モノを処分することで部屋のエネルギーを浄化

昨日のブログにも書いたのですが、母親が無事退院することができて、喜んだのもつかの間、今度は自宅での生活上、危険だと思われるところを安全に母親が過ごせるようにする仕事が待っていました。

といっても、手すりなどは父親が以前にも依頼した方のところにすでに依頼してくれていて、トイレに設置してくれていました。

それでもやはり、母親本人が実際に試してみて、もっと手すりが必要だと分かったので、また新たにいくつかの場所に取り付ける算段をしました。

それと、母がベッドからトイレに向かうときに、リビングを通らなければならない構造になっていて、そのリビングがモノで溢れているのです。

このチャンスを逃してはならぬとばかりに、日頃いくら説得しようとしてもモノを捨てる覚悟ができない両親に詰め寄り、不要なものを徹底的に整理させてもらいました。

なにやら古くて怪しげなものが入っていたサイドボード、12年選手となった図体ばかり大きなブラウン管式のテレビとその台、その他多くのものをリサイクル屋さんに引き取ってもらいました。

この歳になって、本当に分かったのですが、両親ともにモノを捨てられない体質だったということです。

それは、「片付けられない人」なのではなくて、「片付けることに興味を持っていない人」だったのです。身の回りに雑然とモノが置いてあるのを好むというのか…。

それにしても千載一遇のチャンスとはこのことですね。すっかり整理整頓されて、母親がリハビリができるスペースも少しですが作ることができました。

昨日その作業を一気にやってしまったので、気持ちはいいのですがかなり疲労してしまいました。しかし、まだ母が管理する一階の台所と、母の部屋の整理整頓が残っています。

一気呵成に責め続けなければと思っています(笑)。整理整頓の清々しさに気づいて欲しいと思うのは、エゴかもしれませんが…。

期待を超えた母親の頑張りのおかげで、今日退院します

自転車同士の事故で転倒して、救急車で病院に搬送されて、股関節内の人口骨頭置換手術を受けていた母親が、今日めでたく退院することになりました。

手術してから昨日でちょうど3週間経ったのですが、その間の本人の熱心なリハビリの努力が実ったのか、とんとん拍子に回復していきました。

本当にありがたいことです。リハビリを手取り足取り懇切丁寧に指導してくれる、母親担当の理学療法士さんは、若干22歳の女性です。

彼女は母親が痛がるようなことは一切せずに、それでも有効なリハビリの方法を絶えず編み出してくれていたという印象があります。

私自身も、毎日病院に行く度に、母親のリハビリが必ず進歩しているのを見ることができて、それはとても楽しいことでした。

私が見ている前でも、さっきまでできなかったことが、急にできるようになったことも何度も目撃させてもらうことができました。

手術後、リハビリが始まってからというもの、頑張りはするものの、思うように動かない足を手でさすりながら、母は何度も「本当に歩けるようになるのかね~」と気弱なことを言っていました。

私は、リハビリの進捗を客観的に見ていたので、今までどおりに歩けるようになることは分かっていたのですが、彼女にはそれが見えないようでした。

昨日いつもどおりに母親の病室を訪ねると、少しだけ目を潤ませた母親が「さっき初めて杖なしで歩けたよ!」と報告してくれました。

何でも、私に一番に伝えたかったと言ってくれました。そのときの顔は、本当に嬉しそうでした。

このブログを読んでくださり、暖かな励ましの言葉や応援のエネルギーを送ってくださったみなさまに、この場を借りてあたらめてお礼させていただきます。

今日、無事退院します。本当にありがとうございました!!

辛い夢から幸せな夢へ

「奇跡のコース」には、この世は幻想、つまり夢のようなものであり、いずれは誰もが、一人残らずその夢から醒めて神のもとへ帰ることになると書いてあります。

そして、神のもとへ帰る前には、この現実という夢が、辛い夢から幸せな夢へと変化することになるとも言っています。

これを読むと、何となく救われたような気持ちになりますが、辛い夢が幸せな夢に変わるというのは、実際どういうことなのでしょうか?

人生には楽しいことや嬉しいことばかりではなくて、辛い経験をしたり、苦しい現実がやってきて苦悩させられることだってありますね。

あるいは、人生そのものを悲観して、なんで自分ばかり理不尽な思いをさせられるのかと、神を恨んでいる人も大勢いるかもしれません。

悪夢が幸せな夢に変わると、たとえば病気が治ったり、宝くじに当たったり、好きな人と結ばれたりといった、いわゆる幸運の女神がやってきたような出来事ばかりが続くことになるのでしょうか?

残念ながらそうではありません。幸せな夢に変わったとしても、最愛の人を失うことだってあるだろうし、事業に失敗して絶望的になることもあるかもしれません。

つまり、自分にとって都合のいいことばかりが起こるようになるのではなく、依然として災難に遭遇することもあるのです。

本質的には、人生に起きることががらっと変わってしまうなどということではないのです。幸せな夢の正体とは、この現実が夢のようなものであるということへの信頼が深まるということです。

そして、本当の自分はその夢の中の単なる登場人物ではなく、人生という物語を観照する純粋な意識であるということに目覚めながら生きるということなのです。

個別性と純粋な個の違い

私たちが持っている個別の意識、正確には個別の思考と言ったほうがいいのですが、それは、純粋な意識の片鱗を示してくれています。

というのも、純粋な意識としての全体性というのは、究極の個であるとも言えるからです。つまり二つ目のない唯一の個ということです。

だからこそ、私たちは誰も自分を二人だとは感じないのです。自分の心が一枚岩ではなく、多くの部分に分離していると分かったとしても、それを認識している自己はやはり一つなのです。

このことは、個としての自己と、個別性としての自分というものを混同しないようにする必要があるということに気づかせてくれます。

私は人生の初期のころから、何となく自分がすべてだという感覚を持っていました。それは、自分としてはとても自然なものだったのです。

けれども、それは特別でありたいという、つまり個別性に執着するエゴの欲望だと解釈したために、その自然な感覚を否定してしまった時期がありました。

それこそが、個としての全体性と個別性の混同であったと今なら分かるのです。そうして初めて、正々堂々と自分がすべてだと再び言えるようになったのです。

勿論その場合の自分とは、個人(個別性)としての自分のことではなく、自分とは何だろう?と追求していく過程で突如広がる意識のことです。

自分をどこまでも探求するのは、答えを出すためではありません。その探求の過程が大切なのです。そのときに、自己という個が無限大の意識だということに気づかされます。

この感覚を得るには、わざわざ長い時間を取って瞑想する必要もありません。ただ、思考の手の届かない内奥の静寂さに触れるだけでいいのです。

その静寂さは、この騒がしい現象界がそれとして顕われ起きるための、舞台のようなものだと思えばいいのです。
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真理を求めることはない その5

一昨日に引き続き、 osho の言葉です。

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聖者は、罪について夢見続ける。
聖者は、自分が抑圧したあらゆる悪事を夢に見続ける。
奇妙な現象だが、
聖者の夢の中を覗きこめば、常に罪人のように見えるだろう。

そして罪人の夢を覗きこめば、常に聖者のように見えることになる。
罪人は、 いつも聖者になる夢を見る。
そして聖者は常に罪人になる夢を見る。
抑圧されたものが夢に現われ、無意識が夢で自らを顕すからだ。

だが、分裂はそのままだ。
そして分裂している限り、決して源まで落ちることはできない。
それはちょうどこんなふうだ。

一本の樹があるとしよう。
無数の枝を出した大きな樹で、枝はそれぞれに分かれている。
その枝に執着したら、どうやって根元まで行くことなどできるだろう。
根に向かえば向かうほど、枝は少なくなる。
下へ行けば 行くほど「多」は 消え、分かれていない一本の幹に到達する。
すべての枝がその中にあり、しかもそれ自体は分かれていない。
あらゆるものはそこから出ている。

「多」は その「一」から出ているのだが、
その「一」は「一」のままなのだ。
人は、その「一」まで落ちなければならない。
それこそが根だ、源だ。

「あらゆる相対性は、
絶対の一から来るとはいえ、
その一にも、囚われてはならない」。

誰かを守ろうとするとエゴが活性化する

普段はとても穏やかで、怒りを表に出すこともないような人なのに、友人が何らかの被害に遭ったとなると、その加害者に対して猛烈に怒りを露わにする人がいます。

みなさんも、そういう人のことをすぐに思い浮かべることができるのではないでしょうか?あるいは、もしかしたらみなさん自身にも、そうした一面があると自覚できる場合もあるかもしれませんね。

これは、元々怒りを表現するということに抵抗する心があって、無意識的に怒りを抑制してしまうのですが、友人などその人にとって大切だと思える人に関する場合には、その抑制が取れてしまうことが原因です。

つまり、自分自身のことでは簡単には怒れないことでも、大切な人の場合には怒る大義名分ができてしまうということなのです。

そのため、ブレーキが効かなくなってしまい、突如として激しく怒りだすという現象が起こるということです。

自分以外の誰かを守るという大義名分は、怒りというエゴを思う存分活躍させてしまうことになるのです。

私自身も、最近毎日のように、そんな経験をしています。股関節を骨折して入院している老齢の母親に会うたびに、自分が守らねばという気持ちがどこかにあるのでしょうね。

そうなると、病院の環境やらナースのみなさんやら、医師の方々、はては駐車場のおじさんなど、ありとあらゆる人たちの中に敵意のようなものを感じてしまうのです。

勿論それは自分の中にある敵意の投影であることは、良く分かっているのですが、弱っている母親を守ろうとすると、そこにエゴが相手を攻撃する大義名分ができたとみるのです。

そうして、いつも誰かを必要以上に敵対視しようとしている自分に気づきます。この思考や感情を観察していると、なかなか面白いものがあります。

それでも、そんな中にあって必ず愛を感じさせてくださる人というのがいるものです。そのときに、敵を見つけようとしていたエゴの心が洗い流される思いがして、救われますね。

真理を求めることはない その4

またまた昨日に引き続き、 osho の言葉です。

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ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。
そのような営みを心して避けなさい。
あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、
心は混乱の中に失われる。’

難しい。
知識を捨てることまでは理解できる。

だが、もっと深く、
通常の知識よりももっと深い所には、善悪の良心がある。

「分かった。
私はもうキリスト教徒ではない、ヒンドゥー教徒ではない」
と考えることはできる。

だが道徳となると、善悪の判断となるとどうか。
道徳は、 キリスト教やヒンドゥー教とは違うと、
あなたは思っているのかね。

道徳は、人道主義者だ。
無神論者ですら道徳家だ。
無神論者はどんな宗教にも所属しない。
だが、彼もまた善悪に基づいて考える。

そしてこれは、求道者が解決しなければならない最も深い問題のひとつだ。
本当の求道者はあらゆる概念……善と悪…を落とさなければならない。

聞いた話だが、小さな船で何人かの人が旅をしていた。
と、突然、 海が狂ったように荒れ始め、今にも船は転覆しそうになった。
みんなひざまづいて祈り始めた。

この船にはよく知られた聖者と、これまた人に知られた罪人が乗っていた。
その罪人もひざまづいて言った。

「主よ、我らを助け給え」

すると、聖者がその罪人に近づいてきて言った。
「あまり大きな声を出さないように。
もし主がお前のことに気がつかれ、
お前もこの船に乗っていると知られたら、
私たちの誰ひとり、助かる者はいなくなる。
みんな溺れ死ぬことになる。
そんなに大きな声を出してはいけない」

だが、人を罪人と思えるような聖者が聖者であり得るだろうか。
もし、他人を罪人だと考えているのだとしたら、
そんな聖者が本当に本物の聖者であり得るだろうか。

その人は偉大な道徳家ではあるかも知れないが、
善にこだわり、まだ他人に対する非難を抱えている。
宗教的な人は、非難の心を持たない。
彼はただ受け容れる。
宗教的な人は、きわめて謙虚だ。

その人がどうして
「私は聖人だ。お前は罪人だ」
と言うことなどできよう。
宗教的な人は、ただ、善と悪のすべての枠組みを落とす。

僧?(ソウサン)は言う。
‘ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。
そのような営みを心して避けなさい。

真理を求めることはない その3

昨日に引き続き、また osho の言葉です。

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私は、意識はまさに鏡のようなものだと、あなた方に言った。
前に来たものが何でも、何の偏見もなく映し出される。
鏡は、
「この女性は美しい。
私はこの人を映したい」
とか、
「あの女性は嫌だ。
あの人は映さないことにしよう。
あの人は醜い」
とは言わない。
いや、鏡に判断はない。
鏡はただ映すだけだ。
それが鏡の本性だ。

だが、一方には写真の感光板と言うのがあって、これもまた映す。
しかし、それはたった一度しか映さない。
その後は、その像に執着する。
カメラの後ろに隠れている感光板も映すが、一度だけだ。
思考(マインド)はまさに感光板に似ている。
それは映してから、その映像を捨てきれない。
そこで、死んだ映像を運ぶ。
いつも死んだ映像を持ち運ぶことになるのだ。

鏡は、映して、また空っぽになる。
再び、受け入れる用意ができている。
鏡は常に新鮮に受け入れる。
決して執着しないからだ。
鏡にはどんな判断もない。

思考(マインド)にあるのは、判断、判断、判断ばかりだ。
そして、この判断の厚い壁のために、人は決して真理に到達できない。

真理はある。
それは理論ではなく、実在だ。
それは経験されなければならない。
それについて考えることはできない。
それについて哲学的に思索することはできない。

倫理を立てれば立てるほど、見逃すことになる。
時には罪人が一瞥を得ることはあるだろうが、哲学博士だけは無理だ。

僧?(ソウサン)は言う。
‘真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。

真理を求めることはない その2

昨日の osho の言葉の続きです。

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あらゆる欲望が止まり、どこへ行こうという動機もなくなった時、
突然、人は光に満たされている自分に気がつく。

突然、自分こそがこれまで求めてきた、
まさにその寺院であることを見い出だすのだ。
突然、人は自分がクリシュナであること、自分がイエスであることを理解する。
どんな光景も来はしない。
自分こそすべての源泉、自分こそが実在そのものだ。

‘真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。’

意見を持ってはいけない……
キリスト教、ヒンドゥー教、回教、ジャイナ教……意見を持ってはならない。
経典を持ち運んではならない。
そうでないと、知識の人にはなるかも知れないが、
決して賢人になることはない。
多くの知識と情報でいっぱいにはなるかも知れないが、
すべては死んだ借り物でしかないだろう。
意見は真理ではない。
そうでは あり得ない。

意見は思考(マインド)から来るものだ。
真理は思考(マインド)からは来ない。
真理とは思考(マインド)が無くなった時に起きることだ。

判断は既知だ。
そして真理は未知だ。
既知がやむ時、未知がやって来る。

まわりに何ひとつ既知のものが無くなった時、未知なるものがそこにある。
人は、思考(マインド)と一緒には、決して到達できない。
それこそが、ただひとつ放棄しなければならないものだ……
思考(マインド)、 判断、
キリスト教徒であること、ヒンドゥー教徒であること、
ギータ、バイブル、コーランだけは。
知識を持って行くことはできない。

真理を求めることはない

以下の osho の言葉は、自己探求を続ける自分に対して、ガツンという一撃
のように響きました。

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‘この空なる世界に現われる見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。
真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。’

これはひとつのビージャ・マントラだ。
実に、実に深いメッセージだ。
真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。
あなた方にどうやって、真理を捜すことができよう。
あなたが真実ではないのだ。
そのあなたに、どうやって〈神性なるもの〉を捜しに行くことができる。
どうやって、捜すのかね、何をするというのか。

せいぜい、あなたの思考(マインド)がまやかしを演ずることになるだけだ。
せいぜい、「真理」を投影することになるだけだ。
だが、真理はヒンドゥー教でもなければ、キリスト教でもない。
真理はクリシュナでもなければ、キリストでもない。
それらは形態、衣に過ぎない。

そしてもし、未だにその衣が自分の所にやって来ているのだとすれば、
それは、その人が キリスト教とか、
ヒンドゥー教という自分の意見でいっぱいだということ、
自分を投影しているということだ。

僧?(ソウサン)は「真理を求めることはない」と、言う。
あなたには捜せない。
どうやって捜せる。
あなたには用意ができていない。
思考(マインド)があるからだ。

誰が捜すのか。
探求とはすべて思考(マインド)のものだ。
あらゆる探索は思考(マインド)からやって来る。

意識は決して求めない、決して捜さない。
意識はただあるだけだ。
それは存在だ、欲望ではない。
探索は欲望だ。

あなたはこの世で富を、権力を、 地位を捜し求め失敗した。
今度は神を、真理を求めている。
しかし自分は同じままだ。
何ひとつ変わっていない。
ただ言葉が変わっただけだ。
以前は権力だったが、今は神だ。
しかし、 あなたは同じ探求者のままだ。

真理は捜せない。
逆に、あらゆる探求がやんだ時、真理があなたの扉を叩く。
探求者が、もういなくなった時、真理があなたの所にやって来る。