自分だけが自分を見守れる

このブログでは繰り返し自己防衛について書いているのですが、それは自己防衛への深い理解が人生を変えるくらい大きなことだからです。

私たち人間だけがする心理的自己防衛というのは、それ自体が悪いのではなく常に自己犠牲を伴うことが問題なのです。

なぜ自己犠牲を伴うことになるかというと、自己防衛は一種の取引だからです。安心と苦痛を取引しているのです。

少しでも安心するために、自分の苦痛は多めに見るということ。これを繰り返してしまうと、自己犠牲が溜まりそれは怒りになるのです。

この取引にはあまり心的余裕がないのが特徴です。だからこそ自分が感じる苦痛を仕方ないとして諦めてしまうわけです。

実は、自分のことは自分が一番守ってあげられるのだということに気づくと、防衛に変化が出てきます。

ところが自己防衛を先導しているのはマインドの中にいる幼い頃の自分なので、その依存状態においては自分以外の誰かに守って欲しいと願っているのです。

だからこそ取引を起こしてしまうのですね。自分を見守り、抱きしめてあげることで依存から距離を置くことができ、防衛による取引の必要性がなくなるのです。

そうやって自己防衛は少しずつ小さくなって、当然自己犠牲も小さくなって人生はこんなにも生きやすいんだと気づいていくことになるのですね。

あなたにとっての一番の理解者は?

突然ですが、あなたはあなた自身のことをどのくらい受容できているでしょうか?世界中の誰よりも認めてあげることができているでしょうか?

一般論として、自分のことを自分くらい詳しく知っている人は他にいないはずです。いいところだけでなく、ダメダメな部分もたくさん知っているのです。

だからこそ、自分を自分で受容することの意義は絶大なのです。人は多かれ少なかれ人には言いたくない部分を隠し持っているものですね。

嫌われたり蔑まれるのが怖くて、絶対に誰にも言えないと思ってしまい込んでいる否定的な自分。

私は、何でもかんでも人に言う必要はないと思っています。言うことで、無駄に誰かを傷つけてしまうかもしれないからです。

大切なことは、自分自身にだけは決して隠し事をしないということ。そこに光を当ててマジマジと見てあげることです。

自己受容を可能にするカギとなるものは、マインドに対する深い理解なのです。マインドとは本当はあなた自身ではなく、周囲によって生み出されたものに過ぎません。

あなたにとって、あなたがこの世界で一番の理解者になれた時、何者にも変えがたい至福がやってきてくれるのです。

優れた教育環境って何?

事務所の近くにどうやら子供の英才教育をする場所があるらしくて、その建物に入っていく親子も、出てくる親子も雰囲気が違うのです。

どこかいいところのお坊ちゃんお嬢ちゃんのようなオーラを纏っていて、お母さんもお父さんも装いが目を引きます。

きっとドレスコードがあるのでしょうね。今日も、小さな男の子と若いお父さんとお母さんの三人連れが、その建物に入っていくのを見ました。

全員が黒のスーツを着ていて、その男の子も似たような服を着せられていました。彼にとってそれが嫌でなければいいのにと思ってしまいます。

きっと高額の費用がかかるのでしょうから、庶民には縁のないところですが、ああして手厚く育てられたら、子供にとってはいいことだと思いがちです。

けれどもそれは本当の所はわかりません。人生で大切なことは、どれだけ自然体で生きられるかということだとしたら、少し疑問が残りますね。

子供に優れた教育環境を与えてあげられるのは、もちろん素晴らしいことですが、それが子供の負担になったり無理を強いるようなことのないことを祈るばかりです。

インプットよりアウトプットが大事

ある人が書いている記事に、アウトプットを前提としたインプットの方法が最も効率が良いということが書いてありました。

アプトプットを前提としたインプットとは具体的にどういうことかというと、平たく言えば他人に説明する準備として知識を学ぶということです。

勉強方法というのは人それぞれにやり方があるのですが、学んで得た知識を次に他人に伝えるということを前提に勉強すると、知識が深まるのです。

自分ひとりで完結してしまうと、分かったような気になってしまって理解が深まらずに通り過ぎてしまうことがあるものです。

そんな時、どの程度理解できているのかを見分ける最良のやり方は、試験を受けるよりも他人に教えることの方がいいのです。

伝えているその時に、自分で自覚できるからです。ましてや受け手の人から質問をされたら、そこでも理解度が試されるわけですね。

アウトプットを前提としたインプットとは、そうしたことも想定しつつ学んでいくことができるので、とても効果的なのです。

かつて開いていた各種講座の中で、受講生の方々の理解度を確かめるために、互いに教え合うという時間を作ったりしていました。

実際に人に伝える時になってはじめて、ああここのところは分かった気になっていただけで、まだ理解が浅かったなと気づくのです。

私自身、このブログを通して似たようなことをやっているのかもしれません。アウトプットはもしかしたらインプット以上に大切なことなのかもしれないですね。

なぜなら、自分の中でモヤっとしていたことを、ただ文字にしているうちにああそういうことなのかと気づくことも多いのですから。

自己防衛を見抜く目を養う

無観客で行われたテニスの US オープンの男子決勝で、どちらが優勝しても初優勝になるというまさに手に汗握る緊迫した一戦。

このゲームをキープしたら優勝が決まるという大事な場面で、サーブを打つ側の選手がとんでもなく平凡なボールを相手コートに返してしまったのです。

見てるこちらもびっくりしたのですが、一流の選手でも緊張し過ぎて守りに入ってしまい、思い切りラケットを振ることができなかったのですね。

結局その選手は負けてしまいました。どんな場面でも、弱気になったり気持ちが守りに向いてしまったら、もうその時点で負けということです。

超一流の選手でもそういうことがあるのですから、一般人の私たちにも似たようなことがあっても不思議ではありません。

たとえば、独身の時であれば結構自由にやりたいようにやれていたものが、結婚して子供ができたりすると、急に自由な言動が制限されてしまうのです。

つまり、守らなければいけない家族ができたということで、もう無茶ができないと思うようになるのでしょうね。

そうやってつまらない人生を自ら引き寄せてしまうのです。この場合、純粋に家族を守りたいのではなく、家族を守れなかった場合に予想される自責の念が怖いだけなのです。

つまりは単なる自己防衛なだけなのです。ここまで気づけるといいのですが、なかなか難しいかもしれないですね。

日頃から自分を見つめ続けることで、どんな自己防衛をしているかに気づけるようにしておくことが大切なのです。

なぜなら無防備になればなるほど、人生は楽しく豊かなものとなるのですから。

欠乏感が自我の餌

自我のエネルギー源は「足りない」という思いなのです。このままでは満たされていないという欠乏感が必要なのです。

それが原動力となって欲望というものを生み出すのです。それは期待とか、夢などの耳に優しい言葉にもなりますが、欲望には違いありません。

その欲望が今ここではない未来のどこかへと移動させようとして、その時空が自我の生きる場所となるのです。

その逆に、今この瞬間が充分以上であるとき、求め得るものを超えていると思える時、満たされてどこにも移動することがなくなります。

その時に自我の居場所がなくなって、本当のリラックス状態になるのです。それが忘我の状態ですね。

けれどもしばらくすると窒息しそうになっていた自我がまたやってきて、何かまた不満となるものを見つけ出すのです。

そのようにして、望みを叶えようとしつつある時こそが自我の真骨頂なのです。万一望みが叶ってしまったなら、危険を察知して自我は瞬時に別の欲望を再スタートさせるのです。

これが人生で繰り返されている有様ですね。いやはやご苦労なことです!あなたは自我として生きているそうしたあなたを見守るだけでいいのです。

不自由さの根源を知る

あるがままの自然体の自分で、より自分らしく毎日生きられたらいいよねと分かっていても、それがなかなか現実的には難しいのです。

とりわけ、子供の頃のことを思い返したら、それは無理だと気づきます。親に言いたいことを言ったら100倍返しされてしまう。

親の期待に応えようとすれば、我慢もするし無理もしてしまうけれど、それをやめたら愛してもらえない。

こんな状態の子供に対して、自分らしく自然に生きればいいんだよといくら言ったところで、それは無理な話しなわけです。

問題は、そんな子供の頃に自分を守るために仕方なく作り上げた防衛のルールを、大人になってまで後生大事に継続してしまっていることなのです。

大人になったあなたの言動を縛って、不自然な生き方をさせているのは、あなたの環境でも大人のあなたでもなく、子供の頃に作り上げたルールなのです。

まずはそのことにあなたが気づくこと。そこから第一歩が始まるのです。自分を規制する面倒なルールを作ってしまった過去をしっかりと思い出すこと。

それ以外の選択肢もなく、どうしようもなく無自覚に作り上げた防衛スタイルを正面から見てあげることで、それを落としていくことができるのです。

要するに今のあなたには何の問題もないのですが、不自由だなと思うならそれは子供の頃の不自由さから来ているということに気づくことです。

当時の本当の気持ちや不安や恐怖、そして怒りなどの感情をしっかり思い出して味わってあげるだけで、現在のあなたが解放されていくのです。

それを一度でも経験することができれば、癒しの何たるかを知ることになって、セラピストに促されずとも自然に癒しを進めていくことになると思いますね。

あの時の女子大生たち

毎朝通っているスポーツクラブで、顔見知りになった方の一人に学生寮を経営されている方がいるのですが、最近は腰を痛めたりしてあまり姿を見なくなっていました。

その方の会社が倒産してしまったというニュースを聞いて、愕然としてしまいました。要するに、コロナ関連による倒産ということですね。

学生がコロナの影響でオンライン授業がメインとなったことで、入寮者が激減してしまったらしいのです。

だいぶ前になりますが、一番大きな女子寮に出向いて行って、食堂のようなホールでセミナーを開かせていただいたことがあるのです。

なのでとても人ごとでは済まされない感じがしていて、コロナによる被害をここまで肌で感じるのは初めてです。

セミナーの内容はすでに忘れてしまいましたが、参加された学生さんたちは一様に真面目な感じがしました。

私の話す内容に初めのうちは呆気にとられていたようにしていたのですが、徐々に馴染んできてくれて、少しずつ心の内を話してくれるようにもなりました。

印象的だったのは、セミナーが終わって後片付けをしている時に、次から次へと質問をしにやってきたことです。

本当は継続してセミナーをやりたかったのですが、いくつかの理由があってその時を最後に終わってしまいました。

あの時の彼女たちは今元気に暮らしてくれているといいなと思います。それにつけても倒産後の財務処理がうまく行ってくれるように祈るばかりです。

存在しないものに直接勝つ方法はない

よく言われることですが、闇というのは存在しません。逆に光というのは科学によって、光子という素粒子としてその存在が確認されています。

闇というのは、その光の不在を意味するのです。私たちは存在しない闇に対してどうこうしようとしても何もできません。

それは相手が悪いということですね。存在しないものを相手にどんなこともできないことは明らかです。

闇を何とかしたければ、光のほうに意識を向けるしかありません。光を取り扱うことで闇を消すことができるのです。

それと全く同じことが「私」という自我に対しても言えるのです。自我はあたかも存在するかのようにとてもリアルに感じますね。

けれども、自我は存在しません。それは単に思考によるプロセス、内的な仕組みや働きのことなのです。

だから自我に対して直接的に何かをしようとしても、それは不可能なことなのです。それなのに、私たちは日夜自我に対して働きかけ続けています。

若い時には何者かになろうとして努力するのです。幸運にも何者かになれたとしても、それも自我なので存在しないのです。

もしもあなたが自分という自我に対して不満があったり、どうにかしたいと願うなら、自我の不在のことを思い出すことです。

そして本当のあなたが一体何者なのか、あなたの本性は何なのかを探求することです。そのことによってのみ、あなたは完全に救われていたことに気づくでしょうね。

要するに、何者かになろうとする代わりに、元々ナニモノなのかを見出すことですね。

無意識を理解する

睡眠中にみる夢というのは、実は色々なヒントをくれるなかなか貴重なものだという気がしています。

たとえば、夢の内容を見れば潜在意識の中で解決されずに残っている感情や想いについて、類推することができます。

大人になっても親の夢をよくみるというのなら、その人のマインドはインナーチャイルドのエネルギーが色濃く残っているということを表しています。

あるいはうなされてみたり、とにかく不安や恐怖を感じる夢を多くみるのであれば、強い不安感がマインドにあるということです。

それとは別に、無意識状態とはどんなものかということをリアルに分らせてくれるのも夢なのです。

夢の中の自分を思い出せば、意識的であった試しがありません。その部分だけが現実の生活との違いなのです。

夢のあの無意識状態でいる感覚を思い出せば、今この瞬間に自分は夢と同じ無意識状態だったと気づきやすくなるはずです。

もしも意識的でないなら、夢の中にいるのと同じなのです。このことをじっくりと検証してみるといいと思いますね。

夢(無意識状態)でいることは楽チンです。その逆に意識的であることは骨の折れることなのです。

それでもできるだけ意識的であり続けることです。この地道な作業こそが、真実に近づく方法なのではないかと思うのです。