真理を求めることはない その2

昨日の osho の言葉の続きです。

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あらゆる欲望が止まり、どこへ行こうという動機もなくなった時、
突然、人は光に満たされている自分に気がつく。

突然、自分こそがこれまで求めてきた、
まさにその寺院であることを見い出だすのだ。
突然、人は自分がクリシュナであること、自分がイエスであることを理解する。
どんな光景も来はしない。
自分こそすべての源泉、自分こそが実在そのものだ。

‘真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。’

意見を持ってはいけない……
キリスト教、ヒンドゥー教、回教、ジャイナ教……意見を持ってはならない。
経典を持ち運んではならない。
そうでないと、知識の人にはなるかも知れないが、
決して賢人になることはない。
多くの知識と情報でいっぱいにはなるかも知れないが、
すべては死んだ借り物でしかないだろう。
意見は真理ではない。
そうでは あり得ない。

意見は思考(マインド)から来るものだ。
真理は思考(マインド)からは来ない。
真理とは思考(マインド)が無くなった時に起きることだ。

判断は既知だ。
そして真理は未知だ。
既知がやむ時、未知がやって来る。

まわりに何ひとつ既知のものが無くなった時、未知なるものがそこにある。
人は、思考(マインド)と一緒には、決して到達できない。
それこそが、ただひとつ放棄しなければならないものだ……
思考(マインド)、 判断、
キリスト教徒であること、ヒンドゥー教徒であること、
ギータ、バイブル、コーランだけは。
知識を持って行くことはできない。

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