自分自身でいること

あなたが「私は他の誰でもない、自分でいよう。どんな犠牲を払おうと、私は自分自身でいるのだ」と決めたまさにその瞬間に、あなたは大いなる変化を目にするだろう。あなたは活力を感じる。エネルギーがあなたの中を流れ、脈打つのを感じるだろう。

by osho

私たちにとってできそうでできないのが、↑これなのかもしれません。ただ自分のままでいたなら、周りを傷つけてしまうかもと思うのです。

自分自身でいるなら、誰かに嫌われてしまうかもしれないし、否定されてしまうかもしれません。

役立たずだと思われるかもしれないし、人非人だと捉えられてしまう恐れも出てくるのです。

そんなこんなが怖くて、どうしても何かを取り繕ったりして、自分自身のままではいられずに生きているのですね。

だから、人の役に立ちたいと思うし、誰かの期待に応えたいとも思うのです。そうなると、ありのままの自分が犠牲を払うことになるのですが、それも仕方ないと割り切るのです。

そしてそのツケがいつか大きな津波のようになって、襲ってくるのです。もしも生きていて、なんだか不自由だなと感じるのなら、こうしたことをしていないか疑って見ることです。

その上で、ぜひ極端に走ることなく、少しずつでも無理をしないようにして、いつでも自分の本音に耳を傾けつつ、他の誰にもなれないのだから自分のままでいようとすればいいのです。

こうした努力は、勇気がいるものですが必ずやいつかは人生を活力ある清々しいものへと変えてくれるはずなのです。

正しさを拠り所にしない

先日あるテレビ番組で、かつて体罰による教育?で話題になった「戸塚ヨットスクール」について、ご本人を招いて議論するというのがあったのです。

正直びっくりしたのですが、実はもう数十年も前に閉鎖になっていると思っていたのですが、まだやりつづけていたのですね。

ご本人によると、体罰で服従させることでしか、人を立ち直らせることはできないなどの信念があるらしいのです。

その信念が非常に頑なであって、それ以外の意見をまったく受け入れずに否定するのです。

私にとって、人が独自に持っている信念や正しさの中身については、人それぞれなのでどうでもいいと思っているのです。

それよりも問題となるのは、それ以外はすべて正しくないとしてしまう石のように硬いマインドなのです。

正しさを身にまとってそれを拠り所にしてしまうと、必ずや周りに本人にとって正しくないと思う人たちが集まってくるのです。

その理由は簡単です。元々、正しさというのは正しくないということとの比較の上に成り立っているものなのです。正しさだけでは成立しないのです。

だからこそ、自分の正しさを際立たせたい思いが強ければそれだけ、周囲に正しくない存在が必要になるのです。

そして自分が周囲を否定する分だけ、周囲から否定されるということが起きるのですね。

あなたが持っている正しさにはどんなものがありますか?それがどんな正しさであれ、生きる基準をそこに置く代わりに、清々しさをどれだけ感じているかを見るようにするといいのです。

正しさは人を岩のようにしてしまいます。できるだけ柔らかく、水のようにどんな形にもなれるような柔軟なマインドの方が生きやすいはずですね。

 

子供らしさと子供っぽさ

私が思うに子供と大人の違いというのは、大人は大人の体裁をまとった子供だということです。

大人へと成長したマインドには、子供の部分が沢山しかも色濃く残っているのです。つまり、誰のマインドであれ中身は所詮子供なのです。

それをどうにかこうにかごまかしながら、大人として見てもらえるように日々頑張っているというわけです。

そのことに気づいている人は幸運かもしれません。なぜなら、自分だけでなく他人のマインドの子供の部分にも気づいていれば、人との関わりの中で比較的動じないでいられるからです。

所詮は子供のマインドのなせる技だと思えば、いろいろなことを大目に見ることもできるし、自分のこともあまり責めずに済むのです。

ところで、マインドの中に残っている子供の部分ですが、実は1つではなく大雑把に言って2つの部分に分けられるのです。

1つは、子供らしい無邪気な部分、そしてもう1つは子供っぽい未熟で病んだ部分です。後者を一般にインナーチャイルドと呼びます。

私たちのマインドは、幼い頃から生まれながらの無邪気な部分と、病んだ部分に分裂してしまうのです。もちろん悪影響を及ぼすのは後者ですね。

大切なことは、どちらの子供の部分にも同じように気づいてあげること。マインドを癒していくというのは、隠されてきた無邪気な部分を解放してあげること。

そして、病んだ部分を小さくしていくことです。つまり、前者と後者のバランスが逆になっていくということなのですね。

愚痴と泣き言の違い

私はいつも、他人の愚痴は聞くべきではないと言っています。それはもちろん、自分自身も愚痴は言わないということですが…。

人の愚痴を聞いてあげるということが、一見人助けのように思えるかもしれませんが、愚痴を聞いてもらって幸せになることは決してないのです。

逆に愚痴を聞いてあげたら、その人の気づきを妨害するようなものなのです。なぜなら、自分で問題を見つめることをしなくなるからです。

一度聞いてもらえば、それは必ず繰り返されるようになるはずです。愚痴を言ってなぐさめてもらえたら、楽だからですね。そうして人を依存させてしまうのです。

一方、愚痴を言うのとは少しニュアンスの違う、泣き言を言うというのがありますね。もちろん両者は重なる部分があるのも事実です。

けれども、泣き言というのは自分の認めたくない否定的な部分、情けない自分などを打ち明けるという感じがあるのです。

これは愚痴を言うのと違って、ある程度勇気のいることです。つまり、泣き言を言う場合には、ハートを開く必要があるということ。

それは危険なことなのです。愚痴を言うのが自己防衛なら、泣き言を言うのは無防備なニュアンスがあるということです。

惨めさを吐露すると言った感じといえばいいのでしょうか。こちらは大いにお勧めです。

そして当然、人が正直に何かを吐露するときには、誠心誠意それを受け止めてあげることですね。

仲良しのフリをするのはやめよう!

子供の頃、大人たちから「友達とは仲良くしなさい」と教えられたという人は多いのではないでしょうか?

私自身も明確な記憶はないものの、何となくそんなニュアンスのことを言われたような感覚が残っています。

けれども、自分にとって相手と仲良くしようとしたり、親切にしようとするときというのは、決まって大して親しくない相手のときでした。

つまり親しい友達といるときというのは、意識的に仲良くしようとする必要がなかったということで、これは当たり前のことですね。

元々仲がいいわけですから。ということは、大人たちが教えていたことというのは、人と争ってはいけないということだったのでしょうね。

でもそれはなぜなのでしょう?きっと、子供が喧嘩をしたりして悪い雰囲気になるのを見ているのがいやだったからなのです。

そんな大人の都合をおしつけるのではなく、子供には社会の中での一定レベルのルールを教えると同時に、それ以外は思い切り自分らしくいろと言ってあげること。

誰かと仲良しのフリなどしなくてもいいということ。喧嘩をすることも大切な学びの一つだし、誰かを嫌いという気持ちを抑圧してはいけないということですね。

いい子のフリをしているうちに、本当の自分を見失ってしまい、大切な自分の気持ちが分からなくなってしまったらそれこそ一大事です。

自分自身を尊重して生きることを子供には教えてあげたいものですね。その結果、人を尊重できるようにもなるのですから。

虚構を見抜くことこそが真の救い

ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり、どこにいるのかを–
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない
なぜなら、深く進めば進むほど
あなたは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ

by osho

エゴにとって、自分という存在が虚構だったと気づくことほど、空恐ろしいことはないでしょうね。

網の目のように張り巡らされた思考の中で生きている限りは、これが現実でありこれが自分自身なのだという感覚を持ち続けることができるのです。

だからその安心感の中にずっといたいがために、思考を途切らすことができないのです。誰もが基本的には瞑想が苦手なのはそのためです。

思考から離れてしまえば、何もかも消えて無くなってしまうのです。というより、あるとかないとかというそのこと自体が消えてしまうのです。

本当にそこまでいってしまえば、実は恐怖もなくなってしまうのですが、中途半端な状態で無を感じると不安や恐れが出てくるのです。

人生で何があれ、それがどんなものであろうとも、マインドという思考の塊から距離を置くことができると、そこには完璧な救いがあるのです。

それを知っているかどうかは、ものすごく大きな違いではないかと思うのです。それを知らずに生きている人の何と多いことか。

この世界の中に救いがあるのではなく、この世界も含めてすべてが虚構であることを見抜くことこそが、真の救いなのですね。

無意味さはネガティブなことではない

真の探求は、生は無意味だと感じるようになるところからしか始まらない。もし意味があれば、誰がかまうだろう? もしある種の満足があって、物事が完璧にうまく流れ、人生において成功し、人生が仕事や野心でいっぱいであれば、誰が真実や神にかまうだろう?

by osho

日頃から物事を深く見ることができるなら、必ず人は生は無意味だと感じるはずなのです。逆に何かに熱中していたり、他の誰かになろうとしているなら、盲目になってしまうでしょう。

野心で溢れているなら、無意味さには決して気づくことができません。欲望が絶望になろうとするときに、ようやく意味などないと気づくのです。

無意味さとはネガティブなことではなく、エゴが生きていくエネルギーを見失ったときに感じるものなのです。

何を手に入れても本当には満足することができないと分かれば、その時点で生の無意味さが理解できますが、人は繰り返し繰り返し欲望を満たそうとすることをやめられないのです。

そうして初めて真実への探求という事態が起きてくるのです。こんなに無意味なのになぜ自分はここにいるのだろう?という根源的な探求ですね。

そしてその探求は、それ自体が無意味だったと気づくまで続くことになるのです。本当は無意味なのではなくて、意味があるとか意味がないということではないということ。

真実はそのどちらでもないという気づきとともに、人は救われるのですね。

ノーマインド=悟り

心とは欲望することを指すのだ
心というのは実体のあるものじゃない
心というのは何かそこに存在するものじゃない
心というのは、欲望するというプロセスにすぎないのだ
あなたが欲望すれば
そこに心がある
欲望しなければ
そこに心はない
そして、そこに心がなければ
悟りがある

by osho

↑上で心とは、このブログではマインドという言葉を使っています。日本語ではハートのことも心と表現することがあって、紛らわしいからです。

「マインド=欲望すること」とはっきり言ってくれてるのですが、通常私たちはマインドの中に欲望があると思い込んでいるからです。

そうではなくて、マインドとは欲望することそのものだと言っているのですね。そして、私は欲望=自己防衛だと思っています。

欲望するのは、欲しいものを手に入れて満たされようとするためなのですが、それは安心を得ることに結果としてなるからです。

それこそが心理的自己防衛だからです。つまり、欲望しなければマインドはなくなるということは、防衛しなければマインドは消えるということ。

無防備な状態でいるときには、どんな欲望も持たずにあることはなんとなく察しがつくことですね。

欲望がないとき、それは防衛せずにいるとき、そのときにはそこにマインドはないということです。

そしてノーマインドの状態であることを「悟り」というのです。

マインドが感覚を捻じ曲げる

私たち人間にとって、感覚というのはとても大切なものですね。AI が進化して、難問を解くことができるようになっても、人間のような快不快や痛みの感覚を持つようになるのかは疑問です。

そのくらい、感覚は自分という存在の根っこにあるものです。爽やかなそよ風に吹かれて気持ちいいとか、美味しいものを頬張ってニコニコしたり。

感覚は生まれながらのもの、生物として自然に備わった根源的なものだと感じているはずですね。

けれども、元々備わっている感覚というのはそのままではありません。マインドの成長とともに、どんどん変化していくのです。

というよりも、もっとはっきり言えば、マインドの中に作られた強い思い込みが感覚を歪めていくということです。

幼いときには、ミミズを指でつまむことなど何でもなかったはずが、大人になったら触れることすらできなくなったという人は沢山いるはずです。

自分の身体が嫌いだったりして、この身体から抜け出したいという思い込みが強くなると、離人症といって自分の身体に対する違和感を覚える場合もあるのです。

あるいは、自分の身体に付いている手足に対して異物感が強過ぎるあまりに、闇のルートを使って実際に切断してしまう人もいるくらいです。

それほどマインドが作り出した感覚というのは凄まじいものなのです。どれほど私たちがマインドに支配されているか分かりますね。

癒しを進めていって、思い込みが小さくなるならそれだけ感覚への歪みも小さくなっていくはずです。

ただし、本人がそれを望まない場合がほとんどなので、感覚の歪みは小さくなったとしても、ある程度は一生残ることになるかもしれません。

大切なことは、自分も含めて人間がどんな感覚を持っていようと、それがすべてマインドによるものだということを深く理解することです。

そうすれば、誰がどんな感覚で生きていようと、それを否定する必要はまったくないのだと分かるのですから。

惨めさの見張り番

禅は言う、何にも自己同一化しないように、と。そうすれば、おのずから超越が起こる。あなたは惨めさがやって来るのを見るが、見守る者のままでいる。惨めさが現れ、暗い煙のようにあなたを飲み込み、あなたを包み込むのを見るが、あなたは見張りのままだ。

by osho

自己同一化とは一体何だろう?それは、自分とは○○だと思い込むことです。自分は人間だ、自分は日本人だ、自分は男だ、自分は何歳だ等々。

もしも自己同一化が外れて、自分は何者でもないというのがやってきたら、エゴは恐怖の中へと突き落とされてしまうはずです。

それがあまりにも怖いので、自分を何かと同化し続けようとするのです。そして、その努力すら忘れてしまうほど、マインドの深くまでそれを浸透させるのです。

これでもう安心、自分は明確に存在することになるからです。とここまではよかったのですが、今度は次の問題がやってくるのです。

それは、同一化の結果として個体としての自分が出来上がってしまったがために、自分のことは自分で身を守らねばが発生してしまったのです。

そしてそれが何であれ満たされないと感じたときには、惨めさが降りて来るのです。何者かである自分はこうあるはずという期待が裏切られたとき、惨めさに包まれることになるのです。

それがあまりにも辛いので、今度はその惨めさを隠すためにそれを見ないようにしたり、怒りで蓋をしようとするのです。

そうやって自分は決して惨めなんかじゃないと証明しようとすることこそが、人生というわけです。

惨めの見張り番を続けることで、こうした状況から抜け出すことができるようになるということですね。