今を生きる その3

自分は朝早く起きるのが苦手です。若いときと比べれば少しはよくなってきたようにも思うけれど、それでも根本的には寝ていられる状況なら、起きてしまうことは損だと思っているふしがあるようです。

自分でもそれって一体何が損だというの?と自分に聞きたいくらいですが、聞いたところでよく分からないのでそのままにしてあったんですが。

でも理性では、「早起きは三文の徳」ということを理解してるつもりです。実際、毎日実践しているコースのワークにしたって、早く起きたらその分多くの実践をすることができるわけですから。

寝ていたら、何の実践もできずにその時間が過ぎていってしまうと考えたら、そのほうが損だということぐらいは分かります。

朝目が覚めたときに、何となく気分がすぐれないという状態をしばしじっくり観察してあげてると、どうも攻撃を受けていると思っている意識があるようです。

攻撃されているのなら、自分は被害者であると思っているということですね。朝、起きただけで被害者だと感じるのなら、それは確かに損したという気持ちがあっても不思議ではないです。

それで気がつきました。朝起きた瞬間から、もう自分を攻撃しているんだと。びっくりしますが、朝起きた瞬間に過去に生きているということです。

攻撃のもとは罪悪感だし、それはすべて過去への思いであることはもう分かっているので、自分でも呆れてしまいました。

目が覚めた瞬間くらいは、今を生きれよ!とはっぱをかけてやりたくもなるけど、そうなってはいないということが判明してしまいました。

かえって、朝起きたときの方が、本当の自分の姿を表しているのかもしれないですね。どうも、この人生のままでその日一日を過ごすことに抵抗している感じもします。

だから寝ていたいということです。よほど、過去に縛り付けられている意識が大勢いるんでしょうね。しかし、逆に今度は夜寝るのは損だと思っている意識もいるようです。

寝てしまうと、何か楽しいことを逃してしまうような気持ちがするのかもしれないですが、何せ我がままな奴がお腹の中にいっぱいいるような気がしています。

そしてその意識たちは全員が過去にしがらみを持っているという思いがあるようです。彼らを黙らすためには、この瞬間だけが実在だとすることなんでしょうけど、明日の朝どうなるか試して見ます。

今を生きる その2

今この瞬間だけに意識を集中していられると、身体や心の苦しみや痛みから解放されてしまいます。このことは誰もが経験していることです。

その昔、ボーリングが流行っていたころですが、両親と一緒に時々行ってたことがあったのですが、ある時、母親が歯の痛みを抱えていながらも、ボーリングがしたくて一緒に行ったことがありました。

本人によると、ボールを投げる準備に入ってから投げ終わるまでの間は全く歯の痛みは感じないと言っていました。人間てゲンキンなものだね、なんて言って笑っていました。

ボールを投げることに夢中になっているので、歯痛への意識が遠ざかったためにそれを感じないでいられたということでしょうね。

今を楽しんでいるのに、頭がズキズキしてきてどうにもこうにも今を楽しめなくなってしまった、ということがあったとしたら、それは過去に無意識が向いていたという証拠です。

痛みは今にはないからです。それはすべて過去と繋がっている罪悪感からやってくるのですから。自分の場合にもそういったことはよく起こります。

調子よく大好きなワインや食事を楽しんでいる、ああ今を楽しんでるなと思っていても、急に何となく不穏な感じがしてきて、お腹が痛くなったりします。

本当に今を生きているのなら、そうしたことが起こるはずはないのです。でもこれって難しいですよね。自覚では今を楽しんでいると思っているのですから。

今に意識を向けていられたら苦痛は感じなくなるということを、何かをやってそれを紛らしているに過ぎないと思っている方がいるかもしれません。

でもそうした気晴らしとは違うものだと私は思っています。実は気が紛れているというよりも、今というこのときには本当に苦痛は存在できないということです。

本当は痛みがあるはずなのに、それを感知していないだけだと解釈することもできますが、本質的にはその瞬間痛みというものは存在しないのです。

なぜそういうことが言えるのかというと、苦痛そのものは自分の思いが作り出しているものだからです。思いとは別個に苦痛があるということこそ、思い込みに過ぎないのです。

ですから、私たちは気づかぬうちに苦悩を起こしてみたり、停止してみたりということを都合よく操作できるということです。苦悩を起こすときには、過去の罪悪感を引っ張りだしている時なのです。

今というこの瞬間には苦悩のもとになるような思いは入って来れないのです。だから、喜びや楽しみばかりになって、心が満たされるということですね。

今を生きる

今を大切に生きましょう!という言葉があって、一見よさそうなのですが、でもそれって良く考えてみると後先のことを考えずに行動するってことにならないかなと思われるかもしれません。

例えば、目の前にあるケーキを食べたいという、この今を大切にするので食べたいだけ自分に食べさせてあげて、あとで今までのダイエットが無駄になってしまったらどうするの?といったことがありますね。

このケースでは、確かに未来のことを心配せずに食べたいだけ食べるわけですから、未来からは開放されていると言えます。

しかし、実はしっかりと過去に縛られているということに気づく必要があります。身体が自然に欲する以上に食べたいという衝動がくるのは、過去の満たされない思いが原因だからです。

そうやって過去の不満を現在にまで引きずって生きている限り、今を生きることはできないということです。それは決して自由とは言えない人生になってしまいます。

未来のことを必要以上に心配して、今現在の自分の行動を抑制してしまうのは確かに大切な今を優先して生きているとは言えなくなってしまいます。

未来への不安を手放して、今を楽しむことに集中できればそれだけ今を生きていることになるのですが、その時に過去の思いを引きずってないか注意してみてあげることです。

過去から開放されて初めて、本当の意味で未来からも開放されるのです。そして、時間のトリックとして存在するように思える過去と未来から開放されれば、今を生きることになるのです。

本当に今を生きている瞬間というのは、思考があまり働いていない状態かもしれません。しかし、それはただぼうっとしているというのではなく、我を忘れて喜んでいたり、笑っていたりする瞬間なのです。

その状態の心には罪悪感も恐怖感もありません。そうなると、あっという間に愛が膨れてきて心を満たしてしまいます。それこそが今を生きるということですね。

結果を求める心

以前にも書いたことがあったかもしれませんが、私は夢の中で何かをやろうとして、でもそれが思ったようには出来なくて、中途半端なところで目が覚めてしまうということがよくあるのです。

そんな時には、あれは夢だったと分かっているはずなのに、まだそのことが頭から離れずに残ってしまっていて、何だかいやな気分が続いてしまいます。

徐々にはっきりと覚醒していくにしたがって、夢だったんだからもういいじゃないと自分に言い聞かせて、ようやくそのことを忘れていくことができるのです。

とても馬鹿馬鹿しいことですが、夢だと分かっていても、途中でやめてしまってはいけないというような、妙な感覚が生々しくてすぐには断ち切れないのですね。

夢といえどもそんなふうですから、これが現実のこととなったらもっと思いを断ち切るのは難しくなるだろうことは想像に難くありません。

こうした思いというのは執着というのでしょうか。やりかけていたものを、こころざし半ばで頓挫させてしまうことが非常に苦手のようです。

きっと誰でもそうした傾向というのはあるのかもしれませんが、この感覚は自分が関わっている何かに対してすぐに潔く手を引くということができないことを意味しますね。

これだけ頑張ってきたのだから、ここで諦めてしまうのは勿体無いというような気持ち。それと、やっぱりやり遂げて何かしらの成果を出さないと駄目だという思い。

こうした思いを持ち続けていると、どうも今この瞬間を楽しむということから離れて行ってしまうように感じます。人生に翻弄されてしまうということに陥りやすいという感じもします。

どんなことにせよ、その時その時をただ楽しんで生活するように心がけることで、結果を求める人生から開放されて行けば、起きていることに翻弄されなくなるのではないかと思います。

毎日をただ笑いながら、みんなと和やかな時間を楽しむこと、結果ではなくてその過程を喜びながら生きられたら本当にいいなと思います。

心配ごと

私たちは日頃、常に何か心配ごとを抱えているものです。自分には、一つも心配ごとなどないと言えるなら、その人は本当に幸せな人ですね。

でも大抵の人はそうではありません。一つや二つ、あるいはそれ以上の心配ごとを持っています。その心配ごとも少しだけ心配というものから、結構深刻な心配ごとまで多岐にわたります。

そしてある一つの心配ごとに関しても、こうなってしまったらどうしよう、こうしたことが起こるかもしれない、などなど沢山の状況を想定して不安が募っているわけです。

そうした思いは、実はすべて「自分自身を攻撃していることに過ぎない」とコースでは教えてくれています。分かるような分からないような話しに聞こえるかもしれませんね。

このことをもう少し分かりやすく説明するために、心のメカニズムを順を追ってみてみることにします。ある理由から自分に対する否定的な思いを持ったとします。

そうすると、それは都合の悪いものなので、感じないようにするために心の奥に抑圧します。すると、そうして隠したものは必ず外側の世界へと投影することになります。

それは元々否定的な思いを感じさせるものなので、外の世界を攻撃したくなるはずです。その攻撃的な思いが持続するためには、その対象物を傷つけられるとの思いが必要です。

対象が傷つかないと思いながら攻撃し続けるということはないわけですから。でも対象が傷つく可能性があるとの思いはどこからくるのでしょうか。

それは、自分自身が攻撃されたら傷つくはずだとの思いからくるのです。もしも何が起ころうとも自分は傷つくことがないと思うのであれば、決して心配ごとを持つようにはなりません。

こんなことが起きたら大変なことになる、こうなったらとても怖いなどの心配事は、結局のところ外側からの自分に対する攻撃だとみなすことができます。

そしてその外側からの攻撃と思えるものは、結局元に戻って自分が自分を攻撃しようとする思いを投影したものであったというわけですね。

自分を攻撃して幸せになることは決してありません。だからこそ、心配ごとに気持ちを乗っ取られないようにいつも自分を監視することは大切なことです。

心配ごとの想念がやってきたと思ったら、それを自分を助けてくれる大きな存在に全面的に委ねてしまうことです。それができるように、日頃から心の訓練をすることをお勧めします。その方法は、コースが詳細に教えてくれています。

綺麗好きと潔癖症

幼い頃には掃除をする意味というものが全く分かっていなかったことをはっきり覚えているのだけれど、不潔なものは駄目という感覚も強く持ってもいました。

潔癖症のたぐいの感覚というのは、怖れから来るわけですからいわゆる綺麗好きというのとは根本的に違うのだと思います。

きれい好きとは、単に整頓されたものが気持ちいいとか、美しいものが好きという感覚で、これは怖れというよりは愛に近い感じがします。

そして綺麗好きな人は、面倒だなと思うよりも綺麗にしておきたいという気持ちが勝っているので、いつも身の回りをきれいにしておくことができるのですね。

子供の頃はこうした綺麗好きというのはほとんどありませんでしたね。中学生になるまで、シャンプーなんて一週間に一回くらいしかしてなかったですし。

歯磨きも滅多にしないような子供でした。これは今考えるとちょっとおぞましいですが…。でもレコード(その昔はCDなんてなかった!)に指紋が付くのは絶対許せなくて。

いつも表面を綺麗に掃除してました。でもでも、部屋を掃除するということがどんな意味があるのかというのは、やっぱり分からなかったんです。

こんなのが、きっと自分の本当の姿なのかもしれません。ただ、大人になってくると、それまで顔も洗わずに朝起きたまんまで外出していたものが、必ず朝風呂に入るようになるんですね。

今の仕事をするようになって、セッションルームを毎日掃除するようになって、ようやく掃除をする気持ちよさというのを40代半ば過ぎてから知った次第なのです。

こういうことは放っておいても次第に変わっていくものなのかもしれません。子供の時に躾けを厳しくされなくても大丈夫なものなんですね。

小さいお子さんをお持ちの親御さんにお伝えしたいのですが、思ったように自分の子供がやってくれないといって、心配したり嘆く必要はないということです。

それよりも、潔癖などのほうをもっと心配してあげるべきかもしれません。そうした恐れからくるものは心の癒しが必要となることが多いからです。

しかしそうしたことですら、本当は心配することよりも子供の心を信頼することが大切です。心配は否定を意味するからです。

心配する代わりに、丸ごと子供を受け入れてあげることに心を使うことがとても大切だし、それこそが愛だと思うのです。 そしてそれは必ず子供の心に届くので、子供の心は癒されていくことになりますね。

一人では味わえない満足感

会社員の頃に、まだ職場で誰も手を出したことがないコンピューター関連の仕事を任されて、自信もなくて辛かったのですが、最後まで自分一人でやりたいと言い張っていたことがありました。

上司は、仕事がスケジュール通り完成しなければ、会社レベルの問題にもなってしまうために、とても心配だったようなのですが、私はというととにかく独りでやり遂げたいという思いだけがあったのです。

結局は成し遂げることができたし、そのことで自信を勝ち取ることもできたはずですが、それは思ったほどの満足感を得ることはできませんでした。

それでも、誰の力も借りずに自分一人の努力と能力によって一つの仕事を成し得たということは若いその頃の自分にとっては大きかったと思います。

確かそれは結婚する前だったと思うので、30年も前のことです。今となっては、まったく逆に自分一人では何も成し得ないということが分かるようになりました。

自分一人でできることは本当にたかが知れています。でも誰かと一緒だと、それが一人だろうと何人だろうと人数に関係なくとても大きな満足感を得ることができるのです。

自分には誰でもいいから、最低でも誰か一人が必要ということがとてもよく分かってしまったのです。自分以外の誰かと分かち合うことのすばらしさを経験してしまうと、どんなに一人で何かを成し遂げたとしてもそんな満足など足元にも及ばない幸せがやってくるです。

その満足感というのは、決して一人では味わえないものです。私たちは一人ひとりの力というのは、とても小さなものであると言わざるを得ないのですが、二人以上が分かち合うとたちまちものすごいことになるのです。

これは単に力を合わせるということとは違って、二人以上の人が心を一つにすることで神からの賜物である本当の力を使うことができるということですね。

周りにいてくれるみんなはすばらしい存在だということです。そして、そのみんなと分かち合うことで、とてつもないパワーを使うことができる自分もみんなと同じようにすばらしいということです。

みんなに対する感謝の気持ちを絶えず感じ続けることになってしまいます。こうして言葉で表現すると、どことなく違和感もあるのですが、とにかく誰もがすばらしい存在だと言いたいのです。

幸せへの気づき

コースのテキストには心に染み入る珠玉の言葉が満載です。今思い出して心の中で唱えてみるだけでも心が喜ぶのが分かりますね。例えば、

「自分の本質とは想念である。」

「正しい自分でありたいか、それとも幸せな自分でありたいか、二つに一つ。」

「罪を犯すことと、罪を裁くことは同じこと。」

「攻撃しているという思いと、攻撃されているという思いも同じこと。」

そしてワークブックでは、こうした基本的な原則を踏まえたうえで、より実践的な見方でそれを身につける方法を系統立てて教えてくれるのです。

自分のためになると思って今までやってきたことのほとんどが、自分を苦悩させることだったと具体的に気付かせてくれるのです。

何百万年もかけて自分に学習させてきたことをきれいさっぱり手放して、全く逆のように自分には思える真実を新たに学ばせようとすることは、誰にとっても簡単ではないでしょう。

でもでも、心のどこかでそれを大喜びしている部分があるというのも、もう隠せないのだからこのまま波に乗って行くしかないのだと思います。

その波は確実に自分の周りにいてくれる人達にもやってきているのを見て取れるし、そしてそのことがまた自分を勇気付けてくれるのでとてもありがたいのです。

自分が幸せになるためには、周りにいてくれるみんなとコースがあれば百人力だと思えるようになりましたね。自分にとって、宝はみなさんだと本当に気づきました。

少し早いですが、来年に向けてこの大きな真実へのうねりが、もっともっとリアルに感じられるようになっていくようにと願わずにはいられません。

またご一緒に、幸せへの気づきへ導かれていくことを大いに楽しみなら進めて行きましょう!

引き付け合う力

ニュートンの万有引力の法則のことは誰もが知っていると思います。りんごが木から落ちるのを見て、ニュートンはそれを発見したという逸話も残っています。

りんごと地球が引き合っているということですね。もしも、両者がはねつけ合っていたら、りんごは木から空に向かって飛んでいってしまうことになります。

地球が太陽の周りを公転し続けるのも、互いに引き合っているから起きていることだし、そうやってこの宇宙のありとあらゆるもの同士は引き付け合っているのです。

普段は誰もそんなことを気にしていないのですが、よく考えてみると不思議な話しだとは思いませんか?砂場にある無数の砂粒同士だって同じく引き付けあっているのですから。

私たちが地球上でこのように暮らしていられるのも引力のおかげですね。あらゆるもの同士が引き付けあっているのに、なぜ一つにまとまってはしまわないのかも不思議です。

素人の勝手な解釈ですが、科学者によると今から137億年も前にビッグバンが起こり、そこから宇宙は膨張を始めたとされていますので、その激しい爆発の力が今もって引力よりも強く働いているからかな、なんて思ったりします。

地球が太陽とくっついてしまわないでいるのは、遠心力と引力のつりあいがちょうどとれているからですね。もしも、公転速度が遅くなったりしたら、太陽と地球は一つになるでしょうね。

そうすると、地球上にいる我々は全員死んでしまうことになるでしょうけれど、ばらばらだったものが一つに戻ったと考えることもできます。

でも何もかもが互いに引き付け合うという性質を持っているなんて、なんか楽しい感じがします。愛するもの同士はやっぱり引き付け合うからかもしれません。

愛は互いに引き付けあって元々の一つの姿に戻ろうとするのかもしれません。それを妨害しようとするのが、物理的にはビッグバンの力であり、非物理的にいえばそれは罪悪感、そして恐怖なのだと思います。

ですから、私たちの心の中から、罪悪感と恐怖が消えてしまえば、愛だけになってそれはすべてを一つに戻す原動力となるのです。

癒されていく姿

気長に自分と向き合って、あきらめずにコツコツと癒しを進めていくと、必ずあるときにふと自分が楽になっていることに気付かされます。

自分はセラピストになって本当によかったと思うことは、決して癒しを忘れないでいられるということです。忘れてしまったとしても、思い出したときにまた再開すればいいのですが、中断している間がもったいないのです。

中断すると、その間に以前の状態に引き戻されていってしまうことが多いのです。完全に元に戻されるということはありませんが、相当に戻される姿を何度も見てきました。

やはり継続は力なりというのは本当なのですね。そして、コツコツというところがミソなのですが、あまり頑張りすぎたりして力が入ってしまうと、どこかで息切れしてしまいます。

息切れしないようなペースを自分でわきまえて続けていられると、急激な変化や何か特別なことが起きるというよりも、とても緩やかな変化がやってきます。

文字通り向こうからやってくるという表現がぴったりかもしれません。静かに横になっていると、す~っと睡眠状態に入るのと同じように、ごく自然な感じでやってきてくれます。

自分の力で眠ろうと頑張っても決して眠れないのと同じですね。力ずくで心の癒しを進めることはできないと思ったほうがいいのです。

この仕事を始めてもうすぐ丸10年が経とうとしています。その間には、自分の癒しもさることながら、本当に沢山の方々が癒されていく姿を目の当たりにしてきました。

その人なりのペースや進みやすい時期などもあるので、それこそ千差万別の変化をしていく姿を見ることができました。それは本当に感謝の気持ちでいっぱいですね。

人が癒されていく姿というのは、何度ご一緒に体験させていただいてもとてもいいものです。その懸命な姿にはいつでも感動させられるのですから。

そして願わくば、すべての人が癒しを特別なことと考えるのではなく、ごく自然により幸せになっていくためにそれを意図して毎日の生活を送るようになって欲しいなと思っています。