鏡を見るのをやめる?

私たち人間は、自分のことをどうやって知るのでしょうか?例えば、鏡に映った自分の姿を見て、自分は今こんな外見をしていると知ることができますね。

けれども、それはあくまで鏡の中の像としての自分です。像ということは、イメージです。本当の自分ではなくて、イメージに過ぎません。

私自身は、歳を重ねるごとに、そして最近はもう本当に鏡の中の自分に対して、非常に違和感を感じるようになっています。

あれ、こんなに年取っていたっけ?これが本音なのですが、それ以外にも普段は自分に顔があることを忘れているので、たまに鏡で自分の顔を見ると不思議な感じがしてしまうのです。

若い頃でしたら、しょっちゅう鏡で顔やヘアスタイルなどを確認していたのでそんなことはなかったはずなのですが、今では自分に顔があることが不思議なのです。

鏡が映してくれる自分とは、他人から見た自分の外見でしかありません。自分の内面を映し出してくれる鏡などないのですから。

だから、私からの提案なのですが、今日から鏡を見るのをやめませんか?といっても、鏡をまったく覗き込まない生活をしろと言っているのではありません。

鏡を見るときには、自分という存在を見るというのではなく、ヘアスタイルを整えるため、あるいは女性であれば化粧をするためだけに見るということです。

つまり、目的を絞って見るのです。そこに映し出された像を自分だと信じることをやめるという意味なのです。

そうすることで、内側へと見る方向を変えて行くことができるのです。その方法でしか、自分のことを知ることはできないのですから。

自己表現や怒りを抑える三つの要素

クライアントさんとのセッションの中で、もう数えきれないほど何度もお伝えしていることがあるのですが、それは、自己表現や怒りを抑える三つの要素についてです。

ストレートに言いたいことが言えない人、怒りの感情を表現できなくなってしまっている人が沢山いるのです。その原因はいろいろあるのでしょうけれど、以下の三つが主だった要因なのです。

その⒈

相手のことが怖い場合。恐怖を感じてしまうと、自分を守ろうとして自己表現は抑えられてしまいます。そして、怒りも恐怖が蓋をして感じなくなってしまうのです。親に叱られた幼い子供は大抵恐怖から無邪気な表現をやめてしまいます。

その2.

相手が大変そうだったり、余裕がなさそうで可哀想に感じていると、そんな人に追い打ちをかけるように言いたいことを言ったり、相手に怒りをぶつけることができなくなるのです。なぜなら、可哀想な人を更に辛い思いをさせたと思えば、罪悪感に潰されそうになるからです。

その3.

何等かの理由で自己嫌悪を感じていると、人は自分が悪いのだから仕方ないとして、言いたいことを抑えてしまうし、怒りもしぼんでしまうのです。

幼い時に、この三つの要素の一つでもあれば、そして同時に二つあるいは三つとも思い当たるなら、自由な自己表現と感情表現(特に怒り)は徹底的に抑圧されてしまうということです。

そうした抑圧は自分を守るための方法として、私たちの生き方の中に定着してしまうことになるのです。そうなったら、それを修正していくのは大変なことです。

そうした生き方を作り込んでしまった過去まで遡って、その時の恐怖や罪悪感、自己嫌悪、怒りなどを味わうことで、少しずつ変えて行くことができるのです。

欲望は大損をする

芸能の分野であれ、スポーツの分野であれ、何であれ熱狂的なファンというのがいますね。私自身は、昔から誰かを熱狂的に応援するということはあまりありませんでした。

それでもたまには、真剣に応援するようなこともあって、その時には例えばスポーツの試合であれば、楽しむというよりもドキドキしてしまうのです。

勝っても負けてもいいじゃないなんていう悠長な気持ちではなくなってしまうのです。そうなると、勝たせてあげたいという欲望が出て来るために、選手が失敗したらどうしようとビクビクしながらの観戦になったりするのです。

もうそうなったら、自分の子供が試合をやっているような応援の仕方になって、オーバーに言えば楽しむどころかとても見ていられないというところまできます。

こういうことで分かるのですが、欲望が強くなればなるほど、人は楽しむことから遠ざけられてしまうということですね。一番大切な遊び心が消えてしまうのです。

勿論プロの選手自身は、真剣そのものであるのは当然なのですが、なぜか見ている私の方が若干深刻さが混ざってくるのです。

応援している選手が勝ったらホッとして、負けたら無念な気持ちになり、どっちにしてもその瞬間を楽しむことができなくなっているのですから、大損ですね。

欲望というのは、所詮そのようなものだということです。欲望が小さければそれだけ結果にこだわることがなくなり、瞬間瞬間を楽しむことができるのです。

欲望は時間を無駄遣いしてしまうということですね。

無目的になる!

私たちは、幼い頃から何か目的を持って生きていくべきだということを教え込まれます。目的がなければ、その日暮らしの怠惰な人生になると想像できるからですね。

何か明確な目標を掲げて、それに向かって一歩一歩前進して、たゆまぬ努力を実らせてゴールに至るのが理想的な生き方のように感じています。

そしてめでたく一つの目標をクリアしたなら、次なる更に大きな目標を設定して、継続して邁進することで人生が推移していくということです。

それには終わりがありませんが、そのようにして絶えず前を向いて今よりも明日、明日よりもその先の未来によりよき人生、より素晴らしい自分を築いていこうとするのです。

このようなことがたとえ実践できていないにしても、正しい生き方のように感じている人は沢山いるのでしょうね。実は、私の中にもそうした部分がないわけではありません。

けれども、そのよさげな生き方について、その根本に一つの疑問、問いかけが浮かんでくるのです。それは、なぜ目標、目的がなければダメになってしまうと感じるのかということです。

それはきっと思考の仕業なのです。思考というのは、絶えず過去を題材にして現在や未来と比べたがるのです。比べれば、より良く、より高く、より上手に、より賢く、となるのです。

それがあたかも素晴らしいことのように感じるのですが、ひとたび思考を落としたなら、その比較や判断が消えることで、より○○というものもなくなってしまいます。

すると、意識が突然今この瞬間にのみ固定されるのです。元々意識には過去や未来というものがないのです。それは思考の中にのみあるものだから。

私たちが信じてきた素晴らしい人生、素晴らしい自分を未来に求めるのは、ただの思考の中での話しだったと気づけばいいのです。

私たちは思考ではありません。思考がなければ、どんな目的も目標も消えてしまいます。そのときに初めて、今この瞬間を静かに満喫しきることができるのですね。

占いが当たらない人!?

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、占いが大好きな人が結構いらっしゃいます。特に女性の場合が多いかもしれません。

占いとは確かに不思議なものなので、私もそれなりには興味がないではないのですが、何で当たるのか考えたことはありますか?

実際に、相当の確率で当たることは周知の事実のようですね。勿論偽物の占い師も沢山いるでしょうから、そういうのは別として…。

占いが当たる一つの理由として考えられるのが、私たちのマインドは予想がつくというのがあります。マインドとは思考の塊りであって、思考そのものは常に古いものだからです。

思考は過去から成り立っているために、全く新しいものを生み出すことはできないのです。だからマインドの行動を予知することは意外と可能なのです。

単純な人の行動パターンはすぐに見破られるのですが、そうでなくても所詮はマインドなのです。だからこそ、予想が的中してしまうのです。

ということは、マインドが落ちてしまった覚者、光明を得た人を占うことは難しいのです。実際、かつて仏陀のところに有能な占い師が会いにいったという逸話が残っています。

その占い師は、自分の技術をフルに動員して仏陀を見抜こうとしたのですが、そうすればするほど、皆目占うことが不可能だという結果が出てしまったのです。

それで困ってその占い師は仏陀にどうしたことかを問うたところ、仏陀が言うには、自分のすぐ未来のことも分からない。まったく予想できないので、占うことができなくて当然だと言ったそうです。

予想がつかない人って魅惑的ですね。占いが当たらない存在になりたいものです!

天国はどこにある?

旅行が好きな人が多いですね。いつも生活している慣れた場所とは別の、どこか違う土地、違う国に行ったら新鮮な気持ちにもなれるからかもしれません。

そんな人に対して、私は密かに「人間、どこへ行っても同じだよ」と言っているのです。旅に行く人たちの気持ちもよく分かるのですが、自分の内側ではどこでもいいという声がいつもしています。

人はどこか別の場所、ここではないもっと違うところに夢を抱いているのかもしれないですね。そこへ行けば何かが変り、もっと素敵なことがあるかもしれないと。

実はあなたの環境がどのようなものであれ、それはあなたの内面を映し出しているに過ぎないのです。天国はどこにあるかを探す必要はありません。

あなたの内面が天国であれば、あなたが今いる場所が天国になるということ。天国を探すということ自体が、あなたの内面が天国ではないことを露わにしているのです。

逆に、もしもあなたの内面が辛く苦しい状態、つまり地獄であれば、あなたがどこへ行こうとそこが地獄になってしまうのです。

その一方で、あなたが変わろうとしている時、何だかもう今いる場所にはいたくないと感じ出すかもしれません。それは、あなたの内面と外側のエネルギーがそぐわなくなってきているからです。

そんな時は、あまり考えずに行動することです。気の進まない場所に長居は無用とばかりに、どこか別の場所に移ることをお勧めします。

なぜなら、無理に居づらいところにいつまでもいれば、せっかく変わろうとしていた内面が、元のところに引き戻される可能性があるからです。

思考+無意識が物語を作る

私たちは、物語の中に入り込めば込むほど、無意識へと移っていくのです。この単純なカラクリに気づいていないことが多いのかもしれません。

けれども、注意深く見てあげれば分かることです。夢の中が最も分かりやすいですね。夢の中では、私たちは意識がありません。

つまり、これが夢だと気づいていないということ。意識とは気づきだからです。これが夢だと気づくことがあれば、瞬時に夢から醒めてしまいます。

夢の中にいる条件は、無意識の状態でいるということなのです。映画を観ているときにも、同じことが言えるのです。あまりにも映画の内容に没頭してしまえば、それが映画だということを瞬間忘れてしまいます。

それもまた無意識の状態なのです。無意識だからこそ、映画の物語の中へ入っていくことが可能なのです。さて、私たちが生きているこの現実ではどうでしょう?

残念ながら、自分の人生という物語の中で生きていると思っているのでしたら、やはりマインドの多くの部分が無意識状態だと言えるのです。

もしも私たちが、一瞬一瞬の自分自身に気づいていられるのなら、それだけ無意識から抜けることができるのです。完全な意識の状態になれば、時間は消えてあらゆる物語も一緒に消えて行くのです。

つまり、目覚めてしまうということです。そこには、どんな物語もありません。在るのは、ただ今この瞬間だけになるのです。過去も未来もあなたも私もすべて、物語を形作っていたすべての部品は消えてしまいます。

それこそが真にリアルな世界なのですね。

真実はシェアできない その2

昨日のブログで、究極の真理、真実は共有することができないということを書きました。だから未だに私たちは思考の中、物語の中で生きて人生を終えて行くことになるのです。

でもなぜ、共有できないかということをもっと突き詰めて見てみたいと思うのです。実は、真理はまったく隠されてはいません。

私たちの目の前にいつもその姿を晒し続けているのです。真理にヴェールがかかっていて、だから見つけられないと思うのは間違いなのです。

もしも真理にヴェールがかけられているのなら、やはり誰かがそのヴェールを剥ぎ取ってくれたなら、相対性理論の発見と同じようにして、みんなで真理を分かち合うことができたはずなのです。

けれども現実はそうなっていません。その理由は、ヴェールをかけられているのは真理ではなく、私たち自身の方だったのです。

だからこそ、仏陀が自らのヴェールを剥ぎ取って真理を見い出せたとしても、それだけでは誰も直接その恩恵を受けることができなかったのです。

仏陀がやったこと、つまり個人的なレベルで自分にかけられたヴェールに気づき、それを剥いでいくという同じことを私たち一人一人が独自にやらねば、真理は見つけられないのです。

もしも身近にいる誰かが覚醒したとしても、その人の真似をしたところで同じことが起きることはほぼないのです。私たちは自分の個性に見合ったやり方で、それぞれに探究するしかありません。

だからこそ、人と共有することができない内面の領域へと、深く深く入っていくしかないのですね。

真実はシェアできない

かつてニュートンが万有引力の法則を発見しましたが、人類はそれをみんなで共有してうまく利用してきました。人類が初めて月へ着陸したのだって、その法則を使って天体の軌道を計算することができたからです。

アインシュタインの相対性理論にしても、素人にはとても難しくてチンプンカンプンではありますが、他の物理学者その他の人たちによって利用され、人類に貢献しているのです。

文明の発展や科学の進歩は、このようにして誰かの発明や発見をみんなでシェアすることができた結果だと言ってもいいのです。

誰か偉大な一人の人間の成果を、みんなで共有することができて初めて、進化を可能なものにするのです。もしもそれができなければ、ニュートンの発見の後も、私たち一人一人が同じ発見をしなければなりません。

それでは、どれだけ時間が経ったとしても、人類の進歩を望むことはできませんね。なぜそんなことをここで言うのかというと、実は私たちが真に求めている真理については、みんなで共有することができないからです。

2500年前に仏陀が光明を得たときに、その成果を共有できたのなら、誰もが労せずして覚醒することになったはずなのです。

けれども結果を見れば明白なように、残念ながら、真理だけはまったく個人的なものなのです。真理は体験であり、理論や理屈で解明することができないものなのです。

思考を超越したものだからこそ、何かの法則や学問のように共有することが不可能なのです。だからこそ、真の宗教は個人的なものなのです。

教典や教義をみんなで読んだり学んだりする組織だったいわゆる宗教では、何万年学んだところで光明を得ることはできないのですね。