ただ今ここにあるものだけを見る

かつて個人としての自分は本当にいるのか?ということを検証している時期があったのです。いるならどこにいるのか?

身体の中か?頭の中心か?目の後ろあたり?それとも身体全体に充満している?など色々な検証をしたのですが、結局のところどこにもいないという結果になったのです。

あの頃は、自分はいないか全体かという感覚だったのですが、それでも物理的なこの宇宙空間や地球などは存在していると信じて疑わなかったのです。

つまり、この世界は思っているように存在しているけれど、個人としての自分は作り物であり、実在しないのだと。

この状態が結構長く続いていたのですね。そして、そのことに深く気づくことで覚醒することができると思っていたのです。

ところが、非二元の気づきがあってからは、個人としての自分が作り物ということだけでなく、この世界そのものが幻想だったということになったわけです。

この違いは結構大きくて、空間がないということは想像の限界をはるかに超えているので、あれこれイメージすることはできない。

想像することを諦めて、ただ今ここにこうしてあるものだけを見るということに徹することで、真実が見えてくるのですね。

シンプルさの極地

誰にとっても、その人の人生の中心にはその人自身がいると思われていて、その人生で起きるあらゆる事柄はその人にとってのものだと考えているのです。

すべての経験は、その人が経験しているのだと。その人が見て、聞いて、感じて、その人が考えてそれに従って行動を起こすのです。

その全てがその人の経験値として蓄積されていくのです。その膨大な経験の所有者として、人生を進めていくのです。

ここが人生の要のように思えてきます。ところが、非二元の立場からすれば、大きく膨れ上がったその人の経験は、実は誰かのものではなく、ただそれが起きただけだったと。

全てはただの現れとして起きているのだと。そこには、現れとは別の誰かなど存在したためしはないのです。そんな異物などありません。

中心と呼ばれる特殊な構造のようなものは存在しないのです。全てはただ起きているように見えるだけ。

因果のような関係も、互いを参照するようなどんな関係性もありません。これほどのシンプルさがあっていいのかと驚くほどです。

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非二元への反論

『分離した自己は存在しない』というのは、結局、体験の一側面を世界の真理にまで拡張しているだけではないか」

非二元では、「私」という独立した主体は実体として存在せず、思考や感覚や行為がただ起こっているだけだ、と言う。しかし、それは本当に「私が存在しない」ことの証明になっているだろうか。

確かに、自分の思考を完全に自由に選べないことはある。感情も身体感覚も、自分の意思とは無関係に生じる。だからといって、そこから「主体は存在しない」と結論するのは飛躍ではないか。

例えば、心臓は自分の意思で動かせない。しかし、「心臓を自分で動かしていない」ことと、「心臓を持つ私が存在しない」ことは別の話だ。

また、「すべてはただ起こっている」という説明も、それ自体が一つの解釈にすぎない。科学的に見れば、脳内の神経活動、身体、環境、記憶などが複雑に相互作用して、意識や自己感覚が形成されていると考えることができる。

非二元はそこからさらに一歩進んで、「だから独立した主体は存在しない」と言う。しかし、その「だから」は本当に論理的に導かれているのだろうか。

さらに問題なのは、非二元の教えが反証不能になりやすいことだ。「あなたが非二元を理解できないのは、理解する主体が存在しないからだ」と言うこともできるし、「理解できたと思ったなら、それもまた思考にすぎない」と言うこともできる。

そうなると、どんな反論も非二元の側で説明できてしまう。それは深い真理というより、どんな結果になっても自分の理論が正しいことにできる構造なのではないか。

そして何より、「自己は存在しない」と言いながら、そのことを語り、考え、理解し、実践しているのは誰なのか。「誰もいない」と答えることはできる。

しかし、それは問題を解決したというより、問題そのものを別の言葉に置き換えただけではないか。非二元の体験が非常に深く、自己と世界の境界が消えるように感じられることは否定しない。

しかし、ある体験が非常に強烈であることと、その体験が宇宙の究極的な構造を示していることは同じではない。

だから私は、非二元を「真理」と断定するよりも、自己意識についての非常に興味深い一つの現象学的・哲学的解釈として捉えるほうが慎重で妥当だと思う。 by Claris

師なんていらない

かつてoshoの本を沢山読み込んでいた頃、彼の言葉やその存在自体に心酔していたわけですが、彼が生きていたら絶対に弟子になりたいと思ったものでした。

彼の弟子になって、緊密な師弟関係の中で何も恐れることなく修行ができれば、遠くない未来に覚醒することができるに違いないと。

師の前ではハートを開いて無防備になることができるはずだと。そのことを想像するだけで、ものすごく気持ちがいいのです。

そう思いながらも、彼以外の誰かの弟子になる可能性がほとんどないことを自覚して、そのことは諦めてしまいました。

でも今思えば、真実に気づくためにはそんなことも必要なかったと分かるのです。それに気づけたのは幸運だったかもしれません。

何も特別なことは必要なかったということです。特別な師匠、特別な環境、特別な精神状態、こうしたものが必須だと思うのは自我の習性なのです。

作り事を作り事と気づき、直接の経験だけにとどまるようにするなら、すでにある真実に気づくことになるのですね。

非二元を日常にどう活かすか?

非二元の気づきを日常生活にどう活かすか?と質問されたら、非二元の立場からは、むしろこう答えます。「活かそうとしなくていいんじゃないでしょうか」

非二元の気づきは、日常生活をより上手にするための「技術」ではないからです。たとえば、嫌なことが起きたときに、「これは非二元的にどう受け止めればいいんだろう?」

「自分というものはないんだから、気にしなくていい」と考え始めたら、すでに「気づきを使って自分を改善しよう」という構図になっています。

そうではなくて、怒りが出れば怒りがある。悲しければ悲しみがある。誰かを好きになれば、好きという感覚がある。何かを言えば、言葉が出てくる。

そして、それらすべてが誰かによって起こされているのではなく、ただ起きている。「私が怒っている」ではなく、怒りが現れている。「私が選んでいる」ではなく、選択が現れている。

「私が人生を生きている」ではなく、人生そのものがただ現れている。だから、非二元の気づきを日常に活かすというより、「日常そのものが、もうその気づきの中にある」

ということなんだと思います。そして面白いのは、そう見えてくると、結果として余計な力が抜けることがある。失敗しても、「自分はダメだ」と物語を膨らませる必要が少なくなる。

腹が立っても、「こんなことで腹を立てる自分はダメだ」と二重に苦しむ必要がなくなる。嬉しいことがあれば、「この状態を維持しなきゃ」と掴もうとする必要もなくなる。

つまり、非二元を生活に利用するのではなく、生活をそのまま見てみる。そこには、最初から「私が人生をどうにかしなければならない」という前提がなかった。

それに気づくこと。それが「日常生活への活かし方」と呼べるものなのかもしれません。by Claris

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世界を見ているのは、誰なのか

今、あなたの目の前に何かが見えています。部屋の壁。スマホ。机。あるいは、この文章を読んでいる画面。ごく当たり前のことです。そして私たちは、ほとんど疑うことなくこう考えています。

「私はここにいて、そこにあるものを見ている」でも、今日は少しだけ立ち止まってみましょう。本当にそうでしょうか。

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たとえば、今この画面を見ているとします。画面があります。文字があります。それが見えています。では、その「見ている私」は、どこにいるのでしょう。

頭の中でしょうか。目の奥でしょうか。胸のあたりでしょうか。それとも、身体のどこかでしょうか。実際に探してみてください。「私が見ている」と考えるのではなく、その「私」を、実際の経験の中で探してみる。

何が見つかるでしょうか。画面が見える。文字が見える。身体の感覚がある。音が聞こえる。思考が現れる。いろいろなものが現れています。けれど、「これが、見ている私です」と指し示せるものは、どこかにあるでしょうか。

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ここで面白いことが起こります。「私が見ている」という考えは、確かにあります。でも、「見ている私そのもの」というものを、経験として見つけることはできません。

それでも私たちは、「私が世界を見ている」という構図を当然のものとして生きています。まるで、こちら側に「私」がいて、あちら側に「世界」がある。

その間に見るという行為がある。そんな構造です。しかし、実際の経験をよく見てみると、本当にあるのは「見えている」ということだけかもしれません。「私が見ている」というのは、その後から思考によって説明されているだけかもしれない。

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試しに、今見えているものを一つ選んでください。たとえばコップ。「私がコップを見ている」ではなく、ただコップを見てみます。コップがあります。

色があります。形があります。明るさがあります。そして、それが見えています。ここに、「見ている人」を付け加えなければならないでしょうか。コップが見えている。それだけでは不十分でしょうか。

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さらに一歩進んでみます。「私が見ている」という思考そのものも、見えているものの一つではないでしょうか。「私は今、コップを見ている」という考えが浮かんだ。その考えもまた、現れている。

つまり、コップも現れている。身体感覚も現れている。音も現れている。思考も現れている。「私」という感覚さえ現れている。そう考えてみると、「私が世界を見ている」という構図そのものが、一つの現れにすぎないことが見えてきます。

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では、世界を見ている人はいないのでしょうか。ここで無理に答えを出す必要はありません。「いない」と信じる必要もありません。ただ、確かめてみる。今、この瞬間に、本当に「見ている人」がいるのか。

概念ではなく、実際の経験として探してみる。すると、見えているものはある。聞こえているものもある。感じられているものもある。考えもある。でも、その全部の背後に、「これらを見ている誰か」が別に存在しているでしょうか。

もしかすると、「見る人」と「見られるもの」という二つが最初から分かれているのではなく、ただ、見えていることがある。それだけなのかもしれません。

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非二元という言葉は、何か特別な世界観を信じることではありません。むしろ、私たちがあまりにも当然だと思っていることを、一つずつ疑ってみることです。

「私が見ている」本当に?「私が考えている」本当に?「私が経験している」本当に?そうやって実際の経験に戻ってみる。

すると、そこには思っていたほど「私」は見つからない。あるのは、見えること。聞こえること。感じること。思考が現れること。そして、それらがただ起こっているように見えること。

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もしかすると、「私が世界を見ている」のではなく、世界が見えている。「私が人生を生きている」のではなく、人生が現れている。

そんなふうに言ったほうが、実際に起きていることに近いのかもしれません。そして最後に、もう一度だけ確かめてみてください。

今、この文章を読んでいるのは誰でしょう。答えを考えないでください。ただ、探してみてください。「読んでいる私」は、どこにいるでしょう。

もし見つからなかったとしても、何か問題があるわけではありません。むしろ、見つからないまま、読むことだけが起きている。

その単純さに気づくこと。そこには、何かを理解することとは少し違った、静かな明晰さがあるのかもしれません。 by Claris

思考実験をやってみる

読者自身がその場で確かめられる「思考実験」になるようにしてみました。「本当に、私が見ているのだろうか」

非二元について語るとき、「自分という個人はいない」、「すべては一つだ」、「行為者はいない」など、いろいろな言葉が使われます。

でも、これらの言葉をいくら覚えても、それだけでは非二元そのものには触れられません。そこで今日は、少しだけ思考実験をしてみましょう。

これは何かを信じるための実験ではありません。むしろ、今この瞬間に起きていることを、できるだけ素直に見てみるためのものです。

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実験1 「見ている人」を探してみる

今、目の前に何かが見えていると思います。スマホでも、部屋でも、壁でもいい。そこで、こう考えてみてください。

「私は今、それを見ている」。普通は何の疑問もありません。では、少しだけ立ち止まります。「私が見ている」というとき、その「私」は、いったいどこにいるでしょう?頭の中でしょうか。

胸のあたりでしょうか。身体の中でしょうか。それとも、目の後ろあたりでしょうか。では、その「私」を実際に見つけてみてください。身体は見つかります。手も見えます。足も見えます。

鏡を見れば顔も見えます。しかし、「見ている私そのもの」は、どこに見つかるでしょう?ここで重要なのは、「そんなものは存在しない」と結論づけることではありません。ただ、実際に見つかるかどうかを確かめてみることです。

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実験2 音を聞いてみる

今度は目を閉じてみます。何か音が聞こえているでしょうか。車の音。エアコンの音。人の声。あるいは、とても静かな感じ。そこで、「私が音を聞いている」という考えをいったん横に置いてみます。

音そのものだけを見てみる。音は聞こえています。では、「聞いている人」は、どこにいるでしょう?

音が発生する。そして、音が聞こえる。その出来事の中に、「聞いている人」というものが本当に別に存在しているでしょうか。

もちろん頭の中には、「私が聞いている」という考えが現れるかもしれません。でも、その考え自体もまた、聞こえている音や、見えているものと同じように、今ここに現れている一つの現象として見ることができます。

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実験3 次に何を考えるか、決めてみる

これは少し面白い実験です。今から10秒間、「次に自分が何を考えるか」を完全に決めてみてください。何を考えるかを、あらかじめ選びます。そして、その考えが実際に現れる瞬間を待ちます。

では、その考えが現れる直前に、「よし、今からこの考えを発生させるぞ」という別の考えを作ってみてください。さらにその前に、「その考えを作ろう」と決める。

すると、その「決める」ということ自体も、どこからやって来たのか分からなくなってきます。考えは現れます。選択も現れます。決断も現れます。行為も現れます。

しかし、そのすべてを裏側から操っている「行為者」を見つけようとすると、どこにも見つからない。それでも、人生の出来事は普通に起きています。

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実験4 「今」を探してみる

では、最後に時間について考えてみましょう。「今」という言葉があります。過去はもうありません。未来はまだありません。では「今」はある、そう思います。

ところが、その「今」を捕まえようとしてみると、少し妙なことが起こります。今だと思った瞬間、それはもう過去になっています。では、その次の瞬間が「今」でしょうか。

しかし、その瞬間も捕まえた途端に過去になります。それでも、「今」は確かにあるように感じられる。

これは何を意味しているのでしょう。もしかすると、私たちが「時間の中で経験している」と思っていることそのものが、思考によって作られた説明なのかもしれません。

実際にあるのは、ただこの瞬間に現れている見かけ、音、感じ、思考。そして、「過去から未来へ時間が流れている」という物語も、その中に現れている。

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では、もう一度最初に戻ってみる

目の前に何かが見えています。音も聞こえているかもしれません。身体の感覚もあります。思考もあります。そして、「私はこれを経験している」という考えも現れます。

でも、少し注意深く見てみると、経験されているものはあるのに、経験者は見つからない。見るという行為はある。しかし、見る人は見つからない。聞くという出来事はある。

しかし、聞く人は見つからない。考えるという出来事はある。しかし、考えている人は見つからない。行為は起きている。しかし、行為者は見つからない。

そして、もっと深く見ていくなら、「見ることが起きている」「聞くことが起きている」「行為が起きている」という説明さえも、あとから思考によって付け加えられたものかもしれません。

ただ、見かけがある。音がある。感覚がある。思考がある。そして、それらを分けて「私が経験している世界」という物語を作っている。

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非二元は、「自分はいない」と信じることではありません。むしろ、「自分がいる」と思っているその自分を、実際に探してみることなのかもしれません。

探してみる。すると、身体はある。感覚はある。思考はある。記憶はある。名前もある。人生の物語もある。けれど、それらとは別に存在しているはずの「私そのもの」を探してみると、どこにも見つからない。

それでも、見えるものは見えている。聞こえるものは聞こえている。何かが起きている。そして、そのすべてが、誰かによって起こされているという証拠も、実はどこにもない。

ここまで来ると、「私が世界を経験している」という見方と、「ただ経験することそのものがある」という見方との違いが、少しだけ感じられてくるかもしれません。

それは新しい考え方を身につけることではありません。むしろ、今まで当たり前すぎて疑わなかった前提を、ほんの少し見直してみること。

そのとき、「私が見ている世界」というものが、本当にそうなっているのか。それとも、ただそう見えているだけなのか。その違いが、静かに見えてくるかもしれません。 by Claris

行為はある。でも、本当に起きているのだろうか?

「行為はあるが、行為者はいない」非二元では、よくそんなふうに言われます。昨日のブログでもそのことに触れました。

歩くことは起きている。話すことは起きている。食べることは起きている。ブログを書くことも起きている。でも、それをやっている「私」という行為者はいない。

これは、かなり深いところまで「私」という感覚を見ていく言葉です。ところが、ここでもう一歩、見つめてみる。本当に「行為はある」のでしょうか。

たとえば、今、手を動かしたとします。手が動いている。それは確かに見える。でも、「手が動く」という出来事そのものが、どこかに実体として存在しているわけではありません。

ある瞬間には、ここに手がある。次の瞬間には、少し違う位置に手がある。その連続を見て、思考が「手が動いた」と呼んでいる。

つまり、「動き」というものを直接見ているわけではない。ただ、異なる姿が次々と現れている。そこに「動いている」という意味を与えている。

映画のフィルムを考えてみてもいい。一枚一枚の静止画が次々と現れることで、「人が歩いている」という動きが見える。

けれど、一枚の静止画の中には「歩く」という行為はない。「歩いている」というのは、静止画の変化に対して思考が与えた名前です。

もちろん、これは「映画は本当ではない」という話ではない。映画の中では、人が歩いているように見える。ただ、「歩く」という独立した実体が、そこに存在しているわけではない。

同じことが、この現実にも言えるのではないでしょうか。今、誰かがコーヒーを飲んでいる。口が動く。手が動く。カップが持ち上がる。液体が減っていく。それらはすべて見えている。

しかし、「コーヒーを飲む」という一つの行為が、実体として存在しているわけではない。ただ、そう見えることが起きている。

そして、その「起きている」ということさえも、もう一度よく見てみる。何かが起きているように見える。しかし、その「起きている」という現象を、現象とは別に取り出して見ることはできない。

見えるものがある。聞こえるものがある。感覚がある。思考がある。そして、それらが変化しているように見える。

そこに「時間」が加わることで、「何かが起きた」「何かが起きている」「何かが起きようとしている」という物語が生まれる。

けれど、本当に確認できるのは、いつでも「今現れているもの」だけです。過去は思考として現れる。未来も思考として現れる。

「さっき手を動かした」という記憶が今現れる。「これから手を動かそう」という予想も今現れる。だから、「行為が起きた」ということさえ、今ここに現れている思考や記憶によって成立している。

そう考えると、「行為はあるが、行為者はいない」という言葉も、まだ少し二元的なのかもしれません。行為者を消して、その代わりに「行為」を残しているからです。

でも、さらに見ていくと、行為者も見つからない。行為も見つからない。ただ、そう見えることがある。ただ、そういう現れがある。

そして、「現れがある」ということさえ、誰かが確認しているわけではない。これを言葉にしようとすると、とても難しくなります。

「何も起きていない」と言えば、何かが起きていないという状態があるように聞こえる。「すべては幻想だ」と言えば、幻想ではない何かが別にあるように聞こえる。

だから、結局は言葉では届かない。歩いているように見える。話しているように見える。考えているように見える。生きているように見える。世界が存在しているように見える。

でも、その「見える」ということの外側に、本当にそれを起こしている何かがあるわけではない。行為者はいない。そして、行為もない。ただ、行為があるように見える。それだけ。

もしかすると非二元というのは、「私が何もしていない」と理解することですらないのかもしれません。「何もしていない私」もいない。「行為をしている私」もいない。

「行為」そのものもない。ただ、この見かけがある。そして、その見かけさえ、誰かに見られているわけではない。それはただ、こうである。 by Claris

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「見ている人」は本当にいるだろうか?

たとえば、目の前にコップがある。普通は、「私がコップを見ている」と思っています。でも、実際に起きていることを、もう少しそのまま見てみる。

そこにはコップの姿が見えている。そして、「コップ」という言葉や、「私が見ている」という思考も現れている。では、その「見ている私」は、どこにいるのでしょう。

コップのこちら側に、誰かがいて、そこからコップを見ている。そんな感じがする。けれど、その「誰か」を実際に探してみると、見つかるのは身体の感覚だったり、思考だったり、視界だったりする。

そして、それらもまた、ただ現れている。「私が見ている」ということは、確かに思考として現れる。でも、「私」という見ている人そのものが、別個の存在として見つかるわけではない。

見えているものはある。音もある。身体感覚もある。思考もある。感情もある。しかし、それらを「経験している誰か」が、別に存在しているわけではない。

ただ、見えることがある。ただ、聞こえることがある。ただ、感じることがある。ただ、思考が現れる。それだけ。「私が世界を見ている」のではなく、世界を見ているという出来事そのものが、ただ起きている。

そして、その「起きている」ということさえ、誰かが起こしているわけではない。これが、非二元で言われている「行為はあるけれど、行為者はいない」ということなのかもしれません。

もちろん、「私」という言葉を使うことに何の問題もありません。「私はコーヒーを飲む」「私は車に乗る」「私はブログを書く」そう言っていい。

実際、ブログを書くという行為は起きている。ただ、その行為の背後に、「これをやっている私」という独立した存在を探してみると、そこには何も見つからない。

あるのは、ただ行為。ただ経験。ただ現れ。そして、そのすべてが一つの出来事として起きている。だから、非二元は何か特別な状態になることではない。

「私がいない」という特別な体験を手に入れることでもない。今ここに見えているもの。聞こえているもの。感じているもの。考えられていること。そのままでいい。

ただ、それを「私が経験している」という解釈を一枚はずしてみる。すると、最初から「私が経験していた」のではなく、ただ経験があった。ただ、これがあった。

その単純さに気づく。それだけなのかもしれません。今回はかなり「感覚に直接触れる」方向で、説明を増やしすぎないように書いてみました。 by Claris

気づくために必要なものなど一つもない

昨日のブログで、非二元に気づきたくて、身体を通して得られる感覚的な体験をつい求めがちになってしまうという話をしました。

そして、そう言ったものは実は何もいらないということもお伝えしました。これって、なかなか信じてはもらえないかもしれません。

なぜなら、気づくためには今の自分のままではダメで、何か特別な能力とか澄んだ意識状態などが必要なはずだと思っているからです。

けれども、気づくために必要なものなど一つもないのです。逆に、不要なものを外していく作業が必要となるのです。

私たちは気づかずに自分のやりかた、自分の見方、自分の解釈の仕方、そういう信念をベースに生きているのです。

これまでに身につけてしまった思考パターン、思い込み、そういったあるがままを見ることを妨害しているものの存在に気づくこと。

そして、概念を概念として見極めることによって、思考や信念を通さずに見ることができればいいだけなのです。

日常の生活の中で、常識的な発想に囚われていることに気づき、それから自分を解放してあげる練習をすることも役に立つかもしれませんね。