今更ながらのコーステキストの理解

一昨日の土曜日は、毎月恒例となっているコースの勉強会の日でした。もうすでに40回目を迎えたと思うと、随分と長く続いているなあとやや感慨深いものがあります。

最近では10人集まらないこともあったりして、ちょっと寂しい感じがしないでもないのですが、それでも淡々と続いていくんだなと…。

思えば、2009年の1月から始めた勉強会ですので、あれから3年半が経とうとしています。その間に自分の中で、読み方というか読んでいる自分の反応が何度か変化したのを覚えています。

最近では、少し距離を置いてテキストを読んでいたように思います。それというのも、ワークブックの実践こそが、コースの心臓部だということに気づくようになったからです。

ワークの実践は個人がそれぞれにやっていくしかないものなので、勉強会ではやはりテキストを読んでいくことくらいしかできないのです。

そんな中で、一昨日誰かがテキストを読んでいるのをいつものようにただ聞いていたそのときに、ふと今までとは違った感覚がやってきました。

あれ!?何だか、これまでと違う。何が違うかというと、聞いている自分自身が違っているという表現が一番合っているというのか。

それまでは、私というエゴがコースの内容を理解し、聖霊に委ねることでエゴを弱体化していくのだという内容を聞いていたのです。

それが、気がつくと、どういうわけか、このテキストは神の子に向けて書かれていたものだったのだという当たり前のことに、初めて?気がついたのです。

つまり、その瞬間、聞いていたのは、いつものエゴとしての私ではなくて、神の子としての私だったいう表現をしてもいいのかもしれません。

勿論、エゴはどっしりといつもいるのですが、それでも、ああ神の子に向かって真摯にイエスは語りかけてくれていたんだと、ようやく実感できたということです。

自分の本質に対する信頼がほんの少しだけ、深くなってくれたのかもしれないと思うと、ちょっとだけ嬉しい気がします。他の人が最初から分かっていたことを、実感するのに3年半かかったといえばそれまでですが…。

頭での理解とは、やっぱり違うのですね。そうなると、イエスの言葉の一つひとつに正面から向き合っていなかったことを今更ながら実感しました。

誰の言葉も信じることなかれ

私たちの信念体系というものは、何かを信じることで成り立っています。そして、それを固く固く信じることで、あたかもそれが真実だとして、その上に思考体系が出来上がるのです。

私たちは、自分の思考を信じています。それは例えば自分の正しさというものを信じているということを見れば、すぐにそうだと分かります。

それは生きる拠り所のようなものです。何か、こうだと信じれるものが核としてなければ、不安で仕方なくなってしまうからかもしれません。

自分の思考を信じなくなれば、思考が止まらないなどということは起きなくなります。思考を嫌うのではなく、そのまま信じないという態度です。

もしも、真実を知りたければ、まずは誰のどんな言葉も信じないという態度が必要です。そして、真っ先に自分の思考を信じないとすることです。

自分の正しさを信じなければ、自分や誰かを裁くということが激減するはずです。そして、信じないことから、いい意味での、正当な疑いが発生するのです。

疑ってかかるということは、ともすると否定的な響きがあるように感じますが、疑うことによって相手の言葉をまっすぐに聴くことができるのです。

私のところに来て、私をいとも簡単に信じてしまう人は、概して私の言葉をしっかりと聞いていないということが分かります。

コイツの言うことは疑わしいけれど、それなら自分で体験して検証することだという意識になっていただきたいのです。

信じるとは、信じないことと瓜二つです。それは、相手の言動に対しての自分の信念体系から来る偽りの状態です。

それに対して、信頼は相手の存在に対する気持ちであって、信じることとはまったく別のものだと理解することです。

自分の思考も、誰の言葉も決して信じてはいけません。エゴはエゴ自身を信じさせることによって、苦悩を生み出させてきたのですから。

本当は、信じないということが大切だと言いたかったのではなく、自分が信じているということに気づくことこそが大切なことなのです。目指すは、信じるか信じないか、ということからの脱却です。

乳幼児のような感覚を持った大人になる

かつて、ほんのかすかにしか記憶の残っていない乳幼児のころは、きっと自分の大きさが分かりませんでした。というよりも、私はいませんでした。

それが、2~3歳くらいになると、自分の小ささをもうすでに知るようになったと思います。自分独りでは何もできないということも感じていました。

何よりも、自分の行動範囲は小さな家の中に限られていて、家の外の景色や通る人のことを縁側からじっと見ていたことを覚えています。

安全な家の中から見ているので、特別外が怖いということはなかったのですが、もしも近くのお店にひとりで買い物に行けと言われたら、恐怖だったでしょうね。

自分がこの世界のどこにいるのかという考えも持っていませんでした。それが、しばらくすると急激に知識を獲得しだすのです。

幼い頃に、地球の裏側で暮らしている人たちが、自分とは逆さまな状態にいるということを知って、ものすごく興味を覚えたのです。

そうやって、自分の小ささから始まって、自分のいる位置というものを把握できるようになっていったわけです。

けれども、今になって耳を澄ますという瞑想をしていると、自分の大きさ(小ささ)が曖昧になるだけではなくて、自分の位置というものが分からなくなっていきます。

上下前後左右というものが全く分からなくなっていくのです。それは、あたかもあの記憶が曖昧である乳幼児の頃の感覚と似ています。

おまけに、自分は何も分からないし、何も知らない、という状態まで似てきます。ということは、な~んだ今まで成長するごとに身につけてきたことは、真理に耳を澄ますとたちどころに消えていってしまうものだったんだということです。

それはつまり、獲得してきた知識など、自分が信じて頼りにしてきたあらゆるものは、真理とは共存することができない類のものばかりなのだということです。

ところがまだその先がありそうです。というのは、自分の大きさや方向感覚などが分からないという感覚を持ちながらも、この世界にしっかりいて活躍することもできるからです。

共存しないモノ同士なはずなのに、その両方の感覚を同時に見ていることもできるということです。自分はこれだけ分かっているというパワーは確かに減るのですが、仕事は続けていけるということです。

仮面の告白

私たちは、自分が仮面を被っていると思うのではなくて、仮面そのものを自分自身だと思い込んでしまっていることにまず気づく必要があります。

この両者の違いはとてつもなく大きいです。この勘違いに気づかないからこそ、自分で仮面をはずすことができるというトンチンカンな思い込みをしてしまうのですね。

仮面自体が仮面をはずすなどということは不可能なことです。この私とは、仮面をかぶっている主体なんかではなくて、仮面そのものだったと認めることです。

もしも本当の自己が、仮面をかぶっていることに気づいて、その仮面を投げ捨てたとしたら、その仮面はどうなるでしょうか?

それは簡単です。脱ぎ捨てられた仮面は、そのまま地面に落ちたまま仮面のままであり続けるでしょう。

ただし、仮面を自分だと思い込むという一種の催眠状態からは脱してしまうことになるはずです。

つまり、催眠から解けた自己が、仮面の寿命が尽き果てるまではそれを観続けることになるということです。

本当の自己が仮面を脱ぐこと、これがいわゆる覚醒ってやつだと思えばいいのです。言葉で表現すれば、「私が」覚醒するのではなく、「私から」覚醒するということになります。

覚醒した後も、仮面はそのまま残ります。これが、覚醒した賢者の姿であるわけですね。催眠から解けるということは、仮面という姿はあるけれど、私という認識は消えるということです。

一体いつこの忌まわしい催眠から覚醒することになるのでしょうか?それは、仮面である私が考えるようなことではないということです。仮面に罪はありません、所詮仮面ですから。

観ることと一つになる

私たちは誰もが、丸裸で生まれてきます。何かを持って、手に携えて生まれてくることはできませんね。誰もが無一文でやってくるのです。

だからこそ、成長するにつれて、自分の力で足りないものを手に入れようと奮闘努力するようになるのです。お金にしても、善い評価にしても、車や家や地位や、知識、能力、そして家族だって手に入れるものです。

そして運良く望むものを手に入れられた人だけが、残念ながら恒久的な満足だけは手に入れられなかったということを知るのです。

手に入れられるものといえば、一過性の満足だけであったと気づくことになり、また次の満足を求めて手に入れる努力を続けていくことになるわけです。

そして「はた」と気づくのです。一過性のものをいくら追い求めたところで、結果はもう分かってしまっている。これはとても虚しい繰り返しだと。

それだけではなく、年齢を重ねるにつれて、人生で手に入れたものさえ死ぬことによってすべてが奪われてしまうことになる、その残酷な時期が迫ってくるのです。

そこで、とうとう永遠不滅な何かを求めようという気持ちがやってきます。その最たるものが覚醒なのです。真に覚醒した人だけが永遠の心の平和を得て、至福を手に入れられると錯覚するのです。

そしてまた今までと同じ、手に入れようとする奮闘努力が開始されます。結局、求めるものの趣が変化しただけで、この強烈な「足りないものを手に入れようとする」洗脳が手付かずのまま残っているのです。

この洗脳はそう簡単に取れそうにありませんし、取る必要もないのです。それよりも、覚醒だけは手に入れるということができないと理解すること。

なぜなら、ないものは手に入れることができますが、すでに在るものを手に入れることはできないからです。

真理への探求とはとてもシンプルなものなんですね。手に入れようとするのではなく、ただじっと観ること、ただ深く深く観ること。捜す必要さえない。

それはいずれ、観る主体と観られる対象がなくなり、観ることそれ自体に一つにまとまるのです。そこには覚醒した誰かはいないのです。

ネガティブさをさらけ出す

元々、決して健康体ではないという自覚があるのですが、最近、身体の調子がいいのか悪いのか、どっちなのかイマイチ分からないような状態になっています。

ある面では、気持ちがとても清々しい感じがすることがあるので、それにつれて身体も具合がいいと錯覚するだけなのかもしれません。

実際に体調がイマイチだと感じるときには、首や肩の痛み、腰痛、腹痛、目、歯、喉、その他もろもろ、何かしら具合が悪いのです。

でも、誰かと一緒にいるときには、意外と元気にしていられます。自分では、無理しているという自覚はないのですが…。

人って意外と、自分の具合の悪さを表現しないものかもしれませんね。いつもニコニコしていて、あの人は健康なんだろうなと思っていたのに、じっくり話し込んでみたら、あれこれ不調を訴えてきたという経験て、ないですか?

私は結構あります。当人は別に普段、わざと隠しているというつもりはないのでしょうけれど、他人に対して具合の悪さをそのまま出す人のほうが少ないのかもしれませんね。

それは、話題として相手を否定的な気持ちにさせてしまわないようにとの気遣いからなのか、あるいは自分のネガティブな部分を見せたくないということなのか。

私自身も、例えば初めて会った人の前で、あまり具合が悪いという話をしようとはしない傾向を持っています。

何だか、相手に失礼な感じがしてしまうのかもしれないですね。実際、身体も心もすごく健康だと誇れる人は少ないのかもしれません。

健康かどうかだけでなく、何か悩みを抱えているといったネガティブなことも、人はあまり話そうとはしないものですね。

見下されたくない、惨めだと思われたくない、可哀想だといわれたくない、こういう気持ちも結構あるのかもしれません。

人は自分を守りたいばっかりに、他人のことを否定的に見れるネタを探そうとする傾向がありますね。けれども、他人の不幸に本当には興味を持ち続けることはしないものです。

だから、構うことはありません。何でも言って楽になってしまうことだと思います。所詮、身体だって思考だって感情だって、どれも本当の自分ではないのですから。

シナリオ通りの自己探求

自分の中にマイナーなものを好む傾向というのがあります。つまり、体制側ではなく、どちらかといえば反逆児的な要素に興味が向いているということです。

それはもしかしたら、幼い頃にもうすでに出来上がっていたかもしれません。というのも、大人を小ばかにするようなところが多々あったからです。

両親や学校の先生など、身の回りにいる大人たちに対して、彼らが主張する正しさや価値観などに、異を唱えていたように思うのです。

表面上は優等生的な子供だったので、あまり大人や先生たちから嫌われるようなことはなかったのですが、心の中で物知り顔をした大人を見下していたんですね。

それが成長するに連れて、いわゆる反体制という生き方、考え方へと発展していったことは間違いありません。

そのくせ、つつがないごく平凡な人生を目指していたところは、どこかにまだ優等生的ないやらしさが残っていたということです。

セラピストになったのも、もしかしたらそういうところが原動力となっているのかもしれないと思っています。ヒプノセラピストなどという、いかにも怪しい反社会的?な仕事ですから。

いまだに多くの人からすれば、どこかの怪しい宗教と同じように見られていることもあるでしょうし、結局病気になったらお医者さんに助けを求めるわけですし。

精神的な反逆児というのは、とにかく何かにつけ文句を言いたい精神性なわけです。だからこそ、本当は我々は人間なんかじゃないなどということを聞けば、飛びつくことになるのです。

それが、もしかしたら本当の自己探求の原動力なのかもしれません。少数派であることを善しとする気質には、ちょうどいい題材だと言えるのです。

だから、誰もが覚醒していく時代と言われれば、確かにワクワクもするのですが、実際に本当にそうなったとしたら、自分が目指している道が途端に色褪せて感じられるのかもしれません。

というわけで、今日はできるだけ自分の否定的な部分をえぐって見ました。でも大したことはなかったようです。

原動力がどうであろうと、この人生において自分が自己探求をするということは、ただシナリオに沿って起きているだけですから。

八方塞がり感を観る

そもそも自己探求を始めた理由とは何だったんだっけ?という声が聞こえるようです。それは、勿論真実を知りたいという欲求だったはず。

それと、ホンモノの自由というものを知りたいということでした。けれども、残念なことに探求が進むごとに、その両方とも不可能だとわかったのです。

不可能というのは、この自分にとっては不可能だということです。なぜなら、自己探求の邪魔をしているたった一人の張本人は自分だったからです。

そのことが頭の理解だけでなくて、感覚でやってきてしまったので、何だか今までのような探求のエネルギーが萎んでしまいそうです。

後は何と言うか、それが方向付けられてしまったので、惰性を利用してこのまま探求し続けるという感じになっていくのかもしれません。

ワクワク感はまるで消えうせた感があります。でもほかには、全く持って何の興味も最初から持ってなかったし。

本当に覚醒しても、幸せになることはない。それは、幸不幸がなくなるということ。幸不幸を感じる自分がいなくなってしまうからですね。

かといって、いいことばかりが起きて、悪いことが起きなくなるなどという都合のいいことも決してないわけで。

生きていることにまだ未練が残っているとしたら、探求することがあったからなのですが、探求する本人がいなくならなければ探求は終わらないし。

意外と八方塞がりな感じがしないでもありません。この八方塞がり感をゆっくりと時間をかけて、観ることにでもしてみたいと思います。

すべてはプログラミング通りに処理されるだけ

昨日の土曜日は、二回目になるアウェイクニング・ワークショップの日でした。4時間弱くらいの時間でしたが、お伝えした内容が参加されたみなさんにどのような印象を持たれることになったのか、分かりません。

というのも、一回目もそうでしたら、とてもエゴにとっては抵抗を感じる内容だからです。はっきりと抵抗感があると伝えてくださった方もいらっしゃいました。

それは当然のことだと思いますし、もしも何も抵抗がないとしたら、それが小さいかあるいはどこかに隠し持っているということかもしれません。

このワークショップをやって、一つ確実に言えることは、ものすごく自分のためになっているということです。

独りよがりの典型かもしれませんが、普段自分が頭で理解し、それの検証を続けていることをみなさんに伝えることは、その何倍も自分の中に深く浸透させることができるのです。

これは本当にやったことのある人でないと分からないことだと思いますし、それだけにみなさんに心からの感謝も感じています。

話しているのは確かに自分なのですが、実はその言葉の一つひとつはきっとどこかからやってきたものだと分かります。

そして、ワークショップでお伝えしたことも、そうした内容でした。私たちの行為、考えたり感じたり、話したり動いたりといったすべては、源泉からの入力への対応としての出力でしかないということです。

私の口が動いて言葉を紡ぎ出したように見えて、それはすべてがインプットに対するアウトプットでしかないということです。

この自分には、コントロールできる何ものもないということ。そして、その起きた行為の結果が善いことなのか、悪いことなのかも自動的に起きるということです。

次回は、7月8日(日)の予定ですが、それが予定通りにやることになるのかどうか、そしてやるとしたらどんな内容になるのか、それはインプットされる通りにしかならないのですね。

やはり自分は消えるのか?

今まで、頭ではこの自分が一番邪魔なのだということを理解していたつもりだったのですが、それはただの考えだったということが分かりました。

それというのも、いざ本当にその感覚がやってきたら、何だかものすごい行き詰まり感を感じてしまったからです。

そんなことは、自己探求の最も初期の段階から分かりきっていた事だったはずなのに、やはり気づくということは理解とは違うもののようです。

自分が自分であると認識している、気づいているこの私を弱体化していくことでしか、覚醒することはできないとは、何たる自己矛盾なのか。

明け渡すとはそういうことだったのかと、納得するというのか。自分でも今更だなあとつくづく思うのですが…。

明け渡しているということが、その状態にあるということを卒業するときにこそ、本当の明け渡しがやってきて、そして明け渡している主体は消滅するということです。

従って、それはもう明け渡しではなくなるのです。明け渡す瞬間とは、自分はいつ死んでもいいと思えるようになるということかもしれません。

それは、もう少しだけこの世界を楽しんでからとか、やり残したことを終わりにしてからとか、そういうことを一切なくした状態なわけです。

「私」は今この瞬間をまったく知らないとしか言えないし、自分が過去と未来にのみ生きてきたということも認めざるを得ないのは、何とも残念なのです。

こういった感傷的な気分は、純粋な意識に注意を向けるとあっという間に消えてしまいますが、それでもやはりまたしぶとくやってきます。

「私」が完全に満たされることはないと分かっても、やはりこの「私」はこの「私」のままで存続していたいと素直に思っているようです。