エゴと共にいる

外側の世界とは分離した、肉体を持った個人としての自覚を持っている「私」のことをエゴと呼ぶことに異論はないはずです。

そして、ここに「私」がいるということこそが、苦しみの根本だということも分かっています。苦しみだけではなくて、快不快、幸不幸を感じるのも、「私」というエゴがいるからです。

そのために、多くの宗教はこぞって、そのエゴを消滅させることを目指したのです。その点においては、どんな宗教もある意味共通しているのです。

「私」というエゴを野放しにしておいて、真理を見出すことなどできないというのが、本質的な教えであるわけです。

けれども、ではそのエゴを作ったのは一体何者なのかという点については、いろいろな説明があるようですね。

例えば、奇跡のコースにおいては、神はエゴも含めてこの幻想の世界のことをご存知ないと断言しています。

これほどの苦しみの多い世界を神が作ったとしたら、神は何と無慈悲なお方なのだろうと言わざるを得ないとまで言っています。

つまり、エゴと神とは無関係であるということ。結局、エゴを作ったのは神の子である我々であり、それは神の知らないところで勝手な妄想によって作ったということです。

それに対して、現象界であるこの世界も、そしてエゴもすべては源泉から湧き出てくるものだという考え方もあります。

源泉というのは、神というのと同じと考えられますので、あらゆる一切合財は神である源泉から生み出されるということです。

つまり、「私」というエゴについても同じです。それぞれの教えによって、これほどの違いがあるわけですが、それでも私はどちらの説も否定せずにいるようにしています。

なぜなら、どちらを正しいとしても、それ自体が単なる自分の観念へのすり替えでしかないからです。真実は、私の理性を超えているということだけはわかっています。

いま、あらためて思うのは、常にエゴと共にいるということを心がけるようにしているということです。それが、エゴを否定せず、エゴと闘わず、エゴを乗り越えようとせず、エゴを手放そうともしないということです。

エゴに対して何もしないということこそが、エゴを弱体化する唯一の方法だと分かったからです。ただ、エゴを見ていればいいのです。