そもそもモノには実体も中心もない

その昔、プログラミングの仕事をしていた頃、オブジェクト指向言語というのを使ってプログラムを書いていたことがありました。

その時には、なんとも思わなかったことが、今ならなるほどねと分かることがあるのです。それは、最初にオブジェクトを定義する時には、そのガワだけを作るのです。

つまり、空っぽで型だけが決まっているオブジェクトクラスというものを定義するのです。そして、その後個々のオブジェクトインスタンスをその型に合わせて作るのです。

インスタンスは、この世的に表現するなら実体を持ったオブジェクトということになります。でもその実体には我々が想像するような中心はないのです。

あるのは仮想的な空っぽの入れ物だけ。あとはそれに実際の属性値を入れて行ったり、関数という機能を持たせたりするのです。

本当はこの時に気づけばよかったのかもしれません。この世界そのものの姿を表していたんだと。

この世界においても、モノの中心はないし、色や形や機能などを外して行ったら、そこに残るものは何もないということ。

これがモノはないということです。その実体もなければ、中心もないということです。これが、我々が作っている幻想に気づくきっかけになればいいなと。

ステレオグラムから気づくこと

だいぶ前に流行ったステレオグラムというのがありますね。目の緊張を緩めて見ているうちに、立体的なものが浮かび上がってくるアレです。

私のFacebookには、今でも時々それが上がってきてくれるので、気付いた時にはやって楽しんでいます。

ただの模様しかなかったものが、突然のように何らかの形が浮かび上がって、しかも立体的に奥行きを持って見えてくるのが面白いのです。

二元の世界では、人間は二つの目を持っているので、脳がその二つの情報を元にしてものを立体的に見ることができるのです。

でも、どれほど立体的に見えたとしてもパソコンやスマホなどの二次元の画像なので、それは立体ではないことを承知しています。

つまり、私たちは二次元の画像でありながら、三次元(立体)のものを見ているように感じることができるわけです。

ステレオグラムを使わずとも、私たちは二つの目があることでこの世界を奥行きのある立体として感じているのです。

だからと言って、ここに見えている世界が立体であるということにはならないということ。あくまで立体的に見えているという体験があるだけ。

この正直さがそのまま非二元へと繋がるのです。どのような体験が起きたとしても、ただそれがあるだけなのです。

視覚とは、何かを見ているのではなく、ただ見えるという体験が起きているだけなのですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

単なるコレがあるだけ

何でもないふとした瞬間に、ああ自分がこの身体の内側にいるなんてことは、あるはずがないと明確になることがあります。

そんなバカな話があるわけがないという、すごくはっきりとした感覚ですね。身体の内側というのをイメージした時の違和感というのか。

そんな場所に閉じ込められてるはずがないと。でもまたすぐその後に、頭の中心から外の世界を見ている感覚が戻ってきます。

そんなせめぎ合いがこれまで何度も起こってきました。それでも少しずつですが、身体の内側にはいないという感覚の方が優勢になってきているなと。

身体の内側にいないということは、そのままどこにもいないという感覚に移行するのです。場所がないということ。

その場合の自分というのは、何かの存在というよりもただそのことに気付いていると言った方が妥当な感じがします。

何かでも誰かでもない、ただそう在るだけ。いつでもあるのはただコレだけ。どのようにも表現することのできない、単なるコレ。

真実は元々剥き出しになっている

子供の頃から不思議なことにはとても興味を持っていました。テレビでは、UFOとか宇宙人の特集をやっていたり、あるいは超能力者やマジックの番組などもよく見ていました。

たとえば、なぜマジック(手品)は不思議に思えるのかと言えば、それは通常想定されることから外れた結果が見れるからですね。

絶対にあり得ないと思っているようなことが起こってみたりするわけです。何もないところから鳩が出てきたり。

でも必ずマジックにはタネがあるのです。そのタネを使って、一般的に想定されている見方を覆すようにするわけです。

要するに、「常識的な想定」と言うものが必ず必要になると言うことです。たとえばそうしたものを持っていない赤ちゃんに何を見せたところで、不思議がることもありません。

つまり、私たちは自らは気づかずにどれほどの思い込み、想定をしつつ生活をしているかと言うことです。

こうした想定は、驚くべきことに赤ちゃんといえども、あっという間に身につけてしまうのです。以前そうした実験をしているのを見たことがあります。

その実験は、赤ちゃんがこの世界には重力があることを想定していることを証明するものでした。私たちが、人生のごく初期に作る想定は、向こう側に見たままの世界があるというものです。

その次に、こちら側には自分がいるという想定ですが、これは数年後に作り出すものです。自分が作ってきた想定を一旦脇に置いて、全てをそのままに体験できれば、真実が元々剥き出しになっていたと気づくことになるのですね。

疑うことで真実と出会うことができる

「信じる」ということについて、二つの場合があると言うお話です。私は◯◯を信じていると言う時、自覚があると言うことを意味します。

私は神様がいると信じているとか、あなたが裏切らないと信じていると言った場合です。なんだか、少し願望が入り混じっている感じもしますね。

そして、もう一つは自覚がなくて信じてしまっている場合があるのです。それは、自覚がないのでそれを事実だと思っているのです。

私は一人の人間として生きている、私は日本人だ、私は女性だ。誰もがこう言ったことは事実だと思って疑ったことがありません。

一番根っこにある信じ込みは、この世界はこのようにあると言うこと、そして私と言う個人は存在していると言うこと。

この二つが二元の世界をでっちあげているのです。自覚がないので、そこを疑うと言うことができないのです。

だから、疑ってみると言うことがどれほど大切なことか。疑うというと、なんだかネガティブな印象を持ってしまいますが、そうではないのです。

疑うことでしか、信じていることに気づくことができないからです。事実ではなかった、ただ信じていただけだと気づいた時、人は何か大きな変化を体験することになるのですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

非二元では嘘はない

人は時として嘘をつきます。その理由は意外と簡単で、本当のことを言ってしまったら、自分を守ることができないと感じるからです。

場合によっては、本当のことを言ったら、相手を傷つけることになるからということもあるでしょうけれど、それも全く同じように究極的には自分を守るのが目的です。

相手を傷つけることになったら、自分が罪悪感で苦しむので、そこから自分を守るために嘘をつくわけです。

たまたま見ていたYouTube動画で、不倫をした人が家族から真偽の程を責められて、嘘を言い続けるという場面を見たのです。

どう考えても、すぐに嘘だとバレるような幼稚な嘘を連発してしまうのを見て、人間というのは追い詰められると急に子供に戻ってしまうのだなと。

理性的な大人だったら、決してつかないような嘘を言ってしまうのには理由があるのだろうなと思うのです。

追い詰められて自分の立場が危険な状態になると、理性がすっ飛んでしまって幼い馬鹿馬鹿しい嘘をでっち上げるのです。

大人が見るとほとんどジョークのような言葉を発したりするのです。ということは、何か子供っぽいことを言い出したなと思ったら、即嘘を言っているとして間違いないということ。

不思議な感じがするかもしれませんが、非二元の立場では嘘というのは存在しません。なぜなら、どんな言葉であれそういう現れが現れているだけだからですね。