真理を求めることはない その3

昨日に引き続き、また osho の言葉です。

*————————————————————-*

私は、意識はまさに鏡のようなものだと、あなた方に言った。
前に来たものが何でも、何の偏見もなく映し出される。
鏡は、
「この女性は美しい。
私はこの人を映したい」
とか、
「あの女性は嫌だ。
あの人は映さないことにしよう。
あの人は醜い」
とは言わない。
いや、鏡に判断はない。
鏡はただ映すだけだ。
それが鏡の本性だ。

だが、一方には写真の感光板と言うのがあって、これもまた映す。
しかし、それはたった一度しか映さない。
その後は、その像に執着する。
カメラの後ろに隠れている感光板も映すが、一度だけだ。
思考(マインド)はまさに感光板に似ている。
それは映してから、その映像を捨てきれない。
そこで、死んだ映像を運ぶ。
いつも死んだ映像を持ち運ぶことになるのだ。

鏡は、映して、また空っぽになる。
再び、受け入れる用意ができている。
鏡は常に新鮮に受け入れる。
決して執着しないからだ。
鏡にはどんな判断もない。

思考(マインド)にあるのは、判断、判断、判断ばかりだ。
そして、この判断の厚い壁のために、人は決して真理に到達できない。

真理はある。
それは理論ではなく、実在だ。
それは経験されなければならない。
それについて考えることはできない。
それについて哲学的に思索することはできない。

倫理を立てれば立てるほど、見逃すことになる。
時には罪人が一瞥を得ることはあるだろうが、哲学博士だけは無理だ。

僧?(ソウサン)は言う。
‘真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です