「無」が最強

この宇宙、この現象界の特徴はどんなものであれ、生まれてそして消えていくということです。あらゆるものがその法則の中にあるのです。

夜空に輝く星々にも一生があるというのをご存知ですか?宇宙空間にあるガスの密度が高いところが集まって、星が形成されるらしいです。

それが恒星といわれる太陽のような星です。内部では核融合を起こして光り輝くのですが、それもいずれは燃料切れとなり最期を迎えます。

その時に散って行った粒子がまた次の星の生成の原料となることを繰り返しているのです。

私たち人間も当然生まれて、そして生きて、いずれは死ぬことになるのです。この法則は絶対ですね。

ところがこのたゆまぬ循環運動から逃れて、一切の変化をしないものがあるのです。それが「無」です。

「無」はそういう意味では最強であって、空間も時間も作用することができないし、この宇宙の生死の法則からも逃れているのです。

それはそうですよね、何も無いのですから。けれども、宇宙の生死という現象が起こる土台のようなものが「無」なのだろうと感じています。

そしてそれだけが永久不滅であり、それだけが真実なのだと感じますね。そこに想いを馳せてみて下さい。きっと何かを気づくきっかけになると思います。

意識が潜在意識に光を当てる

私たち人間は、他の動物とは違って自意識というものを持っていますね。つまり自分のことを自覚することができる能力です。

ところが、私たちの言動の多くの部分が無意識的に行われているという事実があります。気がつかずに貧乏ゆすりをしていたり、知らぬ間に笑顔を作っていたり。

身近にいる人に指摘されて初めて気づくわけです。私自身、友人に言われて気付かされたことがあるのですが…。

それは、どうも聞きたくないことを聞かされていると、耳たぶを下に引っ張る癖があるようなのです。

実際耳の中が痒くなって、それで耳たぶを引っ張ることがあるのは自覚していたのですが、もう聞きたくないと潜在意識が感じると、そう言ったいわゆるボデイランゲージを使うようなのです。

表面意識では、聞きたくないからもうやめて欲しいという自覚はないのですが、心の奥の方で嫌がっているということです。

実はこうした無意識的な行動は、もっともっと意識的でいられるようになれば自覚できるようになるはずなのです。

そして充分に意識的であることができるようになれば、潜在意識の中で何が起きているのかも自覚できるようになるのでしょうね。

一に練習二に練習ですね。

人はエネルギーに支配されている

私がずっと感じている自然の法則の一つに、「エネルギーは友を呼ぶ」というものがあります。

要するに同じ波動同士が互いに引き合ってしまうというものです。人間で言えば、その人のエネルギー(波動)というものがあります。

それは日々体験したことくらいでは変化しないものです。厳密に言えば、生まれる前から継続している惨めさの度合いなどによって、思考のエネルギーが決まるのです。

そしてそのエネルギーに見合った現実が多くやってくるということです。あの事件が起きるまでは幸せだったのに、あれから急に不幸になってしまったという話しを聞くことがあります。

そうした幸不幸の話しはよくあることですが、実はそれは表層で起きていることであって、内面深くにドンとあるエネルギーはそうそう変化しないのです。

人のエネルギーは周囲のエネルギーによって影響はされるのですが、それは一時的なもので、しばらくすると元に戻るのです。

そのくらい強い力で現状を維持しようとするものなのです。エネルギーが変化するためには、本人の生き方が変化する必要があります。

それは気づきと共にやってくる生き方、あるいは考え方の変化です。癒しはそれを起こすことができるのです。

そうなって初めて、その人のど真ん中に鎮座していたエネルギーが変化を起こし、それによって人生が様変わりすることになるのですね。

親の正しさからの脱却

人は誰でも子供の頃に、特に4〜6歳くらいの間に「親2世」をマインドの中に作り出すのです。

親2世とは、親の正しさをそのまま受け継ぐマインドであって、それが自分をずっと責め続けるのです。

親2世の役割はというと、実際の親に怒られたり否定されたりすることを避けるためなのです。つまりは自己防衛の一つの方法に過ぎません。

前もって自分の内側に親そっくりさんをこしらえて、自分のお目付役をさせようという狙いがあるのですね。

この親2世が自分の中で強力であり過ぎると、当然のことながら自分らしく生きることが難しくなってしまいます。

親2世は親が元々持っている正しさを自分に押し付けてくるので、そこに背いて生きようとするのですが、そのこと自体が正しくないと言われてしまうので、結局親2世の言いなりとなるのです。

そういう人生は所詮長続きはしないものです。奴隷のようにされていたオリジナルの自分が反乱を起こすからです。

それは問題行動として現れてくる場合もあるでしょうし、いずれにしても正しさへの反発としての言動が起きるのです。

本人は、親2世の言いなりの時と、それへの反発の時を交互に繰り返すことになるかもしれません。

親の正しさ、親2世から抜け出て自由で清々しい人生を取り戻すためには、親2世の存在を常に見守ることが絶対的に必要です。

このブログでずっと繰り返しお伝えしていることですが、見守るか乗っ取られるか、二つに一つだということを忘れないことですね。

受容と欲望は反比例

人間は欲望が強ければ強いほど、欲求不満になりやすいし、人生に満足することができなくなっていくのです。

それは当然のことですね。叶えたい願いが大きければそれだけ、叶わない可能性が高くなるからです。

もちろんたまたま願いが叶った時の幸福度は大きくなるのですが、それはほんの一瞬で終わってしまい、すぐにまた次の欲望がスタートするのです。

結局、自我というのは欲望によって動機付けられていながらも、それによって不満へと導かれていくという自己矛盾を持っているということですね。

一方で、自我にとっては苦手なことですが、自分の人生を、自分自身を、やってくることの丸ごとを受け容れるなら、欲望は小さくなっていくのです。

欲望は小さくなってしまうのですが、その分マインドは穏やかになってゆったりとして落ち着いた人生になっていくのです。

欲望に向かって走った後、希望が叶って得られる幸福と、受容することでやってくる穏やかな幸福と、あなたはどちらを選ぶでしょうか?

どちらも間違いではありませんが、前者の幸福が一過性であるのに対して、後者のそれは持続するという特徴があるということですね。

真実は変化しない

この世界の特徴を一言で言うと、常に変化するものということができると思います。この現象界とはそういうものです。

来ては去っていく思考のようだし、打ち寄せては引いていく波のようだし、休むことなく生まれては消えていくを繰り返しているのです。

それに対して、思考がなくなった状態というのは、どんな変化も起こすことがありません。雲が過ぎ去ったあとの青空のように。

私には直感的に、一切の変化とは無縁のものこそが真実なのだろうという確信のようなものがあるのです。

つまりは、変化するものは真実ではないということになりますね。この世界で体験することがどれほどリアルなものであったとしてもです。

寝ている間にみる夢でも、時々ものすごくリアルな感覚が残っているような場合があると思います。

結局体験がリアルかどうかは真実かどうかとは関係ないということです。あなたの周りで起き続ける全ての事象とその体験は、真実ではない。

それを見守る観照者としてのあなたこそが、真の実在だということです。

受け身の人生って?

昨日のブログの記事の中で、私の人生の特徴を一口で表すなら「受け身」の人生だったということを書きました。

このことについて少し説明した方がいいと思ったので、補足的な内容になるのですが書いてみます。

受け身というのが一体どういうことなのか、これなかなか難しいのです。受け身だからといって、相手の言いなりになるということではありません。

また受け身だからといって、消極的だということでもないのです。そのように見えることもあるかもしれませんが、受け身=内向的でもありません。

受け身というのは、言ってみれば当事者感覚が薄いのです。自分が自分の人生の主役なのですが、それをリードしてはいないという感覚。

そう、感覚的な部分が大きいのかもしれません。受け身だからと言って、決意しないということでもなく、これまでに幾つかの大きな決心もしてきました。

けれども、決心もどこからかやってきたという感覚があるのです。受け身だからといって、嫌なことでも笑顔で応対するなどということでは全くありません。

決して弱々しくもなく、活動的ではないという保証もありません。受け身の人生を生きると、後悔も少ないけれど誇れるもの(手柄)もないのです。

なんとなくニュアンスは伝わったでしょうか?受け身ということをもっと突き詰めれば、全体性に委ねるということになるのでしょうかね。

私には今のところまだまだ難しいことのようです。

人生をただ見守る

年齢を重ねるに連れてこれまで生きてきた時間に比べて、これから生きれる時間が非常に残り少なくなってきたことだけは間違いないのです。

そんな人生を顧みたときに、私の人生の特徴を一口で表すなら、受け身の人生だったということです。

自分で自分の人生を積極的に切り開いてここまでやってきたという印象が皆無なのですね。人生の手綱を持っていなかったことは確かなのです。

流れに任せてここまで来たのですが、自分から進んでああしようこうしようという信念が全くなかったせいで、気がついたらこうなっていたというのが本音です。

かといって、もっとこうしておけば良かったと言ったような後悔じみたこともほとんどないのです。

願いが叶ったらそういう人生なのだと思うし、願いが叶わなかったとしてもそれはそれでそんな人生なんだろうと思うのです。

そして今に至っては、もうほとんどやるべきことが見当たらないのです。実際に私ほど何もしないで生きている人も少ないのではないかと感じています。

だから私の自我はまあまあ困っています。時間を持て余しているし、何にもやる気が起きない「でくの坊」状態です。

さあ、もっともっと意識的であり続ける訓練をしていく条件は整いました。人生の残りがどんな流れになっていくのか、見守り続けたいと思います。

プレゼントという文化

考えてみると、プレゼントという概念というのは、もしかしたら人間に特有のものかもしれないですね。

他の動物には、プレゼントするという文化は見当たらないのかも。だからプレゼント、贈り物というのは人間らしい営みの一つとして捉えられます。

誰であれ自分が欲しいと願っているものをプレゼントされたら、それは本当に嬉しいし、感謝の気持ちも出てきます。

けれども、特に欲しくないものをプレゼントされた場合はどうでしょうか?ここで二つの反応があると思っています。

欲しいかどうかは別として、相手が自分にプレゼントをしようと思ってくれるその気持ちが嬉しいという反応。

そしてもう一つは、欲しくないものをプレゼントされるのはあまり好ましいとは感じられないという反応。

この両者の反応の違いは一体どこからやってくるのかは定かではありませんが、一つはっきりしていることがあります。

それは、なんであれプレゼントされたら嬉しいという人は、率先して人にプレゼントをしたいと思う人であるということ。

同様にして、欲しくないものをプレゼントされても嬉しくないと思う人は、人にプレゼントすることに苦手意識を持つようになるということ。

あなたはどっち派ですか?どちらでもいいのですが、本当に相手の気持ちになれる人は、プレゼントを自己満足の道具にはしないものですね。

GNP を打ち破れ

あまり政治に興味がない人でも、安倍さんが首相を辞めて、代わりに官房長官だった菅さんが首相になったのは知っていると思います。

先日決定した組閣の顔ぶれを見てやっぱりなと思ったのが、二階幹事長の再任でしたね。これで幹事長としては歴代一位の在任期間となったそうです。

個人攻撃は好きではないのですが、実はこの二階さんのことがどうも苦手だった理由の一つが分かりました。

彼の人脈獲得の方法は GNP というらしいのです。国民総生産のことではありません。G = 義理、N = 人情、 P = プレゼント。

つまりは、義理と人情とプレゼントをふんだんに用いることで、人の気持ちを掴まえる術が卓越しているということですね。

それはそれで、何であれ人に抜きん出ているのは素晴らしいことだと思うのですが、私はこの「義理人情プレゼント」がセットごと苦手なのです。

だから社会の中でうまく生きていくことができない感じがしているようです。逆に義理を欠いて生きる、というのが私の一つの生き方の特徴としてあります。

プレゼントというのも、よほどのことがない限りは縁がありません。頂き物をしても特に嬉しくはないという性格も邪魔しているのかもしれません。

私の個人的な願いは、GNP なんか一切使わずとも社会で気持ちよく生きていけるような、そんな社会常識が浸透したらいいなと思うのです。皆さんはいかがですか?