二重生活の実践

昨日のブログの内容とセットで次の osho の言葉を味わってみてください。

『生というのは二重の旅だ。ひとつの旅は時間と空間のなかを進み、もうひとつの旅は自分自身と真理のなかをゆく。

最初の旅は死で終わり、ふたつ目の旅は不死で終わる。ふたつ目の旅こそ本物の旅だ。なぜなら、それはあなたをまぎれもなくどこかへ連れていってくれるから–』

自分を個人だと思い込んでいる自我にとっては、この3次元の世界、時間と空間の中を進んでいく旅をしているのです。

ただ漫然と生きているだけでは、人生の100%がそれだけになってしまいます。それが悪いということではないですが、その旅は死によって根こそぎにされてしまうのです。

一方でより高次元の世界、純粋な意識としての自己に気づくなら、その旅は肉体の死とは別に不死であることに気づくのです。

この二つの旅を同時に楽しむことができたら最高ですね。3次元の旅と高次元の旅、3次元の旅人は快不快、善悪、正不正のなかを進んでいくのです。

その旅を楽しみながらも、高次元の旅も同時に楽しむのです。そのためには、日々より意識的である工夫をすることです。

この二重生活、二重の旅を実践することを強く推奨します!

上位次元から見ると時空はない

高校生になって、数学で微分とか積分というのを習うと思うのですが、あれって一体何だったんだろうと思っている人が多数派だと思います。

それはそうですよね、だって使い道を教わってないからです。自分の実生活では使わないとしても、その使い道くらいはざっくりと教えて欲しかったですね。

実は微分も積分も、この現実世界を描写するのになくてはならないものなのです。例えば、畑の面積を知りたいとします。

現実の畑が、理想的な長方形であればいいのですが、そうとばかりは言えません。実際私の家の敷地は長方形ですが、少し歪な形をしています。

そんな時、積分を使わなければ面積を正確に計算することができないのです。微分の方は、また少し違います。

ある物体の速度を計算しようとするとき、それが等速直線運動であれば簡単に次の位置を計算することができます。

けれども、実際にはそんな綺麗な動きをするものなどこの世にないのです。カーブを曲がったり加速度がついたり。

そうした動きを予測するときには、微分が必要となるのです。なんでこんな話しをしているかというと、あることに積分の概念が使えると気づいたからです。

例えば、二次元の世界(面ですね)から三次元(空間)を導き出すときには、積分すればいいのだろうと考えられます。三次元は二次元の積み重ねだからです。

同様に、私たちの時空である三次元を積分すればより上位の次元になるわけです。ここからが今日お伝えしたい本題です。

三次元の世界から二次元である面をイメージはできますが、実際に面という存在はありません。あくまでも概念としてあるのです。

同様にして、意識の世界であるより上位の次元から、私たちの時空である三次元を見ると、イメージはできるのですが存在はないのです。

それが完全な意識の状態、例えば瞑想状態で感じることができる時空の非存在なのだと。私たちの本質からすると、時空はないのですね。

我慢強さに価値を置かない

私が子供の頃には「我慢比べ」と言うのがありました。どれだけ息を止められるかとか、鉄棒にブラ下がっていられる時間を競う等々。

子供の頃に我慢をさせると、強い子になるという考えが社会全体にあったのかも知れません。今でも我慢強いことは良いことだと思われています。

社会全体がそのように考えているのですから、子供もそのように自然と考えるようになっても不思議ではありません。

もしもその生育環境が心地良いものではなければ、あるいは何かと我慢を強制させられるような環境であれば、自動的に我慢強い子供が出来上がります。

そしてその子自身も、自分には人一倍我慢することができるという誇らしい才能があると考えて、それこそが自分の価値だと思うようになるのです。

そうなると、できるだけ苦しい人生を求めるようになるのです。自分の価値を最大限高めるためには、その苦しみを我慢すればいいと思うからです。

そうなったらその人の人生は過酷なものになってしまうはずです。なぜ自分ばかりが辛い人生を生きなければならないのかと人生を恨むことになるかも知れません。

まずは我慢強いことは尊いことではないと理解することです。我慢強ければ、それだけ戦いの人生を送る可能性も高くなってしまうのです。

逆に我慢弱い人の方がすぐに諦めて降参することになるので、結果として戦いのない平和な人生になるのです。

とにかく我慢強さに価値を置くことをやめることです。そんなことよりも、自然かどうか、自由かどうかと言うことを意識して生きることですね。

真実への渇き

osho の言葉に深く共感します。

『真実への渇きとは、人がこの存在全体の本質の中へと探求したいと欲することを意味する。それは偉大なる情熱、最も偉大なる情熱だ。』

長いこと生きているうちに、どうやらこの人生が夢のようなものだと言うことが分かってきて、その夢から覚めたいという気持ちになるのです。

夢の中で何かに熱狂したり絶望したりしながら、それなりに楽しむのもありなのですが、どうしても真実を思い出したい。

だって夢の中で何を成し遂げたところで、目覚めた瞬間に全てが消えてしまうと分かっているのですから。

夢は夢として楽しむ。決してそれを否定することも嫌悪することもない。どれほど血生臭い物語であったとしても。

夢の体験はそれなりに貴重だと思えるので。けれども、所詮夢は夢。目覚めることでしか自分の本質に気づくことはできないのです。

だから真実への渇きのままに残りの人生を送ることができればいいなと思うのです。目覚めてもどこへも行かない。

だって今ここしかないのですから。

プチ死の体験

何か特別な理由がない限りは、自分は死なないと思っています。特に若い頃は、死ぬのはいつも自分以外の周囲の誰かなのです。

だから益々死を意識することから遠ざかってしまうのです。そして高齢になってきて、初めてああもうそういう年齢になったんだと思い知るのです。

誰もが突然老人になってしまうわけではないのに、死が迫ってきたような感じがして初めてそれを真面目に意識するようになるのです。

そうだとしたら、もっと前からごく普通に死ぬことを見つめるべきなのではないかと思うのです。

死は歓迎されないイベントであり、話題にするのも憚れるという風潮があるのは本当に困ったものだと思います。

いずれは誰もが直面するし、誰もが通る道であることは重々分かっているはずなのに、いつまで経ってもおぞましいことだとして、目を逸らしているのです。

死ぬ覚悟ができているかどうかは別にして、深く瞑想することでプチ死を体験できるのです。それが無の感覚です。

それは決して不快なものではないし、逆に穏やかな静寂をまとう体験として認識されるべきものだと思うのです。

そして何度も繰り返してプチ死の体験をすることで、死への恐れも少しずつ緩和されていくように感じています。 

感謝の気持ちになる

昨日のブログの続きだと思って読んで下さい。一昨日から老人ホームに仮入居した母ですが、もうすぐ94歳という高齢になって、認知症も進行して、ほぼ歩くこともできない状態になっているのです。

普段はそういったことを忘れて生活しているのですが、夜間に転倒したりして、何か困った状態になった時に、実際はこういう状態だよと教えてあげるのです。

そうすると、母はそれを聞いて一瞬びっくりすると同時に、大抵「ああ、嫌だ嫌だ!こんなになってまで生きていたくないよ、早く死にたい!」と言うのです。

こう言う時の母親の言いっぷりは結構切実で、普段は穏やかな人なのに急に駄々っ子のような感じになるのです。

そんな時にじっくりゆっくり言って聞かせるのですが、それはこんな感じです。「お母さん、今回の人生ではもう全てを立派にやり終えたんだよ。

もう何もすることもないし、あとは美味しいものを好きなだけ食べて、神様のお迎えをゆったりと待っていればいいよ。嫌だ嫌だと言えば、神様は逆に来れないでしょ。

恵まれた人生だったし、誰に見られても恥ずかしくない人生だったじゃない。悔いることもないなんて、幸せな人生だったよね。」

こんなことを繰り返し伝えているうちに、次第に母親の受容性が働き始めると、そうだねえと言うことで感謝の感覚になっていくのです。

ただ残念なことに、この感謝の気持ちに持っていくのにそこそこの時間がかかるし、またすぐにこの話自体を忘れてしまうので根気が必要です。

とはいえ、色々やっぱり教えてもらっていることに変わりはありません。

受容と感謝で満たされる

老人ホームにショートステイして二日目の母親のところに行ってきました。一人用の冷蔵庫を持って行ったり、どんな感じで過ごしているのか気になったので。

私の顔を見るなり、ほんの少し涙を溜めた表情で、私は何を待っているのだろうか?というのです。なぜ自分がここにこうしているのかが全く分からないのでしょうね。

これまで毎日通っていたデイサービスとは違い、次から次へとあれをやってこれをやってとは言われないので、やることがなくじっとしていたのです。

自分の部屋に連れて帰っても、もう家に帰れないのなら死んだ方がマシのようなことを言うのです。

色々説明したところ、家に帰ったところで同じだと分かったようで、要するに今の自分の境遇を受け入れられずにいるのです。

認知症のために過去の自分として生きているような感じがするのですが、現状はこうだと言われてそんなことなら死んだ方がマシというのです。

様々な角度から言葉を紡ぎ、試行錯誤をしているうちに、今度は自分は恵まれているということを言うようになったのです。

お金にも衣食住にも困っていないし、身体は健康だし感謝しなければいけないという方向へと変化していったのです。

そうなると、途端に気持ちが穏やかになっていくのです。受容すると言うことは、どれほど大切なことなのかを身をもって見せてくれたのですね。

セッションの内容が役に立つ

あっという間にことが進んで、今日母親を老人ホームへと送ってきました。まだ入居の契約はしていないので、ショートステイといういわゆるお試し期間です。

ここで双方ともに問題がないようであれば、来週末くらいには本入居へと進んでいく予定です。というわけで、久しぶりにこのブログを自分の部屋で書いています。

ちょっと感慨深いものがありますね。昨日までは、ブログを書くかたわらに監視カメラの映像があって、リアルタイムで母親の動向を見ていました。

久しぶりにゆっくりと眠れそうですが、面白いことに幼い我が子を旅に出したような感覚というのか、柄にもなく心配しているのです。

いきなり知らない部屋で、穏やかに眠れるのだろうか?とか、夜間目覚めて転倒しないだろうか等々、子供のことを心配する母親の気持ちが少し分りました。

所詮はなるようにしかならないということを知っているので、すぐに心配は吹っ飛んで行ってしまいましたが。

あるいは、これで本当によかったのだろうか?もっともっと自宅でできる介護の方法があったのではないだろうか?という軽い罪悪感のようなもの。

これもそういうのが来るのは想定内なので、無理やりその罪悪感をどこかへやってしまおうとせずに、それをそのままにしてあります。

こうしたことが全て日々のクライアントさんとのセッションで気付かされた方法なのです。本当に役に立ちますね。

どれほど言葉を駆使したところで…

osho は言います。『私の言葉はたんなる容器にすぎない。それらは容れ物だ。中身はまったく違う。中身は正反対だ。容れ物は言葉だが、中身は言葉のない沈黙だ。

それは私の愛だ。言葉はただのカプセルにすぎない。カプセルは薬ではない。薬はそのなかにある。カプセルのことは忘れなさい、私を飲みなさい–。』

確かにそうですね。もしも月が真実ならば、思考はその月を指し示す指のようなものなので、どれほどその指ー言葉を吟味したところで真実は知れないのです。

ただし、真実を目の前にしてまるで幼い子供のような私たちは、苦い薬をそのまま飲むことを嫌うのです。

だからカプセルが必要となるのです。カプセルによって、薬の苦さを味わうことなく薬を服用できるのですから。

言葉(思考)というのは、そういった役目を果たすこともできるのです。私のこの拙いブログも言葉だけでできています。

だからどれほど言葉を駆使したところで、真実からはほど遠いのです。私自身も真実から程遠い自我として生きています。

それでも諦めずに、やっぱり今日も言葉を駆使してブログを書き続けるのは、きっとそういう人生なのですね。

勇気を伴う優しさ

若い女性などにどんな人が理想の結婚相手ですか?と聞くと、大勢の人が先ず口にするのが優しい人ということです。

それは確かに優しい人がいいのは当然です。すぐに怒る人や冷たい人、あるいは厳しい人をわざわざ選ぶ人はいないはずです。

ただし、一口に優しい人と言ってもその中身は様々ではないかと思うのです。例えば、よく気がつくという意味での優しさもあるでしょう。

あるいは、席を譲ってくれるとか、物腰がいかにも優しい雰囲気であるとか、相手の気持ちを分ろうとするなども大切な優しさです。

けれども、いま挙げたような優しさというのは通常はあまり勇気がいるという類のものではないですね。

その一方で、自分を守ろうとせず勇気を持って相手のために立ち向かうことが、真の優しさなのではないかと思うのです。

それは具体的にはどういうことかというと、自分がこれまで築き上げてきたもの、信念など譲れないものを勇気を持って相手のために後回しにできる。

あるいは、これまで隠してきた最も都合の悪い過去の自分やその感情を、勇気を持って見ることによって、相手との関係性を改善しようとすること。

こうしたことは、自分を安全圏に置いておいて優しい言動をすることとは一線を画すことになります。

誰もが自分を最優先で守りたいのですから、自我が強大であればできないことです。それに負けない勇気を持つことこそが、本当の優しさに繋がることになるのですね。