「私」は不要

過去のことを考えるたびに”私”が入りこむ。

未来のことを考えるたびに“私”が入りこむ。

だが

あなたが今ここに在って、過去も未来も考えないときには、あなたの”私”はどこにいる?

あなたはそれを感じられまい。

それはそこにはない–

自我は現在の中には存在したことがないのだ。

by osho

過去のことを考えなければ、「私」はどこにもいないし、未来のことを考えなければやはり、「私」はどこにもいないのです。

このことを実践して自分で確かめてみて下さい。過去にも未来にも思考が行かなければ、自分が知っている「私」の輪郭は消えてしまうのです。

「私」が誰かも分からない、「私」にまつわるあらゆる情報が消えてしまうのです。それでも死なずに普通に生きていることを体験することです。

「私」がいなくても毎日の生活は続いて行くのです。何も困ることもなく、かえって気楽に日々を過ごせるはずなのです。

それなら「私」とは一体何のためにいるのでしょうか?実は「私」がいる理由というのはないのです。ただ「私」を継続させておきたいというだけなのです。

一度できてしまった「私」が完全に消滅してしまうのが恐ろしいので、い続けようとするだけだということです。

一過性でもいいので、「私」がいない体験をしてしまったなら、「私」は不要だったと残念ながら気づくことになるのですね。

問題行動は人生を破壊する

私たちは人生の中で多くの人たちと出会って、何らかの関わりを持つようになるのですが、そのときにお気に入りの人もいれば、気に入らない人もいるはずです。

そしてそのどちらでもない人たちもいます。つまり仲が悪いというわけでもないけれど、されとてそれほど仲がいいということでもないという関係。

友人や知人、あるいは職場の同僚などとの関係性で1番無難なのが、上記の関係かもしれませんね。

そうしたもっとも無難な関係と言うのは、赤の他人の場合にはそれで構わないのですが、それが家族だったとしたらどうでしょう?

家族のそれぞれが互いに、仲が悪いでもなく仲が良いでもないという状態だったとしたら、それは大変悲惨なことになってしまいます。

それはもう仮面家族と呼ばれても仕方ないのです。家族同士の本来なら親密な関係であるはずのものが、互いが本音を言わず、喜怒哀楽を素直に出さない状態。

そこに生まれてしまったら、子供はそれが普通になってしまうのです。勿論孤独感、わけのわからない寂しさに打ちのめされるはずですが、その理由が分からない。

家族に対する不満を持つこともできずに、ただただ生きづらさだけを感じながら毎日を送ることを想像すれば、それがどれほど過酷なものか分かるはずです。

自我というのは自分を外の世界と分離した個人だと思い込んでいるため、本当は非常に孤独なのですが、家族や友人と密接に過ごすことでそれをごまかせるのです。

ところが上記のような家族のもとで育ってしまうと、自我の孤独感をごまかすことができないために、子供の頃から寂しさや不安ばかりを感じることになるのです。

さらに言いたいエネルギーを蓄積してしまうために、それが原動力となって問題行動を起こすことになるのです。

それは人生を破壊する力を持っています。もしも心当たりがあるなら、こうしたカラクリに気づいて、地に足をつけた癒しを進めて行く必要がありますね。

しようがないは怒りを隠す

「仕様がない」とか「仕方がない」と言う言葉がありますが、手の施しようがないとか他に打つ手がないと言ったくらいの意味ですね。

だってしょうがないじゃないかぁ、ほかにいい方法でもあったら教えてほしいくらいだ、ということです。

万策尽き果てて、もうどうしようもないというのなら分かるのですが、「しょうがない」を安易に繰り返してしまう人もいるのです。

その理由は、「しょうがない」によって怒りを隠すことができるからなのです。この生き方は、大抵が幼い頃に親との人間関係によって作られたものです。

子供は親に比べれば非常に非力です。どう頑張ったって、親に服従するしかないことも多々あるのです。

そういうことが繰り返されてしまうと、子供は防衛の手段として「しょうがない」を利用して内面を怒りの嵐から救おうとするのです。

そうなれば当然のこと、怒りのエネルギーや言いたいエネルギーが蓄積してしまい、それを原動力としたあらゆる問題行動が噴出することになるのです。

このマインドのメカニズムに気づいている必要があります。そして、「しょうがない」を人生から排除することを実践することですね。

不自由は連鎖する

自由と不自由とを選ぶとしたらどちらを選びたいでしょうか?それは勿論誰であれ自由でいたいと望んでいるのです。

それならなぜ不自由な人がいるのでしょうか?自分は不自由な人生を生きているという自覚があるなら、なぜ自由な人生へと変えることができないでいるのか?

それを知るためには、不自由はどこからやってくるのかを理解する必要があるのです。ただし、ここで言う不自由とは物理的なものではなく、精神的なもののことです。

実は、不自由さは防衛からやってくるのです。自己防衛にくっついてくると言った方が正確かもしれません。

不安を安心に変えようとして自己防衛すれば、必ずや自分を抑圧したり、自分に制限を加えたりして、あるがままではいられなくなるのです。

見捨てられたくなくて、相手の期待に応えようと頑張ったり、否定されることを恐れて素直な自分を隠そうとしたり。それが不自由さの原因なのです。

そして悪いことに、そうやって不自由に生きている人は、自由に生きている人に対して嫉妬したり、反感を覚えたりするのです。

幼い子供というのは自我が未発達なために無邪気に生きています。それは不自由に生きている親からすると、攻撃の対象となってしまうのです。

そのために、子供は無自覚に自己防衛することになって、結局は親と同じような不自由な生き方を選ぶ羽目になってしまうのです。

そうやって不自由な生き方というのは連鎖してしまうのです。こうしたことを深く理解して、連鎖を断ち切ることができれば自分の人生が素晴らしく変化するだけでなく、未来の世代へ大きな貢献をすることになるでしょうね。

真実はブラックホールのよう

宇宙にはブラックホールというものがあるということは、この時代に生きている人なら大抵は知っていると思います。

私が子供の頃には、まだそれほど周知されてはいなかったはずですが、今では子供でもその存在を聞いたことがあるでしょうね。

質量の大きなものがたくさん集まると、互いに引き合う力が大きくなり過ぎて、より密度が高くなり、想像を絶するほどに重力が大きくなるのです。

そうなると、どんなものもその重力に引きつけられて内側に閉じ込められてしまうのです。たとえ光と言えども、その中に落ちていって二度と戻っては来れない。

だから私たちはそれを決して見ることはできないので、ブラックホールと命名されたということですね。

これは私の勝手なイメージなのですが、真実というのもブラックホールのような特徴があると思うのです。

たとえば、どれほど素晴らしい論理があったとしても、真実の中に吸い込まれたら最後、それはまったく用をなさなくなってしまうのです。

どれほど科学が進歩して、もうこれ以上の高みはないというものが発見されたとしても、真実と対面した瞬間にその中に落ちて行き、その存在は消えて行く運命にあるのです。

真実はそれ以外のあらゆるものを飲み込んで、すべてを消滅させるだけの力を持っているのです。

その力から逃げていられるのも、そう長くはないのではないかと思うのです。すべてが無に帰す時がやって来る、つまり真実とは無のことなのですね。

あらゆる反応に注意を向ける

最近クルマを新しくしたのですが、それでいろいろ気づいたことがあるのです。自分でも意外だったのは、エンジンの音や振動はストレスだったということ。

若い頃からクルマが好きだという自覚があって、もう40年以上に渡ってさまざまなクルマを乗り継いできました。

だからエンジンの音やマフラーから出る排気音も好きに違いないと勝手に思い込んでいたのですね。

ところが、今回生まれて初めてEV(電気自動車)に乗ってみて本当に驚いたのです。実はクルマにまつわる音は自分にとって騒音でしかなかったということ。

EV というのは電気の力でモーターを回して走行するので、エンジンの音もないし、マフラーそのものもありません。

本当にクルマの好きな人からしたら、きっと物足りないと思うのでしょうけれど、私としてはとにかく運転していて気持ちがいいのです。

正直言って、また明日もこのクルマを運転できると思うと嬉しいのです。こんなふうになったのは、全く初めての経験なのです。

私たちは、もしかすると自分の正直な気持ちをあるがままには見ようとしない場合が多々あるのかもしれないですね。

きっとクルマ好きの自分にとって、エンジン音は嫌いということがバレてしまったら、非常に都合が悪かったのでしょう。

大好きな人と長く一緒にいて、自分にとって都合の悪い相手の言動などがあっても、気づかないようにしてしまう可能性があるということです。

その抑圧はいつか表面化して、こんなはずではなかったというような関係性の悪化を招くかもしれません。

だとしたら、日頃からできる限り自分のあらゆる反応に意識的である必要があるということです。それが受け入れるというマインドに近づく方法なのですね。


スピリチュアルな誕生

あなたは生まれたが、しかしほんとうにはまだ生まれていない。再誕生が必要だ。あなたは二度生まれなくてはならない。最初の誕生は、肉体の誕生にすぎない。二度目の誕生こそが真の誕生、スピリチュアルな誕生だ。あなたは自分自身を、真の自分を知らなくてはならない。

by osho

誰もが自分の誕生日を知っているのですが、それは↑上によればたんに肉体の誕生日に過ぎないということですね。

そしていつかは、スピリチュアルな誕生日を迎えなくてはならないと言っています。それは真の自分、自分の本質を知る日ということです。

けれども、私に言わせればその二つの誕生の間にもう一つの誕生があるのです。それが自我の誕生です。

ただし、自我の誕生日というのを何年何月何日と明確に言うことはできません。なぜなら、自我というのは少しずつ少しずつ形成されていくからです。

ある日気がついたら自分の存在に対する自覚があったわけで、その時にはもうすでに自己イメージの原型も出来上がっていたはずです。

自我によって人生が始まるのですが、その一方では苦悩を知ることになるのも自我があってのこと。

そして自我によって一人称という画期的な自覚が発生することで、意識のごく一部が目覚めることになったのです。

ただ残念なことに、自我は自分こそが正真正銘の自分そのものだと思いたいために、真の自分を全力で隠してしまうのです。

そのおかげでスピリチュアルな誕生日はなかなかやってきてくれないのです。それでも誰にとっても例外などなく、いずれはその日が必ず来るのです。

だから大船に乗ったつもりで、ただコトの行方を見守っていればいいだけなのですね。

ハートが優位な生き方

英語には、ハート(heart)とマインド(mind)という明確に異なる二つのワードがあるのに、日本語ではそのどちらも「心」という一つのことばで表現してしまいます。

一般的に言って、英語よりも日本語の方がよりきめ細かな表現をするはずなのに、心という単語に関しては何だか雑ですね。

というのも、私にとってはハートとマインドというのは似て非なるものだからです。似ているというのは、どちらも内面を表す言葉だという点だけ。

ただしマインドというのは多くの動物の中で、人間にだけ与えられた特別なものであるとも言えますね。

人間だけが高度な思考を操って、人生という物語の中を生きるのですから。その思考の塊、自我の棲家となっているものこそがマインドなのです。

一方のハートというのは人間だけでなくすべての動物に備わったものだと言えます。ハートは根源的なものという感じがします。

もしかしたら、古代の日本人というのはハートが物凄く開いていて、現代人のようにはマインドが発達していなかったのかもしれないですね。

だからマインドに該当する言葉が作られなかったのでは?その後時代の変化とともにマインドが優位になって行き、それまでハートを意味する「心」で代用してしまったということなのかもしれません。

だとしたら、いにしえの日本人の生き方を思い出して、真実と共にいられるハートが全開で生きられるようにしたいものですね。

痛みと共にあることも役立つ

思い出すと、子供の頃からお腹が痛くなることが多々ありました。常に痛みを感じていたわけではないのですが、それはいつも内在していた感覚がありました。

そのせいで、外側の世界に向かって飛び出していくということをいつも躊躇させられていたのです。

なぜなら、その痛みが襲って来ると、外側に向けて行っていたあらゆる言動を中止するしかなかったからです。

そしてじ〜っとその痛みが過ぎ去るのを待つだけになるのです。それは本当に嫌なことだったのですが、今考えると利点もあったと思えるのです。

それは注意が内側に向くということ。私たちは放っておけば外側へと注意が発散する習性を持っているのです。

それが断念させられると共に、静かにたった独りで内側の痛みや苦しみと共にあることを余儀なくさせられたのです。

大人になって、せわしなく活動している思考から離れて、独り静かに内側と向き合うとき、その子供の頃の体験が役立つのかもしれません。

自分自身といつも一緒にいるという感覚、その延長線上に観照者でい続けるということがやってきてくれるような気がするのです。

<ものみ>と<行為者>

その中心を覚えておきなさい

自分のふるまいを見守りなさい

自分の行為を

さまざまな自分の同化を–

するとひとつの距離が生みだされる

<ものみ>と<行為者>がふたつのものになる

あなたは自分自身が笑っているのを見ることもできる

そして、あなたは<見るもの>のままでいる

by osho

私にとっては、それはとてもシンプルだし一度だけならそれを実行するのもとても容易いのですが、一方でそれを継続することはとてつもなく難しいことなのです。

それが↑上で言っていること、つまりは行為者としての自分を<見るもの>になるということです。自分に意識を向けるという内面的な作業。

継続することがなぜこれほどまでに困難なのかを考えてみたのですが、それはおそらく自我にとっては見られることが危険だからなのでしょう。

自我の立場としては、私たちの本質を眠らせておきたいのです。つまり、意識を非覚醒状態においておきたいのです。

もしも覚醒してしまったら、その瞬間に自我は消滅してしまうことを薄々気づいているのでしょう。それはもう必死なのです。

だから思考(物語)の中にどっぷりと浸かっているように仕向けるのです。それでも<見るもの>でい続けるためにはどうすればいいのか?

それにはある種の絶望が必要なのだろうと思うのです。それは、自我のままでは決して満たされることはないという決定的な絶望です。

このことが真にふに落ちた時、ようやく自我の抵抗をそのままにしながらも、その抵抗をも含めた自我を見続けることができるのでしょうね。