今日もシンプルに…
理性が潜在意識に乗っ取られるとき
二つのパターンがあるのです
一つは理性を差し置いて潜在意識が優位に立つとき
この場合は、理性で自分が理性的でなくなったことに気づいています
一方、潜在意識が理性ごとすっぽり丸呑みするとき
この場合は、どこまでも自分は理性的だと信じてしまいます
後者の場合、よりたちが悪いのは当然のことですね
以上
今日もシンプルに…
理性が潜在意識に乗っ取られるとき
二つのパターンがあるのです
一つは理性を差し置いて潜在意識が優位に立つとき
この場合は、理性で自分が理性的でなくなったことに気づいています
一方、潜在意識が理性ごとすっぽり丸呑みするとき
この場合は、どこまでも自分は理性的だと信じてしまいます
後者の場合、よりたちが悪いのは当然のことですね
以上
今日もシンプルに…
この世界には誰もいない
地球を一つの球体と見るようなスケールでは、
そこに誰の姿も見ることができない
一方、分子レベルのスケールにしても
同様に誰の姿も見ることができない
誰かがいるというのは
ものすごく狭いスケール範囲だけで起きる
錯覚に過ぎない
以上
誰もが2~3歳くらいの頃に、自我(自分がいるという思考)を作り出すのです。これは、人類にとって本当に画期的な思考だったわけです。
なぜなら、人類の苦悩がそこから生み出されることになったからです。自分がいるという思考は、他人も同じようにいるという思考をも生み出します。
そして、一旦出来てしまった自分はいるという思考は、それ以降の体験のすべてを、自分の体験であるとして記憶システムへとしまうことになったのです。
だからこそ、自分というイメージは日ごとに膨らみ続けて、あっという間に私たちのような人格のようなものとなっていくことになるのです。
そうです。人格(人物)としてのあなたは、幼児の頃に作り出した、たった一つの思考が基となって作り上げられた張りぼてのようなものに過ぎないのです。
つまり、あなたというエゴは存在しないのです。それはまるで影のようなものだと思えばいいのです。影はあたかも存在しているように見えても、それが実在の何かではないということを私たちは知っています。
影とは光の不在であるに過ぎません。あなたという人物の存在も、それと全く同じようにして、意識の不在だと思えばいいのです。
だからあなたが、より意識的に生きるようになれば、あなたという人物が単なる思考の連鎖からでっち上げられた実在しないものだと理解するようになるはずです。
この世界に誰かがいた試しは一度もありません。自分がいるという思考の解説を、ただ見ること。これができるようになったとき、ものごとはただあるがままにただ在ると知るのです。
今日もシンプルに…
何かを選ぼうとするときに、様々な観点から判断するわけだけど
例えば便利さとか、合理性とか、堅実さとかね
でも自分はワクワク感とか遊び心で選びたい!
だって人生は一度きりだし
その瞬間は二度と戻ってこないのだから
以上
子供の頃、なぜ子供には長い夏休みがあるのに、大人にはそれがないのかが不思議でした。大人だって、同じ人間なんだから、夏休みがあってもいいだろうにと…。
夏休みがないということだけでも、大人というのは大変なんだな、という先入観のようなものが作られてしまったのではないかと思うのです。
子供の情操教育のためにも、大人になると子供の時以上に楽しいことが沢山やってくるのだといった教えが大切なのではなかろうか。
子供の性格にもよるだろうけれど、少なくとも私の場合はそんな感じがしてしまっていました。ただし、その一方で大人には宿題がないというのが利点だとも思っていましたが。
そして最近はつくづく思うのですが、子供ほど大変な時代はありません。子供には大人のような自由が与えれるわけではないからです。
子供全般に言いたい。子供こそは大変だと。大人になると、やりたいことがいろいろできるようになるし、自由にもなって人生を謳歌できるようになるよと。
全ての子供たちが、早く大人になってすべての束縛から解放されたいと考えるようになってくれたらいいのにと。大人とは、本当にいいもんだと。
今日もシンプルに…
朝、特に読みたいわけでもないのに
ただ漫然と新聞を開いて目を通してしまう
心当たりありませんか?
これがどれほど一日のスタートを思考まみれにしてしまうか
一方朝起きて、静かに瞑想する習慣をつければ
一年後には、確実により澄み切ったマインドで
より意識的な人生を生きることになり
それはあなたの人生に
計り知れない変化をもたらすことでしょう!
以上
今日もシンプルに…
もしもあなたが、子供のころにあまり褒めてもらえなかったと
不満に思っているのでしたら
それは実は、受け止められた感が乏しいからです。
しっかりと受け止められた子供は、
ことさら褒められることに執着がないからです。
本当に必要なことは、褒められることではなくて、
受け止められることなのです!
以上
残念ながら、この世界には純粋な愛というものはほとんど存在しません。どれほど愛に違いないと感じているとしても、多くの不純物がそこには含まれているのです。
親が一生懸命子供のことを思って、愛情たっぷりに育て上げるとしても、それでも純粋な愛とは程遠いと思って間違いありません。
親の気持ちに余裕がなければないほど、不純物は増えて行くのです。愛は必至になることがないからです。子供を猫可愛がりする親がいますが、それはまるで飼い主とペットの関係のようです。
飼い主としての親は、ペットとしての子供を一心に可愛がるのですが、それは愛というよりも愛着や愛情の方だと思えばいいのです。
ペットのように飼育されて育った子供は、人格否定されることになります。なぜなら、人間はどこまでいっても人間であって、決してペットに成り下がることはできないからです。
飼い主の期待に沿うように頑張ってしまえば、自己表現ができなくなって自己犠牲の塊りのような人生になってしまいます。そのような人生では、人と自分を対等に見ることができなくもなるのです。
常に、下から見上げる関係性を作り出してしまうのです。そして、たまにはそれがひっくり返って、今度は見下して相手をコントロールする側へと転換するのです。
見上げるか、見下すか、二つに一つの関係性だけしか作ることができなくなってしまうということです。対等な人間関係を作るのが難しいという自覚があるなら、幼い頃の親との関係を疑ってみることです。
そして、対等な関係性をつくるために必要なことは、相手のあるがままを受け止めること。勿論、その前にあらゆる自分の心の声も受け止めるのが大前提ですが。
今日もシンプルに…
もしもあなたが、思考によって過去や未来に飛ばずにいることができるなら、
あなたは達成感とは無縁の存在となるはずです。
そればかりか、満足感からも解放されるでしょう。
なぜなら、どちらも満たされていないということが前提だからです。
思考がなく澄み切った意識であれば
何の欠乏もなく、ただ完璧だからです。
以上
映画の撮影中に、出演している俳優さんたちがそこにスクリーンを見つけることはできませんね。ロケ現場のどこを探しても、スクリーンは見当たらないのです。
けれども、いざそれが映画として上映されるときには、スクリーンが必須になるのです。なぜなら、映像はスクリーン上に展開されて形になるからです。
私たちが棲んでいるこの世界と、その中で起きるあらゆる事象を、すべて映画の中のワンシーンのように見るとしたら、どこかにスクリーンがあるはずです。
勿論そのスクリーンは映画館のそれとは違って、少なくとも二次元ではないはずですが…。映画の中の人物が、自分が映し出されているスクリーンを発見できないように、私たちもこの世界を映し出すスクリーンを見ることはできません。
それでも、そこに意識を向けてみることは可能です。そうすると、この世界のあらゆる事象の背後には、そのスクリーンが隠れているということに気づくことができます。
この宇宙の背景と呼んでもいいかもしれません。背景ですから、あまねく場所に普遍的に存在して、支えてくれているわけです。
いつも思い出したら、その背景に意識を向ける練習をするといいと思います。その時、あなたはそれが純粋な意識そのものだということを思い出すかもしれません。
その時、あなたの思考は自然と停滞気味になって、そのうちそれが瞑想状態と変わらないことにも気づくことになるはずです。