「私」という牢獄

誰もが自由を求めて生きているのは周知の事実ですね。最も欲しているのは自由だとも言えますが、そのくせ不自由な毎日を送っていると感じている人も多いのではないでしょうか?

いや、俺はとても自由奔放に生きてるぜ!と豪語する人もいるかもしれません。けれども、真の自由とは「私」から自由になることなので、俺は自由だと言った時点で「俺」に捕まっているのです。

「私」から自由になるとはどういうことでしょうか?そして「私」に捕まっているとは?ここの部分をよ~く追求してみると、その意味がはっきりしてきます。

あなたは、「私」という存在と、その外側の世界という具合にこの世の中を見ているはずですね。ところが、あなたが何を見るにしても、何を聞くにしても、何に触れるにしても、「私」というフィルターを通しているのです。

これを投影と呼んだりもしますね。「私」というフィルターとは、「私」が自動的に知覚したものを判断したり、解釈したりと勝手な色付けをしてしまうということです。

言ってみれば、サングラスをかけているのに、それに慣れてしまってかけていることに気づかなくなっている状態と考えればいいわけです。

つまり、あなたはこの世界をあなたの「私」色にして、それをあるがままの世界の姿だとして暮らしているということです。だからあなたの世界と別の人の世界とは違っているのです。

それぞれが、固有の「私」が作った牢獄の中から抜け出せずにいるのです。そのことに気づいてさえいないかもしれません。気づいた人だけが、抜け出そうとして探求を始めるわけです。

なぜ、「私」は常にフイルターをかけてしまうのでしょうか?それは、あなたの「私」それ自体が、周囲の人々の「私」というフィルターによって、でっち上げられたものだからです。

「私」とは、幼い頃に親や周りの人たちの「私」によって反射されたものをその都度、ペタペタと張りぼてのようにして貼り付けて行くことで、作られたものだということです。

だから、「私」とは架空のものです。中身はがらんどうなのですが、中身が詰まって実体があると思い込んでしまったのです。その結果、「私」という実体のない怪物の虜になっているということです。

これがあなたの本当の不自由の正体です。「私」という牢獄から解放されたくなりましたでしょうか?その牢獄から、解放されると知覚がストレートになり、すべてがそれ自体をもっと主張してくるように感じるでしょうね。

「私」という思考による緊張

人前に出るとそれだけですごく緊張してしまうという人もいますね。あがり症と言われることもあるでしょうね。その緊張とは一体どこからくるのでしょうか?

ずばり、緊張とは思考からやってくるのです。逆に言えば、思考は緊張を生み出すということです。それも必ずです。どんな静かな思考であろうとも、それに見合った緊張を発生させるのです。

だから緊張しがちな人というのは、それだけ強い思考がマインドの中を巡っているということになるのです。適度な緊張は問題がないばかりか、ときには必要となることだってありますね。

けれども、緊張がある一定以上になったり、緊張を緩めようとしているのにそれができないということこそが、問題になるわけです。

その緊張を緩める唯一の方法は、その元となる思考を緩めるということです。ゆったりくつろいでいることをイメージすれば、思考も緩んでいるということがすぐに分かるというものです。

思考が自分の意に反して常に活発になるとしたら、それは強い自己防衛がそこにあるからなのです。つまり、自分を守ろうとして思考が活動し、その結果として緊張が起こるということです。

静かに瞑想をする練習をしていくことで、思考が緩むようになっていくはずです。その結果として、緊張も小さくなっていくのです。

その際、瞑想している「私」がいるなら、緊張の緩みはある程度のところまででストップしてしまいます。なぜなら、「私」という思考がそこに残っているからです。

「私」という思考が在る限りは、その思考による緊張が生み出され続けるからです。私たちはいつだって、「私」がここにいると感じながら生活していますね。その分だけの緊張は、決してなくならないということです。

本当に身体の芯からリラックスできるようにするには、「私」という思考さえも落ちて行くことが必要となるのです。何かの加減によって、あなたの中の「私」が落ちることがあれば、それまで体験したことのない安らぎを感じるでしょう。

一度でもその体験をしたなら、それを忘れることはできなくなるはずです。

「非二元」の本を読んで…

珍しく、馴染のない人物の本を読んでみたのです。今月出たばかりのホヤホヤの本なのですが、その題名がちょっと魅力的だったものですから、ついふらふらと買ってしまいました。

その名も、『すでに目覚めている』 by ネイサン・ギル っていうのです。きっとその分野ではそれなりに名の通ったお人なのでしょうね。私はまったく知りませんでしたが…。

で、単刀直入に感想を述べさせてもらうと、ああこれって勘違いしてしまう人が沢山いるんだろうなあということです。私自身の中にも、その勘違い野郎がいるから分かるのです。

このネイサン・ギルという人がどんな人物なのかは知りませんが、とにかく理路整然と真理について言っているのです。勿論彼の言葉の中で間違っている箇所はありません。

すべてが正しいのですが、それがあまりにもスッキリし過ぎていて、どうも真理の一面だけを表現しているように思えてならないのです。

以前ラメッシという人の本を読んで、すごく気持ちがスッキリしたことがあったのですが、何となく彼と同じ匂いを感じてしまうのは私だけでしょうか?

このネイサン・ギルという人の言葉には、真理が持っているその独特の矛盾性や非論理性などを感じることができないのです。間違ってはいないけれど、胡散臭い感じを拭いきれないのです。

方便らしきものが一切ないのです。さらっと読んでつるっと理解してしまうと、後はもう何もないのです。私自身の中で、彼が表現している『「私」が見抜かれる』ということが起きたりしているので、すごくタイムリーなのですけどね。

あとちょっと数十ページだけ読み残しがあるのですが、読み終えたところでこの印象はきっと変わらないでしょう。ただ人によっては、読んでいくらか気持ちが楽になることもあるでしょうね。

でも弊害の方が多いかもしれませんよ。それはですね、真理を分かってしまったと勘違いしてしまう可能性があるからです。この手の本が流行りだとすると、要注意です!

勿論、私の個人的な感想に過ぎないということをお忘れなく。

思考には二種類ある

実は思考には二種類あるというのをご存じですか?本質的に言えば、思考はあくまでも思考であるので二種類あるなどということはないのですが…。

でも自分が感じる感覚としては、二種類あるということです。一つ目は、ごく普通に「考えている」という思考ですね。明日は嫌な上司と話し合わねばならないとか、昨日は彼氏にひどいこと言われたとか。

過去を思い出したり、未来のことを想定したり、こうして通常考えているものが、一つ目の思考です。そして、その思考を見ようと思えば見ることができるのが、二つ目の思考です。

ああ、今自分はこんなことを考えているなあ、と自分の思考を観察しているのなら、その観察している側も思考なのです。ではなぜ、一つ目の思考と分けるのか?

それは、二つ目の思考を簡単には見ることができないからです。それが、実はエゴなのですね。それは、「私は居る」という思考を基盤として成り立っている思考群なのです。

だから、もしもあなたがこのエゴという思考群を見ようとしても、そう簡単には見つけることができないのです。その結果、「私という存在は確かにいる」ということは事実であって、思考ではないという感覚になってしまうのです。

「私」というのが思考だということに気づくことができると、「私」と距離を置くことも不可能なことではなくなってきます。そうなると、本当のあなたは、あなたが日頃感じているこの「「私」ではないことにいずれ気づくことができるでしょう。

瞑想中に深く深く進んで行っても、あくまでもその瞑想をしている自分がいる限り、それはエゴの領域内でのことなのです。私の感覚では、より深くというのはより下に向かっていくというイメージがあります。

けれども、「私」という思考から抜けるためには、それを置き去りにするときには、下方向というよりも方向が曖昧な「あさって」の方向へといくというか、あるいは同じ場所にいながらにして突然居場所に対する感覚が変わるという感じがします。

そもそも瞑想というよりも、眼を開いている方がその感覚になれるような気がします。とここまで書きましたが、実は昨日のブログを書いたせい?なのか、あれを再現することがどうにもできなくなってしまいました。

きっと、起きたことを思考によって文章に変換してしまったせいで、その体験をエゴが横取りしてしまったために、もう「私」を超えることができなくなったのだと思うのです。

ですので、しっかりと自分のものになるまでは、このあたりの微妙な体験をブログに載せるのは今後控えようと思っています。また地道に「放っておく」ことを実践していくのみですね。

自分を置き去りにする

それなりに、自分のやり方で瞑想を続けてきていたのですが、何となく分かっていたことが現実となっちゃいました。それは、これって全然瞑想になってないじゃない!というものです。

いつもの瞑想中に、すごく奥深い(と感じる)ところに形容できない何か別の部分があることを感じてはいたのですが、それがもしかしたら自分の本質なのかも…と思う程度でした。

それが、夕べ起こったのです。そこは、自分が関与できない場所なのです。そして、それに移行することで自分という縛りから解き放たれる感覚になっちゃったのです!

そこには自分がいませんでした。だからといって、何かとてつもなく崇高なことが起きているというような感覚もなく、大きな感動がやってくるでもなく。

そのためには、あるコツがあるということが分かったのです。修行もいらないし、何の努力もいらないのですが、だからと言って今までずっとやってきた瞑想が全くの無駄だったのかどうかは、定かではないです。

これまで瞑想していて、それがどんなに深く心地いいものであったとしても、所詮は自分(エゴ)の中でのことだったのが、そこから脱出するコツを掴んだような気がするのです。

エゴがエゴから脱出するという矛盾がそこにはあるわけで、それだけに非常に繊細な何かがあるのです。本当は、脱出するのではなくて、自分を置き去りにするというニュアンスなのです。

自分は決してそこへは行かれない、ただ想いを馳せるといった、そんな感じがちょうどいいのです。自分(エゴ)がとても粗雑な粒子であるなら、そこはものすごく滑らかな静謐さがありました。

敢えて言えば、風鈴の音を感じている場のようなものと近いかもしれませんが、これ以上言葉では無理ですね。自分の思い通りにそれがやってくるように、練習するつもりです。

そして、できる限りもっと詳細に方法などをお伝えできればと思っています。

放っておきましょう! その2

昨日のブログの「放っておく!」実践というのは、実は「ただ見る」ということと同じなのです。遠いものを放っておくと、その存在すら気づかなくなってしまいますね。

けれども、すごく近くにあるものを放っておくことにすると、それを見ずにはいられません。私に最も近いのは、私ですので、その私を放っておくということは、それをただ見ることになるというわけですね。

そのただ見るというのは、能動的に見るということではなくて、受動的に見るということです。このニュアンスが少々微妙なんだと思うのです。

最も密接にくっついている私を放っておくようにすると、それまで気づけなかった感情の移り変わりや、その時々の私の心の反応などにより敏感になるようです。

今日は、甥の結婚式&披露宴があって出席していたのですが、やはりというか当然というか、「放っておく」実践を忘れてしまう時が多くなってしまいました。

それでも、放っておく感覚を思い出せたときには、不慣れなところで若干緊張している自分のことを、とても素直に感じることができたりしましたね。

この「放っておく」実践、すごくお勧めですよ~!

放っておきましょう!

う~ん、最近自分のブログを読み返してみて感じることだけど、何だかえらく真面目くさっていて面白味に欠けるし、どうもどこかに深刻さのスパイスが効いている節があるなと…。

人間というのは、どうしたらリラックス(安心)できるのかと奮闘努力している矛盾に満ちた存在ですが、このブログを読んでリラックスできるようには、どうも思えない。

究極は勿論リラックスへの道というつもりで書いているのですけれど、ちょっとこのテイストは飽きてきた感じがしているのです。

ということで、これからはもっと軽~い気持ちで読めるものにしたいと思うのですね。さて、気分が軽~くなってくれるためには、どうしたらいいのだろうか?

それはきっと、すべてを放っておくということ!なるようになるに任せるってことです。結果を心配する自分を放っておきましょう。

結果を喜ぶ自分のことも放っておくし、結果を残念がる自分のことも放っておくことにしませんか?トイレに行きたくなった自分も放っておきましょう。そのうち、どうせ行くし(笑)。

というより、トイレに行きたくなったのでトイレに行く自分を放っておくということですよ。

そしたら、放っておかれた自分の身体、自分の思考、自分の気分、それが全部自分ではなかったとどこかで分かることになるような気がします。

みんなで、放っておく練習をテキトウにやりませんか?

本当に「知る」とは…

私たちのマインド(エゴ)は、ものごとの知識を得ることによって、いくばくかの安心を手にすることができるのです。逆に知らないという状況は、不安を覚えることになるのですね。

だから、内面に大きな不安を抱えている人は、それを何とかして安心に変える一つの手段として、知識というものを利用しようとするのです。

ところで、私たちの知識というものが、本当の意味で「知る」ということとは大いにかけ離れているということはご存じでしょうか?

たとえば、あなたが知らない花を私があなたに見せたとすると、あなたは「これなんていう花?」と聞いてくるでしょうね。特にその花が綺麗で興味を持てば…。

私が花の名前を「○○という花ですよ!」と伝えたら、あなたはもうすでに知らない花ではなくなったと感じることでしょう。つまり、名前を知っているということだけで、知らない花ではなくなってしまうのです。

どれだけ名前を覚えたとしても、それは単にその花に名札をつけたことにしかならないのです。この自然界には、どんな名札もついているわけではありません。

後々、あなたがその花に興味を持って、図鑑などで調べてみるかもしれません。○○科といった分類のことや、そこに書いてある詳細な説明をこまかに覚えたら、それで知ったことになるでしょうか?

それもただの知識に過ぎないのです。そんなことで、その花の存在そのものを知ることにはまったくならないのは当然のことですね。

本当に「知る」とは、マインドの範疇ではなくて、ハートによるものだと理解することです。もしも、あなたが街でその花を見つけたときに、何の解釈も判断もなしに、その花のあるがままを見るのです。

そのとき、生はあなたにその花を「知る」ことを、少しだけ許してくれることになるはずです。あなたがハートを開いて、その花を受け容れた分だけ、あなたはその花自体を「知る」ことになるのです。

花についての知識と花そのものを知ることの違いを理解することですね。

気づきは言葉で表現できない

自分なりには充分に分かっていたつもりでいたのに、何かの拍子にそれまでとはまったく異なる理解がやってくるということがありますね。

それは理解の深さが違うというのか、それこそ気づきがやってきたということなのかもしれません。実は自分にとって、とても嬉しい一つの理解がやってきました。

言葉で表現すると、なんだそんなことか、それなら前々から知っていることだと言われそうなのですが、それでもそのことで私の場合には確実に楽になれたのです。

幼い無邪気な子供が、突然恥ずかしがるようになるということがよくあるのですが、それはそれまではエゴがまだなかったり、発達不足であったために自覚が曖昧だったのです。

ところが、エゴの発達のある地点から自分という存在がここにいるという明確な意識が芽生えることによって、自分は周りから見られる存在なのだと感じ出すのです。

ずっと周りを見るだけの存在だったからこその無邪気さだったものが、見られる自分というものを意識するようになってしまったからこそ、無邪気ではいられずに恥ずかしがるようになったわけです。

そこからが人間の苦しみが始まるということです。見られる自分というのは、常に他人からの評価の対象として存在するようになるため、心理的な自己防衛が開始されるのです。

恥ずかしさとは恐怖から来るものです。愛の表現であった無邪気さは、あっという間に恐怖という防衛へと変遷していってしまうということです。

今日の私の理解とは、エゴとは見られる存在であり、真の自己とはただ見るだけの実在だということです。この違いは決定的なのです。

あなたの肉体やあなたのエゴは見られたり、評価されたりする対象としてビクビク生きているのですが、その一方であなたの本質は、誰かから見られるという対象には決してなり得ないということです!

いいですか、本当のあなたは決して対象にはなれず、常に主体であるということです。

あなたの本性とは…

あなたは、あなたという存在について誰かに説明しようとするとき、あなたが所有しているものや、あなたが所属しているもの、つまりあなた自身ではないものを省いてあなた自身をどう説明するでしょうか?

あなたが所有しているものとは、あなたの財産やあなたの保持しているあらゆる記憶、あなたの家族やあなたの趣味なども広い意味ではあなたの所有しているものですね。

あなたの性格や信念信条など、あなたの人格だって最終的にはあなたが所有しているものということになります。あなたが所属しているものとは、国籍や仕事などであって、当然それもあなた自身ではありません。

さて、そうしたものをすべて脇へ置いてみて、あなた自身を誰かに説明するならどのようになるでしょうか?このようなことを一度でも、突き詰めて考えてみたことはあるでしょうか?

もしもあるのでしたら、自分自身とは一体何かを表現することはほとんど不可能だと気づいているはずです。あなたは人類に所属しているので、人間だと言えますが、それもあなたそのものではありません。

確かにあなたには身体がありますが、その物理的な肉体ですらあなたが所有しているものに違いないのです。残るあなたの正体とは一体何なのでしょうか?

余分なものをそうやって剥ぎ取っていくと、最後には何も残らないという結果になるのです。本当に何もありません。瞑想すれば、自分が人物ではないということもはっきりしてしまいます。

人物としてのあなたは、表面的なもの、他人から見えるもの、評価されうるものでしかありません。その内奥には、あなた自身もまったく知ることのなかったあなたの本性が隠れているのです。

隠されているものとは、何も無さであり、だからこそ時間や空間からもかけ離れた何かであるのです。何も無いということは、生まれもせず死にもせず、何も無さとしてただ在るのです。

それがあなたの本質、本性なのですね。