人生劇場

今日、午後からのセッションに備えて準備しているときに、「ああ、これって人生劇場なんだ!」というニュアンスの気づきのようなものがやってきました。

今この瞬間、自分はこの人生を生きているけれど、実は人生という劇の一こまを演じている一人の役者であって、でも本当の自分はその劇を制作したプロデューサーとして満足げにそれを上の方から見ているんだと。

この感覚は理屈ではなくて、それがやってきた瞬間になんだかとても開放されたようないい気持ちになりました。すべてはすでに決まっていて、それを見ている自分はとても穏やかでした。

夜見る夢もそうですね。夢の中の登場人物としての自分はそれを本当の自分だと思っているのですが、実際は睡眠中に夢を見ているのが本当の自分なわけです。

夢の中の自分はそのことに気づかずに、いろいろ思い悩んでみたり、道に迷って焦っていたり、みんなから置いてけぼりをされたりと辛い目にあって余裕がないのですが、
どんな悲惨な夢を見ているときでも、本当の自分は暖かい布団の中で寝ているだけなのです。

この人生も寝ているときの夢も、どちらも自分が制作、脚本、監督、主役、キャスティング、すべてを担当しているという感覚は、とても深い安心感のようなものに包まれるという体験ができるみたいです。

人生に台本があるということは、役者による多少のアドリブは入る余地があるものの、基本的にはストーリーは全て決定しているわけです。

こういう話しをすると、運命論者だという烙印を押されるかも知れませんね。運命が決まってるなんて、つまらない考え方だと思ってる方もいらっしゃるかもしれませんが、本当はそうではないと思います。

本当に気に入っている映画は繰り返し観たりすることがあるように、ストーリーも結末も分かっていてもそれを楽しむことができるのです。

そして、もっとも大切なことは、たとえ人生のストーリーが決まっているとしても、心のあり方の詳細までは台本には書いてないのかもしれません。

台本には書き表すことが難しい本当の幸せは、役者の選択に任されているのではないかと思います。

カーナビ

カーナビは今やクルマには欠かせない装備になってしまいましたね。私は使い出したのが比較的遅かったのか、約10年前くらいからのお付き合いです。

どこへ出かけるにしても、よほど熟知している場所以外はカーナビで目的地を設定してから出発するのが習慣になっているほどです。

最近では、タクシーや運送車などプロのドライバーの方たちの間でもカーナビを使う人達が増えているみたいですね。

カーナビは、GPSと呼ばれる静止衛星からの電波を利用した測位システムの機能によって、地球上のどの位置に自分がいるかが分かるというすばらしいシステムを利用しています。

こんなすばらしい文明の利器を使わない手はないな、などと思って、手に入れるタイミングを探していた頃、「俺はカーナビなどに頼るようなことはしない、地図とあとは動物的勘によって運転するんだ」と豪語している友人がいました。

彼によると、「男は自分の力で目的地まで到着するのがかっこいいし、人が作った機械なんかに指図されたくない。機械は故障することもあるし、何かの理由で使えないことなどがあったときに、カーナビ依存者は困ってしまうんだぞ。」とも言っていました。

彼の言い分はすべてが単なる強がりというわけでもないですね。レンタカーなどで旅行先で移動するときなど、カーナビがついてない場合にはとても心許ない感じがしてしまいます。もっとも、最近ではレンタカーにもカーナビは付いているようですが。

カーナビで目的地を設定して走行中に、誘導してもらってるルートを外れてしまうと、すかさず元のルートに戻すべく新たに最適なルートを提示してくれます。この機能もすごいなと思っています。

先日遠出したときにも、自分が敢えてカーナビの提示するルートと違う道を選んだ瞬間に、また新たなルートを教えてくれました。その時に、ふと感じたのですが、このカーナビの機能って、聖霊みたいだなと思えたのです。

聖霊というのは、自分の心の中の愛の部分のことで、それはいついかなる状況においても、自分にとって最も愛のある言動についての選択ができるように囁いてくれるのです。

どんなに自分が愛の伴わない言動をしてしまったとしても、またそこから最適な言動ができるようにと、いつも指示を出してくれているのです。

だから、カーナビを頼りにドライブしているのと同じで、自分は毎日の生活の中で、何度間違えた言動をしたとしても、聖霊はすぐに元通りにしてくれようとするのです。

当時の友人のように、男は自分で自分の方向を決めるんだと力むのではなく、その反対に人生のカーナビである聖霊に人生を任すことです。聖霊はカーナビのように故障してしまったり、使えないということがありません。

なぜなら、自分の心の一部に常にあるわけですから。ただ心が曇っていると、聖霊の声が聞きづらくなるということはありますので、できるだけ穏やかな気持ちで聖霊の声に聞き耳を立てるという習慣をつけることが必要です。それが幸せへの最短ルートだと思います。

時間 その2

「コース」によれば、時間という概念の中で、過去は罪を、未来は恐れを表すと教えています。

確かに私たちが罪があるとするのは、起こしてしまった事柄に対してですから、それはすべて過去に属していると言えます。

そして、これから起こることは誰にとっても100%の確証を持つことはできませんので、そこには不安や恐れが宿ってしまうわけです。

しかし、よくよく考えてみると、過去の事とは言え罪を認めるのは現在ですし、未来を予測して恐れを感じるのも現在なのです。

過去何が起ころうと、それは現在ではありません。未来に対してどんなことを予想しようと、それも現在ではありませんね。過去も未来も一体どこにあるというのでしょうか。

本当は今しか実在しないというのに、なぜ過去や未来に我々は振り回されてしまうのでしょうか。それは、きっと心の問題なのだと思うのです。

英語に現在完了という文法上の表現がありますね。たしか、have + 過去分詞の形式だったと思います。これは、過去のある時点から現在まで継続している何かを表すときに使うものです。

例えば、3年前に会社に入って今もそこで働いているなどという場合には、きっとこの現在完了形を使うんでしょうね。

このような場合に、私たちの心の中では3年間継続してその会社で働き続けているということを表現しようとしているのですが、実は3年間働き続けているという現在があるだけなのです。

もしも、3年前に入社したという過去の出来事を表現するのであれば、それは単純な過去形を使うのですが、その場合でも、過去そういうことがあったという現在があるだけなのです。

過去も未来も時間という概念によってあたかも実在するもののように捉えてしまう習慣になっているだけで、本当は現在があるだけなんだということです。

このことがはっきり分かると、過去にも未来にも影響されずに今にいることができるようになるはずです。それは、罪からも恐怖からも開放された平安な心だけがあるのではないでしょうか。

時間

時間というのは不思議なもので、物質ではないのは明らかですが、かといって実在するかというと、そうとも言えなくなりますね。こういうのを概念というのかもしれません。

もしも、時間というものを概念だと言い切ってしまうと、どうなるでしょうか。概念というのは、私たちの心の中の抽象化されたイメージです。

りんごという概念、空という概念、人という概念など、そのどれも実在する個別のりんごや空や人とは全く違う、心の中に作った抽象的なものですね。

でも時間が概念だとすると、それに対応する個別の時間というものがあってもいいのですが、そんなものがないのは自明のことですね。

しかし、時間の隔たりということになると、私たちははっきりとした感覚を持つことができます。間延びした長い時間は退屈に感じるかもしれないし、楽しいことはあっという間に終わるという感覚を持っています。

過去と現在と未来を理解できない人は一般的にはいないでしょう。これも時間という概念がベースとなっていることは明らかですね。

「奇跡のコース」の教えによると、この世界のベースとなっている時間と空間は幻想だと言っています。真実の世界は時空のない永続的な全体でしかないということです。

そういわれても、私たちは常に時間の中でいろいろな制約を受けながら毎日生きているわけです。

時間という概念には、それは経過するものだという属性も含まれていますね。だから私たちは現在という時がずっと連続してあるというのではなく、現在はすぐに過去になり、少し先に待っている未来はそのうち現在になると考えているのです。

なぜ現在がずっと継続するとは思えないのでしょうか?それはこの世界のありとあらゆるものが変化をするということが経験上分かっているからだと思います。

変化というものが全くない世界であったら、時間という概念を作ることは不可能になるでしょうし、その結果は過去も未来も現在という概念すらなくなってしまいますね。

習慣 その2

5月8日のブログで「習慣」について書きました。何かを手放すという場合に、そのこと自体よりも習慣になってしまっている事そのものを手放すということの方が、意外にも難しいというお話でした。

私たち全員が間違いなく習慣化してしまっていることは、実はエゴを選択するということです。それはあまりにも当然のこととして、やり続けてしまっているために選択していることすら気づかないくらいです。

ですから、習慣になっていると言われてもきっとピンとは来ないはずですね。しかし、私たちはエゴそのものでは決してありません。ということは、やはりしっかりとエゴを選択しているということです。

エゴは愛と対極である恐れや怒り、罪悪感などがベースであるため、この習慣をやめない限り本当の幸せはやってきてくれません。

習慣を手放すもっとも大切なことは、そのモチベーションです。何かそれなりのメリットでもない限り手放す必要もないわけですから。

タバコをやめることで健康になるとか、朝寝坊をやめることで一日の時間を有効に使うとか、そういったはっきりとした目的がなければ習慣はやめられません。

しかし、どんな習慣にも大抵はそれをやり続けるメリットのようなものがあるはずなのです。それを無視しないことですね。

タバコを吸うことでイライラしていた気持ちを落ち着けることができるとか、ダイエットの代わりになるなどです。この続けたい部分の気持ちを無視すると、習慣を手放すことはうまくいきません。

逆にその部分をしっかり見てあげることです。それでも当初のモチベーションが高いままでいられるなら、習慣はやめていくことが可能なのです。

エゴを選択するという習慣をやめたら、確実に幸せになるということを理解しなければその習慣をやめることもできません。なぜなら、エゴでいることで、自立もできるし、自分を危険から守ることもできると考えているからです。

それともう一つ、エゴを選択している限り、そこにはニセモノの愛しかないので、決して幸せはやってこないということを見極めることです。

このことに関しては、このブログでも今までに何度となくお話ししてきていますので、それが自分のものになっている人であれば、モチベーションは高く保てるはずですね。

エゴを選択するという習慣を手放して、愛を選択することを意識的に続けていくことで、今無意識にエゴを選択しているのと同じくらいに習慣的に愛を選択することができるようになるはずです。

そこにこそ、本当の幸せがあるということですね。

決意する

「奇跡のコース」の中の言葉に、『決心する力は自分自身にある』というのがあります。当たり前といえばその通りですが、「コース」では決心することが人生を変えるということを強調しています。

私たち誰もが例外なく、強烈な決心をしてしまったことが一つだけあります。それは、エゴに従うという決意です。

元々決心、あるいは決意するという心の機能はエゴが作ったものなのですが、それを使ってエゴそのものを自分の主人として選択してしまったのです。

そのことにはっきりと気づくことが大切なのです。なぜなら、この世界に悲しみや苦しみなどが横行しているのは、全部それが原因だからです。

私たちはエゴを選択するという決意をしたことの自覚がありませんね。逆に、エゴ=自我が自分自身だと思い込んでいます。

自我があるからこそ、自立した一人の人間としてこの世界で生きていくことができると思っているのが普通の人の感覚だと思います。

ですので、エゴが苦悩の根源だと言われてもピンと来ないのかもしれません。しかし、自分が知らないうちに持ってしまった常識的な考え方や価値基準などをなるべく使わないようにして、この事を考えてみて欲しいのです。

エゴは条件付の愛で人を愛し、自分を自立させることで、しっかりと自己防衛の体制を整えながら生きていこうとする心です。

そこには、真の愛はありませんし、その代わりに恐れや怒りなどで防衛しようとしているのです。だからこそ、地球上から戦いがなくならないのです。

自分はエゴではないという自覚をすることです。ただ、エゴを選んでしまったということです。選んだものは、それを撤回して別のものを選びなおすことができます。選びなおす決意をするだけでいいのです。

別のものとは、エゴと対極である心のもう片方にある愛の部分です。愛は心であり、意識ではありませんが、そこを選択することで人生を全く違うものに変えていくことができます。

新しい選択をするという決意が出来た人からこの世界で幸せになっていくのだと思います。

条件付の愛 その2

愛とは元々無条件であるという特性があり、条件付の愛というのはニセモノの愛だというお話しをしました。

ニセモノの愛の化けの皮を剥ぐと、そこには恐れや怒りなどが隠れています。いつもお話しているように、本当の幸せを手に入れるためには、できるだけ純粋な愛を与えることです。

それ以外に自分を幸せにする方法は一つもないということをしっかり自覚することです。すばらしい快適な生活を手に入れても、やさしい彼に守られて安心することができても、おいしい食べ物や高級ブランド品を沢山買い集められても、本当の幸せを手に入れることはできません。

ここが分からない限り、それこそニセモノの愛で作ったニセモノの幸せで、自分を騙して満足したつもりになって生きていくことになりますが、その人生はおのずと色あせて何を得たとしても満たされることのない毎日に気がついてしまいます。

誰の心の中にも間違いなく、純粋な愛が満ち溢れています。それが本当の私たちという存在なのですが、エゴがたくみにそれを覆い隠して生きてきてしまったために、自覚をもてなくなってしまったのです。

愛を使おうと思っても、必ずといっていいくらいに恐れや怒り、犠牲や取引といったものがついて来て、純粋な愛を汚してしまうのです。それは人間である以上、ある種仕方のないことかもしれません。

しかし、「奇跡のコース」ではその不純物を使わないようにして、可能な限りの真の愛を与える方法を教えてくれています。

愛をそのまま自分の中にしまっておくことはできません。愛は与えることによって限りなく拡張しつづけるという性質を持っています。そして、与えることによって、自分の中に眠っていた愛に更に気づくことができ、与えた側も与えられた側もともに愛を増やして行くことができるのです。

愛を与える人になるかどうかは、自分の選択一つにかかっています。他には何の条件もありません。生まれながらの気質や能力には一切関係ありません。

エゴが作った選択するという誰もが持っている心の機能を、そのためだけに使うことにしたいですね。

条件付の愛

「条件付の愛」という言葉には、それ自体に矛盾を包含しています。それは、愛は無条件であるからですね。ですから、無条件の愛という言い方も重複してしまっているわけです。

なぜこのような間違った表現をしてしまうかといえば、無条件というものが愛の特性であるということをどこかで忘れてしまって、愛という言葉を乱用するからに他なりません。

それだけ私たちはこの「愛」という言葉の意味を自分勝手に変化させて使っているということです。それは、元々「愛」の本当の意味が実は誰にも分からないからなのではないかと思うのです。

分からないなりにも、それなりのイメージというものは誰でも持っているはずですね。例えば、我が子を愛する親の気持ちというのは、子供がどうであれば、成績が悪かろうが、悪態をつこうが、愛しいと思う気持ちは変わらないわけです。

こういうのは、確かに子供に対してあれこれ条件をつけずに愛しているわけですから、真の愛なのではないかと思えるわけです。

一方、様々な条件を満たした人が現れてくれたので、恋人になってもらったというような場合には、その相手をどんなに愛していると言っても、条件付きの愛であるわけで、つまりそれは愛ではないということになってしまいます。

また、相手が自分を愛してくれるという条件で、自分も相手を愛するという場合がありますね。このような場合も典型的な条件付の愛と呼べるものです。

条件付の愛、つまり偽りの愛で相手を愛しているという場合には、本人に真の幸せがやってくることはありません。なぜなら、条件を付けるということ事態、相手を裁くという心に通じるからです。

裁くということは、怒りや恐れがその背後にあるわけです。実は、愛がないところには、必ず怒りや恐れがあります。逆に真の愛があるところには、他に何もありません。

つづく

普通の生活

「奇跡のコース」は、私たちがこの世界でどうしたら本当の幸せを手にすることができるかということについて、丁寧にじっくりと教えてくれます。

その教えは、一般的な物事を見る尺度で判断すると、とても特別なもののように感じるのですが、実は我々を暖かな思いで見つめる愛に満ちた教えなのです。

「コース」ではごく普通の生活の中に、幸せになるための沢山のヒントと実践の場が用意されていることを教えてくれています。

108つある煩悩を取る必要もないですし、仙人のように山にこもって霞みを食べて生きていくような生活をする必要もないと言っています。

本人がやりたいのであれば、インドで難行苦行の生活に入ることも悪くはないのですが、そんな特別なことをしなくてもいいと言っています。

修行をしてそれこそ超能力的なことを身につける必要も全くありません。かえってそういったことは本質を見逃す恐れがあるかもしれません。

来月から始める「ヒーリング講座」の目的も、みなさんに本当の幸せを見い出していただくことが目的であって、普通の人から特別視されるような超能力者になっていただくことが趣旨ではありません。

どんな能力もその人を幸せにすることはできないからです。ごく普通の毎日の生活の中にこそ、数え切れないほどの癒しの種がころがっています。

ですから、どんな仕事をしていても構いませんし、仕事をしていなくてもいいのです。自分を癒すことも人を癒すことも分けることはできない一つのものだと気づくことです。

それが結局、この世界そのものをも癒すことにつながるのです。自分の毎日の生活にしっかりと目を向けて、逃げずにすべてを赦すことです。

それでは、とてもシンプルすぎてつまらないから、もっと画期的な方法を教わりたいと思うかもしれませんが、実は本当のことというのはすべて単純なのですね。

シンプルだから簡単かというとそうとばかりは言えません。私たちは間違った生き方がしっかりと習慣づいてしまっているので、それをはずしていく必要があるからです。

そのすべてを「コース」は教えてくれています。

予約カレンダー

つい先日、急に思い立ってセッションの予約状況を知らせるHP上のカレンダーの表示形態を変えました。実はもっと前から変えようと思ってはいたのですが、なにぶん作ってからもう何年も経っているために、プログラムの詳細を忘れてしまっていて、改造するのに手間がかかるだろうと予想して手をつけるのを躊躇していたのです。

しかし、いざ改造を始めてみてとても簡単にしかも思ったような修正をすることができました。やはり、案ずるより生むが易しですね。

今までの表示形態は、予約が入った時間帯を「予約済」として表示する方法でしたが、今回の手直しでは、予約できる時間帯を「予約可」として表示するようにしました。

改造する前と後とでは、どちらも予約状況を把握するという機能は同じなのですが、私の目線で作るのか、クライアントさんの目線で作るのかの違いなのかなと思っています。

そして今回プログラムを変えながら自然と思いついたことなのですが、過ぎ去った過去の状態を表示することに意味がないと感じたのです。

このブログでも時々話しがでることですが、過去から逃げようとするのではなく、過去に意味はないとして現在に目を向ける生き方がとても大切なのだという理念に従って、過去を「past」と表示するだけにしました。

みなさんもこのカレンダーをご覧になるたびに、過去はないんだということを実感していただけたらと思います。

残念ながら、今日以降の未来の予約状況を表示するのをやめてしまうと、カレンダーそのものの存在理由がなくなってしまうので、それはできませんが、本来は過去も未来もないという理念に従えばカレンダーはいらないのかもしれません。

そこまで達するのには、まだまだ時間がかかりそうです。