アイデンティティを作って壊す

子供の頃、親にコントロールされ、親に征服されて奴隷のように育った人は、自分のアイデンティティが充分に確立しないまま大人になるのです。

それは当然のことですね、対等な存在として尊重されて初めて、しっかりとした自己というものができるのですから。

自分の好きなこと、自分の得意なこと、自分の考えや嗜好。そういったものは、不自由で抑圧された状態では醸成され得ないのです。

だからこの社会で生きるためにどうしても必要となるアイデンティティが曖昧なままでは、辛いだけの人生となってしまうのです。

自分は何をしたいのか、周りの誰もが普通にできることがどうして自分には難しく感じるのか、その前に自分は一体誰なのか、自信の欠如も甚だしいのです。

こうした状態から脱出していくには、自分で自分のことを受け止める実践をすることです。他の誰かに期待する代わりに、自分を見守る練習を続けることです。

そうして少しずつアイデンティティを育てていくのです。親にしてもらえなかったことを、大人になった自分が代わりにやってあげるのです。

そうすれば、ひとりでにアイデンティティが人並みに出来上がることになるはずです。けれども、まだその先があるのです。

それは、そのアイデンティティをぶっ壊すことです。直接的に壊さなくても、自分は誰でもないということを見抜くことで、それはやってきます。

生まれてから、一度アイデンティティを作って、それを壊すこと。このプロセスが真の気づきにとっては必要なことなのですね。

マインドの仕返しのメカニズム

マインドというのは、されたことはし返すという特徴を持っています。仕返しというと、ちょっとネガティブなイメージがありますが、もっとシンプルに捉えることです。

ただされたことは、マインドの記憶システムに組み込まれていくので、自分がする立場になったときにそれを利用するということです。

だから、受け止められた経験が多ければ、自分も相手を受け止めるようになるし、暴力を振るわれた経験が多ければ、気づいたら自分も暴力を振るうようになるということです。

そこに良い悪いは殊更関連があるわけではないのです。幼い無垢な頃に、どのように親に扱われたかによって、それが繰り返される可能性が高くなるのです。

ただし、自分の言動をいつも見張っていることができれば、つまり意識的に生きることができるなら、その繰り返しから脱出することは十分可能です。

たとえば、幼い頃に親から怒りのエネルギーを日常的に放射されたとしたら、放っておけば今度は自分が周囲に怒りをぶつける側になるのです。

けれども、そうした根深い怒りがあることに気づいて、それをぶつけようとする自分にも気づいていられるなら、繰り返しは避けることができるのです。

要は怒りを抑えようとするのではなく、つまり抑えようと自分に強いる代わりに、意識を自分に向けていられるなら、その怒りは自然な形で解放されるのです。

自分本位の勧め

もし世界中の誰もが自分本位だったら、世界はビューティフルだろう

ちょっと考えてみてごらん、誰もが幸せでいようとしている

誰もが祝おうとしている。誰もが静かで、瞑想的で

祈りに満ち、愛にあふれていようとしている

そういうものこそ幸福のもとだからだ

世界は幸せになるに違いない

by osho

セラピストになった当初からずっと訴え続けていること、それが「自分本位」になって下さいということでした。

こんなシンプルで簡単なことが、どうして人類全体に広がって行かないのか?それにはちゃんとした理由があるのです。

それは、多くの人が幸福になろうとしているのではなく、安心しようとしているからなのですね。

これもずっと言い続けてきたことです。安心を求める生き方の先に幸福が待っているという錯覚が根深くあるのです。

真に満たされている人は、他人を利用しようとすることはありません。だから自動的に自分本位な生き方になるということです。

安心を求めれば必ず自己防衛が開始されるのです。そこには愛はありません。勿論偽物の愛はどこにも転がっているのですが…。

自分本位を徹底することができた人だけ、その先にある無防備な生き方へと進んでいくことができるのです。

それこそが、静かで、瞑想的で、祈りに満ち、愛に溢れている状態になるということですね。

マインドは人間クラブ入会の条件

頭というのは、社会があなたにしかけたトリックにほかならない

頭というのは

社会があなたに取りつけた機械

社会があなたに押しつけた機械のようなものなのだ

ハートは生まれつきあなたについてくる

が、頭はついてはこない

それは社会によって条件づけられ、訓練されたものなのだ

by osho

↑上で「頭」をマインドと読み替えていただいたら、このブログでお伝えしていることと同じことを言っていると分かるはずです。

あなたが生まれたときには、ハートだけがあってまだマインドはありませんでした。だからあなたは、何の矛盾も感じることはなかったのですね。

けれども、家族に囲まれる環境の中で、自動的にマインドが作られていくのです。そのマインドは両親のマインドからそのエッセンスをもらい受けます。

マインドはハートと違って、社会という人間クラブに入るために必要な機能なのですが、そのためにときにはハートが悲鳴をあげることもあるのです。

特に、両親のマインドがひどく病んでいればいるほど、子供のマインドも病んだ状態になっていくことになります。

そうなると、ハートは完全に閉ざした状態になり、生きている心地がしなくなってしまうこともあるはずです。

これが生きづらさの理由です。癒しとは、マインド優位で生きてきたことに気づき、ハート優位の毎日へと戻すことなんですね。


奴隷からの脱出

あなたはあなたであるだけのためにここにいるのであって

ほかの誰になるためでもない

ほかの誰にも自分を操らせないこと

そして、ほかの誰も操ろうとしないこと

あなたは、ほかの誰かの期待に沿うためにここにいるのでもないし

ほかの誰も、あなたの期待に沿うためにここにいるのでもない

by osho

またこの文章を載せたくなりました。もしもこの文章の言わんとすることが腑に落ちないなら、あなたは奴隷として生きているということです。

奴隷のような人生を生きているとするなら、それは幼い頃に次の三つの要素のどれかを親から繰り返し与えられたのです。

それは、「恐怖」、「罪悪感」そして「自己否定」です。この三つのうちの一つでも親が使えば、あなたはもうコントロールされることになるのです。

その中でも特に強力なのは罪悪感ですね。罪悪感を抱くように育てられてしまうと、罪悪感から逃れようとして子供は親の奴隷と化すのです。

そうした洗脳のメカニズムを深く理解することができれば、自然とその過酷な生き方から距離を置くことができるようになるのです。

そして、自分以外の他の誰の人生も幸せにすることはできないということも、合わせて忘れずにいることですね。

不安は信頼によって消える

もしも自分の内側には不安が沢山あるという自覚があるのなら、その不安をなんとかして安心に変えようとしてしまう自分に気づいてあげること。

不安→安心、これを求めることを自己防衛と呼ぶのですが、それが肥大化すればするほど、人生は過酷で悲惨なものになってしまいます。

まずこのことにしっかりと気づくこと。自己防衛によって得られるのは、一過性の安心だけであって、またすぐにいつものあの不安が押し寄せてくるのです。

最も大切なことは、その不安から逃げることをやめようとすることです。その代わりに不安とともにいるようにするのです。

不安をしっかり見つめ続けると同時に、全体性を信頼してみるのです。実は不安への特効薬があるとするなら、この信頼以外にはありません。

あなたがどんな人生を生きてきたとしても、一つの間違いも失敗もないということに気付くこと。これは信頼があればできることです。

信頼は何かを信じることとは全く違うことです。信頼は戦うことを放棄させてくれるし、深い受容性をもたらしてもくれるのです。

そうなったら、不安は独りでに消滅してしまうでしょうね。

終わりがないのは真実のみ

桃太郎や一寸法師のような昔ばなしの終わりに、「いつまでも幸せに暮らしましたとさ…」というのが出てきたりしますね。

物事には必ず終わりが来るということを知っているのに、いつまでも…と言って、都合のいいことは永遠に続くことを願っているということです。

都合の悪いことはすぐに終わって欲しくて、都合のいいことはいつまでも続いて欲しいということですが、この欲望が苦しみを生むのです。

これが執着を作り出す元凶なのです。過去に体験した都合のいい物事を、未来にもやってきて欲しいと期待するのです。

さらには、過去はダメだったけれど未来には期待できる、というのもありますが、そうやって過去と未来を行ったり来たりするのです。

それが思考の使われ方のほとんどなのです。1日にたとえ1分でもいいので、過去と未来のない体験を自分にさせてあげることです。

そしてそのフレーバーをしっかり身につけるのです。必要なときには、いつでもそれを蘇らせることができれば、生きてる感触が変わってくるのです。

過去から未来へと進んでいると感じるのは思考が作り出した幻覚です。その幻覚を物語と呼ぶのです。

真実はどこへも流れていくわけではなく、ずっとここに在るのです。それはたとえ宇宙がなくなったとしても変わらないことです。

その永遠性こそが真実なのですね。

自己イメージが人生を縛る

誰であれ自己イメージというものを持っています。自己イメージとは、自分はどんな存在なのかということへの答えのようなもの。

その自己イメージがどれだけ強烈に自分を縛り付けているのか、それを知ったらきっと驚嘆するに違いないのです。

たとえば、私は太っているという自己イメージを持っているとしたら、どれだけ客観的事実として痩せていたとしても、どうしても太っていると感じてしまうのです。

自分は醜悪だという自己イメージを持っているなら、どれほどの美男美女であれ鏡を見ることすらできないかもしれません。

つまり事実なんてものは、自己イメージにかかったら何の力も発揮できなくなってしまうくらい、私たちは自己イメージに取り込まれているのです。

そしてどんな自己イメージであれ、人生はその自己イメージに見合った現実がやってくるということです。やっぱりね、と思うような体験をするのです。

もしもあなたが次のような自己イメージを持っているとしたら、どういう人生が待っているかを考えてみてください。

⚪︎価値のない存在だ

⚪︎見捨てられる存在だ

⚪︎誰にも受け入れられない存在だ

人生は自己イメージが正しかったということを証明するかのようなものになっていくのですから、想像するに耐えられないですね。

ここで深い理解が必要なのは、自己イメージというのは成長過程で周囲にどんな自我を持った親がいたかで100%決まるということ。

自己イメージとは名ばかりで、自分のことなど現してなどいなかったということです。

それが腑に落ちたら、どんな自己イメージも自然とゴミ箱行きになるはずです。自己イメージから解放された人生は、想像できないくらい自由で自然なものになるでしょうね。

二種類の体験

私たちの体験には二種類あるのですが、一つは物語の中での体験であり、もう一つは物語のないありのままの体験です。

その二つは別々に体験されるわけではなく、いつも同時に起きているのです。つまり体験は本当は一つしかないのです。

ただし、物語の住人である自我が体験したと感じれば、その体験は前者のものとなり、一時的であれ自我がない状態であれば後者の体験となるのです。

前者は私がその体験をしたと思い込み、後者はただそこに体験があると認識するということです。

前者の場合は、物語の方に注意が向いてしまっているために、意識的であることが難しいのです。

その一方で後者の場合には、十分に意識的あることができます。というよりも、意識的である限りは後者のケース、つまりただ体験があるということに気づいているのです。

たとえば毎朝あなたが瞑想している状態を想定してください。そのときに、1日の始まりにきちんと瞑想しているという捉え方をしているなら、それは物語の中での瞑想体験なのです。

それに対して、朝だろうが自分の部屋だろうが、そういったシチュエーションから切り離されたときには、あるがままの瞑想体験となるのですね。

もう一度グルジェフの言葉

グルジェフは弟子たちに、もっとも根本的なことの一つをいつも口にしていた。「人のことを考えるな。さもなければ、あなたはけっして成長しない」そして、それこそ世界中で起こっていることだ。誰もが他の人たちのことを考えている。

by osho

このブログでも何度も繰り返し取り上げている話題なのですが、私たちはつい目の前に今いない人のことを考えてしまうのです。

けれどもそれをし続けるなら、「けっして成長しない」とグルジェフは教えてくれているのですね。

それはなぜなのでしょうか?実は私たちが他人のことを考えてしまうのは、その多くが自己防衛のためなのです。

自我というのは自己防衛を続けることで自分自身が存続することを知っているので、幸福になりたいという前に生き続けることを選択するので、防衛はやめられないのです。

そのためにちょっとした暇があれば、すぐに誰かのことを考え出すわけです。今日職場で言われたことや、明日言わなければならないことなど。

昨日友達がこんなことを言ってきたとか、今度会ったときにはこう言ってやろうなど。本当にキリがありません。

自我に操られるままに自己防衛するなら、それにエネルギーを費やす日々を過ごすなら、当然のこと大切な成長(真実への気づき)は期待できません。

今日からでもいいので、独り過ごしているときに誰かのことを考え出したらすぐにそのことに気づいてあげること。

気づきさえすれば、時間はかかっても少しずつ思考は小さくなっていってくれるはずなのです。

思考を見守る側になれるなら、あなたの周りもあなた自身もすべてが全体性として感じられるようになるでしょうね。