内側にこそくつろぐ場所がある

子供の頃に様々な理由により、安心できる場所、安全な場所がないと感じて生きてきた人が沢山います。

人は安心してくつろげる空間が絶対的に必要なものです。だからこそ人生を生き抜いてきた先には、安住の地を探そうとするのです。

けれども、本当はそんなものはどこにもありません。どれほど安全だと思ったとしても、自然の力にかかればあっという間に破壊され得るからです。

もしも外側には安住の地などないと悟ってしまうなら、その時には自己の内側にこそ安住できるようになるのです。

そしてどんなものにも執着しないでいられたなら、その時に初めて内側から安心が広がってくるのです。

なぜなら、外側のものというのは常に一過性のものでしかなく、また自分が期待するようにはそばにあってはくれないからです。

執着が小さくなればなるほど、今度は自分自身の内側にくつろぐことができるようになるということですね。

こうしたことが理解され、それが次第に実現できるようになれば、安心を求めることをしなくなり、その結果自我は静かになっていくのです。

全体性の感覚を得る方法

osho の言葉に次のようなものがあります。

『私はあなた方に、分割されていない―<全体(whole)>の感覚を与えようとしているのだ。科学は片割れだ。哲学も片割れだ。どうしたらいい? どうやってあなたにその<全体>の感覚を与えよう?』

ここで言う<全体>というのは、このブログで度々出てくる全体性のことを言っているのです。

osho でも困っているくらいなので、全体性を感じられるようになるための具体的な方法などないのかもしれませんね。

けれども、私なりに感じているものをここに書いてみようと思います。まずは、意識と思考の区別がはっきり分かっていると有利かもしれません。

全体性というのは、意識のことだと思ってもらってもいいくらいだからです。そのため、思考に飲み込まれている状態では、きっと全体性を感じることはできないはずです。

一方で、積極的にそれを感じようとするのであれば、空を眺めることをイメージしてみてください。

空と言っても空全体ではなく、青空の部分です。つまり、雲を見るのではなく雲の隙間に見えるあの青空です。

というのも、雲はある物体であるので、対象物として捉えてしまうのですが、全体性というのは特定の何かではありません。

だからこそ、あれとかこれということのできない青空を眺めること。青空は対象にはなり得ないので、それがヒントになるかもしれません。

部屋の中であれば、部屋の空間を見ようとすることです。肉眼というのはあれやこれを見るようにできているので、何でもない空間を見ることができません。

けれども、それを承知の上でただ自分の周りに広がっている空間を眺めようとすることです。全体性とはその感覚に近いはずです。

というのも、全体性もあれでもこれでもなく、もちろん肉眼で見ることのできないものだからです。

あともう一つ、これはどこにいてもできるのですが、自分の周囲に広がっているこの現象界の背後にある、表現出来ないナニカに意識を向けるのです。

あるいは眼は開いていながら、ただ何物も見ずにいる練習をするといいかもしれません。気に入った方法があれば、ぜひ試してみてくださいね。

量子力学への期待大

物理学というのは、誰かがある仮説を立てて、その仮説に従って精密な実験を行い、結果がその仮説通りになることで、仮説が立証されたことになるのです。

場合によっては、仮説が立てられてから何十年も経って、ようやくまともな実験ができるようになり、その結果仮説が証明された例も沢山あるのです。

なぜなら実験をするための技術が時代と共に進歩するからです。量子力学の分野での様々な仮説がこれまでにも出されています。

そしてそうした仮説を立証するための実験が、ずっと日夜繰り返されているのですが、時々◯◯の仮説が立証されたというニュースを耳にすることがあります。

「見ることで物事が確定する」という、常識で考えたら少し頭がおかしいんじゃないの?と言われてしまうようなことを、子供の頃から何となく自分の中でだけ感じていたのです。

あるいは、「思考が現実に影響する」というのは、最近は割と言われるようになってきたのですが、これも自分の中では当然の如く思っていました。

声を大にして言うことをためらってきたこうした感覚が、大人になって量子力学の分野での仮説としてあったことに気づいてまず驚いたのです。

そしてそれがゆっくりとではあるのですが、徐々に世界中の研究機関で実験されるようになり、少しずつ立証されつつあるのです。

そうしたニュースを聞くたびに、ほら見ろ!と誰かに言いたい自分がいるのです。今後も量子力学が自分のモヤモヤを解決してくれる未来に期待してしまいますね。

無と無の間のかりそめの人生

自分の内側をよ〜く見つめてみると、今この状態というのは暫定的なものであって、これが終わりでは決してないと言っているのが分かります。

もう少し良くなる、もっと成熟できるはず、もっと健康になれる、もっと学習してゴールに近づくことができる等々。

そしてその次に、それで一体全体どこへ向かっているの?と質問してみると、シーンとしてしまいます。

つまり、何処かへと向かっているというのは建前であって、本当はどこにも行くことなどないのだと気づくのです。

目的地を目指している側からすると、どこにも向かってなどいないという事実については、聞く耳を持たないという感じです。

もっと◯◯になれるはず、というのは自分の心を納得させる方法の一つに過ぎないのであって、もうそこから目を背けることを止めることですね。

私たちはどこへも向かってなどいないということをしっかり認めることです。無からやってきて、大騒ぎした末に、無へと帰還するだけなのですから。

だったら、もう少し楽しく、気楽に、無と無の間のかりそめの人生を謳歌した方が賢いと思うのですね。

親の奴隷でいてはいけない

親が子供を洗脳して、親の言いなりにさせるようにするのは非常に簡単なことです。その一つの方法をご紹介します。それが現実的かどうかは別として。

子供の言動が親にとって都合の悪い時、子供の身体に電気ショックを感じるようにしてあげるだけでいいのです。

子供は、身体の痛みと心の恐怖感を使って、あっという間に学習してしまい、その後は親にとって都合の悪いことを言ったりやったりしなくなるのです。

その結果、子供は心理的な自己防衛として「親は正しい」という信念をでっちあげるのです。

親が正しいと信じてしまえば、その後は楽なものです。親の言う事は絶対なのだと思い込むのですから、できる限り自分の自然な姿を抑え込むようになります。

そうやって、あの恐ろしい電気ショックから逃れる術をマスターします。それは、結果として親の奴隷になることなのです。

電気ショックというのは、さすがにあり得ないと思われるかもしれませんが、その代わりに親が激怒する、暴力を振るう、見捨てると脅す等でも代用可能です。

そうした幼い頃からの洗脳は、大人になって理性的に生きるようになったとしても、心の奥底で蠢いて、親に楯突くことに異常な居心地の悪さを感じるのです。

洗脳の大小に関わらず、なんとなく心当たりがあるかもしれないと思うのでしたら、しっかりと腰を据えて、癒しを実践していく必要があります。

そして自分の人生は自分固有のものだという確固とした感覚、誰のためでもない自分のために生きていると思えるようになることが最低限必須のことですね。

目覚めたくない

osho が次のように簡潔に表現しています。

『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ。』

いやあ、やはりこれしかないでしょう!だとしたら私たち人間は、どれほどの遠回りを続けていることでしょうか?

この自己の本性は一体何なのか?それを知ろうとせずに大変な毎日を飽きもせずに生き続けているのです。

この馬鹿馬鹿しい状況はどのように見ればいいのでしょうか?例えば、こういうのはどうでしょう?

美味しいお酒を適度に楽しもうとして飲み始めるのですが、アルコールが進むに連れて泣き上戸になったり怒り上戸になったりするのです。

そしてそれを自分の意思では止めることができなくなってしまう。もう周りが何を言っても言うことを聞かずに、最後には眠ってしまう。

あるいはこんなのはどうでしょうか?これからちょっと興味深い夢を作ってその中に入って楽しんでみようとするのです。

ただ自分はその夢から目を覚ますことなどいつでもできると信じているのですが、いざ夢が始まってしまうとそれが夢だとは気づくことができなくなる。

そうして、いつまでもその夢の中でもがき苦しむことになってしまうのです。夢自体が終わってくれるまで、それが延々と続いてしまうのです。

私たちが置かれている状態とはそんな感じなのではないかと思っています。一言で言うと、真実を忘れてしまうことで目覚めたくなくなってしまうのでしょうね。

自我を支えるもの

自我にとって目的地が絶対的に必要不可欠なものであることを、繰り返しできるだけ深く理解することです。

これが何よりも大切なことです。なぜなら、そこからあらゆる物語を解き明かすことができるからです。

目的あるいは目的地があるのは、必ず未来と決まっています。つまり、目的を設定することによって、時間空間的な広がりをもたらすことになるのです。

その時空的広がりの中で動き回るのが自我にとっての生きがいなわけです。その広がりがなければ、窒息してしまうのです。

さらに言えば、動き回るためには階級も必要なのです。レベルと言ってもいいし、グレードと言ってもいいです。

より上昇していくためには、階級が必要となり、それを登っていく姿がまさしく自我の活動を表現するのです。

もう一つ、カルマというのも実に都合のいい概念ですね。つまり、カルマを解消するということも絵に描いたような目的志向を表現しています。

このように見てくると、私たちが日頃当たり前のように扱っているものが、自我を支える助けになっているということに気付かされますね。

自我を使わずにいる

この世は矛盾に満ちています。別の言葉で言えば、逆説的なもので満ち溢れているということです。

なぜなんだろうと考えてみたところ、きっと自我として生きているからに違いないというところに落ち着きました。

本当はこの世に矛盾などないのですが、自我が不自然なものであるために自然の中で自己矛盾を起こしてしまうのでしょう。

例えば、寝よう寝ようと頑張るとかえって頭が冴えて眠れなくなるとか、リラックスしようとすればするほど、身体のどこかが緊張してしまうなど。

あるいは、瞑想しようとして考えることをやめようとすればするほど、考えることから離れられなくなるのです。

人間関係を良好なものにしたいと頑張れば頑張るほど、人間関係に悩むことになったりもします。

私の自我が覚醒したいと願っているのですが、そういった願いも欲望の一種であるので、その欲望すること自体が覚醒から遠ざけてしまうのです。

こうして見ると、願うこと、欲望することは全て裏目裏目に出てしまうということかもしれません。

私たちにとって一番良さそうなのは、何がどうなろうと流れに任せていることのようです。つまり自我を使わずにいるということになりますね。

心が病むとは?

ブッダの言う中道という生き方とは、ちょうど真ん中、極端とその真反対の極端との中間であることを指します。

絵に描いたような善人でも悪人でもない、正しくも間違ってもない、美しくも醜くもない、ということです。

もしくは、そのペアの両方を含むという言い方もできます。私たちのマインドには、必ず両方が含まれています。なぜならマインドは分裂しているからです。

善人の部分もあれば、悪人(罪人)の部分もあり、正しい部分もあれば間違った部分もあり、美しい考えもあれば醜い考えも持っています。

そして、心が病むというのはどういう現象かというと、上記のようなあらゆるペアの両方が、互いに大きく分裂することなのです。

弥治郎べえの腕の長さが長くなればなるほど、弥治郎べいの揺れ方がゆっくりかつ大きくなるのですが、それが病みの大きさと同じなのです。

腕が長くなると、それだけマインド内での分裂の度合いが大きくなり、どちらかに偏っている時間が長くなってしまうのです。

片方が表面化すると同時に、もう片方が陰に隠されてしまうのです。例えば、年中良い人を演じていると、悪い人が隠されていつかは爆発してしまいます。

癒しを進めていくことで、マインド内の分裂が小さくなってゆき、弥治郎べえの揺れ方が短く小さくなっていくように、心のバランスが取れるようになるのです。

そうして究極の状態とは、弥治郎べえの腕の長さがゼロになって、もう左右に揺れることがなくなり、マインドも消えていくことになるのです。

それがブッダのいう中道であり、あるいはそれを覚醒と呼ぶのです。

自我は欲深い

子供の頃、何になりたいかを聞かれる事が度々あって、その度にどう答えればいいのか分からなくて、困った記憶があります。

終いには、何で聞くの?という恨めしい気持ちになったこともありましたね。何度聞かれても明確な答えがなかったのですから。

もっとストレートに言えば、何にもなりたくない、というのが本音だったのかも知れません。何かにならなければいけない、という事に抵抗があったとも言えます。

周囲の言葉にそそのかされずにいられたその頃の自分が、今となっては愛しいなと思ってしまいます。結果何にもなっていないのですから。

もっと言えば私の自我は覚醒したいと思っているのです。「覚醒=自我の消滅」という事も知っているのに、それでも覚醒したい。

それは何かに成ることの真逆なので、子供の頃と変わっていないということです。勿論当時は覚醒という意味など知りませんでしたが。

これは自我としては絶望的です。自我であるのに、自我の消滅を求めているのですから、シンプルに絶望していたということです。

自分の本質に意識を向ければ、それが何でもないものだという感覚になれるので、それだけでもいいのですが、やっぱり自我は欲深いですね。