはできません。

辛いことですが、孤独に直面して、孤独であることを認めること。そこから変容が始まるのですから。

自我の私が孤独そのものであるとしても、自我が架空のものであればそれからやってくる孤独も実在のものではないのです。

そのことを見抜くことができれば、孤独を紛らすあらゆる馬鹿げた人生の浪費から足を洗うことができるはずですね。

非論理は神秘的

今も残っているのかどうかは知りませんが、私が学生の頃は理系と文系というように分かれていました。

人をそんなふうに分けるなんて、あまりにも雑過ぎるとは思ったのですが、世の中がそんな具合だったので、私自身も自分は理系なのだと思っていました。

理系だからなのか、論理的な考え方がやっぱり性に合っていると感じていて、逆に非論理的な事は苦手だったのです。

過去形で書きましたが、当然今もその傾向はしっかりと残っています。けれども、それよりも自分の中で急成長してきてしまったのが、非論理の魅力。

よく見てみればわかることですが、自然というのは非論理的であるし、真理などというのは間違いなく非論理的だと言えるのです。

論理的というのは思考で解釈できることを表し、非論理的とは思考では解釈できないこと、あるいは否定的に捉えると訳の分からないこと、となるのです。

私たちのマインドが思考によるプロセスであるからこそ、論理的なことを好む傾向があるのですね。

科学者は、論理的にこの宇宙の統一理論を見つけようと頑張っています。けれども、私に言わせればそれは所詮無駄なことのように思えるのです。

すでに量子力学の世界では、非論理的だと思われることが多発しています。どう考えても辻褄が合わないのだけれど、宇宙はそんなことはお構いなしなのです。

真理とは決して思考で解釈できるようなものではなく、だからこそ魅力があるのです。それを神秘と呼べばいいのかもしれませんね。