体験を自己同化しない

昨日のブログでは、誰もがやり続けてきた同一視について書きました。同一視、あるいは自己同化という言葉でも同じです。今日はそれについての補足です。

私たちが日頃無意識にずっとやってきた自己同化、それは体験と自分という存在を同化してしまうことです。

自己同化は自我の得意技と言ってもいいと思います。期待していたことに対して、現実との落差が生まれた時に、私たちは惨めだと思うのです。

これが私たちの奥深くに根付いている自己同化です。期待が裏切られたと判断した時に、その体験と自分を同化してしまうのです。

だから自分は惨めだと思うのですね。親に愛されることを期待しているのに、実際には愛してもらえなかったとなると、その惨めな体験を自己同化してしまうのです。

なぜ自我はすぐに体験と自己を同化してしまうのか?それは察するに自我の身になったら自分は存在するという証拠をいっぱい集めておきたいのでしょう。

なぜなら自我(マインド)の奥深いところで、自分はいないということに薄々気づいているからだと思うのです。

だからあらゆる体験を張りぼてのように、一つ一つ張りつけていって、自分という存在を確固としたものに仕立て上げようとするわけです。

難しいように感じられるかもしれませんが、体験は体験としてただあるだけなのです。それを自分の存在と自己同化しないこと。

その技をマスターできたら、あなたはもう二度と傷つかなくなってしまうでしょうね。体験を自己同化せずにいることは、究極の生き方ですね。

同一視に気づく

今日は同一視について書こうと思います。なぜなら気づかぬうちにやってきた同一視によって、私たちはとても深く自分を傷つけてきたからです。

たとえば、子供の時に食事中に手が滑って味噌汁をこぼしてしまったとしたら、もしかしたら母親からひどく叱られてしまうかもしれません。

その時、子供は叱られるという経験と自分という存在を同一視してしまうのです。母親が叱ったのは、不注意をしてこぼしてしまったことに対してです。

ところが、子供は自分という存在が叱られた、否定されたというように感じてしまうわけです。

これが同一視です。そう考えると、これまでの人生の中で無数にやってきた感じがしてきませんか?

子供の頃に親に愛してはもらえなかったというとても惨めな体験があると、その体験と自分を同一視してしまうのです。

つまり、愛してはもらえなかった自分を否定してしまうのです。子供が愛されないのは、子供のせいでは全くありません。

親のマインドに問題があっただけなのですが、自分の存在とその悲しい出来事を同一視してしまうのですね。

この同一視、子供の時には仕方がなかったとしても、大人になってもそれと気づかずにやり続けていることが多いのです。

自分を否定的に捉えてしまう瞬間があったら、是非この同一視について疑ってみることをお勧めします。

そこに気づくことができれば、無闇に自己否定して自分を無駄に傷つけることを避けることができるようになるからです。

善悪は自我の好み

この仕事を始めてすぐの頃に、グリーンマイルという映画を観ました。その頃の癒しの仲間から良い映画だから観てみればと勧められたからです。

内容をここで紹介するとネタバレになってしまうので詳しくは言いませんが、その20年近く前に観た時にはとても感動したのを覚えています。

悪人と善人が登場してその対比がとてもはっきりしている物語なのです。ちょっとファンタジーのような部分もあります。

たまたま Netflix の中に見つけたので、先日もう一度観てみたのです。というのも、内容についてはほとんど忘れてしまっていたので。

私はどんなに感動した映画でも、しばらく経つと内容を思い出せなくなるという性癖があるらしいのです。

同じ映画で何度も楽しめるという利点もありますが、そこはあまり深く追求しないでおきたいと思います。

今日ここでお伝えしたかったことは、20年近く経って自分の感覚が以前とは違っていたということに気づいたのです。

感動もそれほどしなかったのですが、それよりも何よりも善人と悪人の区別が際立っていることにとても違和感を感じてしまいました。

実際の私たちのマインドは、善人と悪人がミックスした状態がほとんどです。それがマインドの特徴でもあるわけです。

今自分の中に定着している感覚としては、人間は良い人でも悪い人でもないというものです。マインドの全体を見ることが大切であって、善悪は自我の好みだということですね。

何ものにも影響を受けない

日本という国は、誰もが知る災害大国ですね。毎年今くらいの季節になると台風が次から次へとやってきて、その度に甚大な被害に遭うのです。

また日本列島そのものが火山列島なので、地震は起きない日がないのです。いつ大地震が来てもおかしくない。

私自身も子供の頃には川のすぐ脇に家が立っていたのですが、その川がちょっとした集中豪雨でも氾濫してしまうのです。

台風のシーズンになると、床下浸水は幾度となく起きるし、場合によっては床上浸水(1メートル)も体験したことがあります。

もちろん子供の自分はあまりに危険な時には避難していて、一番ひどい状態は見ていないのです。

けれども、水が引いていった後部屋の壁に浸水した泥水の跡が生々しくついているのを見て、驚きを隠せませんでした。

中学2年生の時に、川幅を拡張するということで強制的に立ち退きをさせられることになって、今の家に引っ越してきたのです。

新居を探す時に父親が一番に気にしていたことは、絶対に水害が起きないところに住みたいということでした。

実際父親の会社も同じ川の近くに立っていたので、幾度となく製品が全部水に浸かってしまって、会社自体が潰れそうになったこともありました。

そんなこんなで、水害は私の子供時代にとってはとても厄介な問題として認知されていたのです。

だから台風による災害のニュースを見るにつけ、他人事とは思えないのですが、そんな時ほど見守るということを実践するチャンスだと思うのです。

そうすると、自分の中に何が起きようと決して傷つかない、影響も受けない部分があるということを感じられるのです。

ピンチの時ほど是非実践して欲しいと思います。

改善病の自我を見る

自我の特徴を挙げようと思えば、それこそ幾つも思いつくことができますが、今真っ先に出てきたのが、「改善病」です。

社会的には「向上心」という耳障りの良い言葉で表現されていますし、それは素晴らしいものだということになっていますね。

けれども、あえて言わせていただくならそれは改善病なのです。自我は誰かになろうとしているのです。

今この瞬間の自分には決して満足せずに、いつも何かが足りない、もっとできるようになるはずだと期待し続けるのです。

至らないところがあったらそれを修正して、もっと素晴らしい人物になって、社会に貢献して等々。

期待した通りのより良い自分になろうとして頑張るのですが、改善が止まることはないし、実現した改善も表面的なものに過ぎません。

最も大切なことは、自我と同一視してしまっている自己を見つめることです。死を恐れているのも自我です。

なぜなら死がやってくるのは自我に対してだからです。自我を自分だと信じ込んだ自分には、死がやってくることはありません。

改善病を無くそうとするのも改善病だということを見抜くことができたら、ただ見ることができるようになるはずです。

権利はあるが義務はない

現在の日本国憲法には、国民の三大義務というのがありますね。勤労、教育、納税でしたっけ?

国家というのが私たちの生活の基盤であるので、当然そういった義務があるというのは理解できます。

けれども、もう少し深いレベル−つまり存在とか本質的なレベルで見てみると、義務というのは自我が作り出したものだということ。

私自身は、義務とか責任という言葉に対して鋭敏に反応する部分があって、自我の囁きには騙されないぞという気持ちが強いです。

クライアントさんとお話ししていると、なぜか「生きていかなければいけない」と思っているのが伝わってくることがあります。

つまり生き続けることが一種の義務のようになっているのですね。生きる権利はあるけど、生きる義務など全くないと理解できたらいいのにと感じます。

同様にして、死ぬ権利はあるけれど死ぬ義務などないのですが、現在の社会では死ぬ権利を認めてもらっていないのが実情ですね。

どういうわけか社会総出で生きる義務があることにしているのです。本当に不思議なことです。

誰がどのような義務を作り上げたところで、あなたはあなたの本心に従って生きていくことです。それが自然だし、自由であるということですね。

自分への期待を小さくするには?

誰だって嫌われるよりは好かれたいし、期待されないよりも期待されたいと思うものですね。

当たり前過ぎてその理由を考えたこともないかもしれませんが、敢えて言えば嫌ってくる人はそばには来ませんし、期待しない人も近くには来ないはずです。

逆に好きな人や期待している人には寄り添いたいと思うものです。つまりは、寄り添って貰いたいという気持ちが根底にあるのです。

それは自我というのは根っこの部分では孤独を感じているからなのでしょうね。個人という分離した存在だという思いが寂しさを生むのです。

けれどもここで整理しておいた方がいいのは、期待をするというのは愛のように見えて、愛ではないということです。

愛は存在に向くのですが、存在に対して期待するということはできません。期待は存在以外の何か、成果だったり能力だったりに対するものなのです。

だから期待され過ぎると重くなるのです。愛が重く感じるなどということは決してありません。好き(偽りの愛)の場合にはありますが。

期待されたいという思いが強い人というのは、役に立って相手の期待に応えて自分の価値をあげたいと願っているのです。

もしも自分の存在価値に気づいているなら、ことさら役に立ちたいとも思わないし、期待されたいとも思わないものです。

だからやっぱり鍵となるのは、自分の存在のあるがままを認めることができているかどうかにかかっているということですね。

そこがまだ不十分だと感じるなら、もっともっと意識的でいる練習をすることです。いずれはどんな自分でもただ見守るということができるようになるはずです。

そうなったら自分に対する期待なんて、どこかに吹っ飛んでいってしまうでしょうね。

在るようでないもの

何かに夢中になっていると時間が経つのを忘れてしまうくらい、時間のスピードが早く感じられます。

また逆に退屈だったり何かを我慢している状態では、時間の経つのが物凄くゆっくり感じられるのです。

その理由は単純で、もともと我々が持っている時間感覚というのは思考によって作られたものだからです。

その思考の様々な状態によって時間経過の感覚が変化してしまうのは当然ですね。時間という実体はないということです。在るようでいて、その実ないのです。

私自身の実体験でもそうなのですが、思考が停止した状態の時に、時間はないというのが明らかだったのです。

同様にして私たちのマインドというのも実は実在するものではありません。それは例えれば心理的な働き、仕組み、あるいはプロセスということもできます。

思考が何層にも重なってある種の建造物のようになっていて、全体として自我という仕組みを作り上げる働きも担っています。

ですが実体はないのです。人が沢山集まると群衆という名前をつけることもできますが、群衆という実体などないのと同じです。

つまり、私たちはこの世に実体のないマインド(自我)を自分自身だと思い込んでいるわけですから、滑稽なことかもしれません。

もしも今あなたが、何か辛いことや苦しみに遭遇しているなら、その原因はここに自分がいるという思い違いからだということを思い出すことですね。

もしかしたら、それだけで心が軽くなってくるかもしれません。元々いないものは生まれないし、いないものは死ぬこともできないということもついでに思い出すといいですね。

見ることで闇は消える

どんなお化け屋敷も、薄暗い空間の中を手探りで進んでいくようにセッティングしてありますね。

あれは、私たちが暗闇を恐れる傾向にあるからです。眩しいくらいに明るい光のお化け屋敷など、誰も興味を持たないのです。

暗闇を恐れる理由は簡単で、見えないからです。見えなければ、認識できないのでそれは生物にとって危険な環境であるため、恐怖を感じるというわけです。

実は私たちはそれとは知らずに自分自身に隠してきたマインドの部分を持っています。隠すためにはそこを見えなくするために暗闇にしているのです。

そうなると、今度はそこを見ようとしても怖くて見ることが難しくなるわけです。だから一層隠されたままになるのです。

癒しというのは、マインドの中にある暗闇の部分を見つけてそこに光を当てること。つまり、そこをしっかり見守ることなのです。

そうすることで自分に対する恐れが消えて、あるがままの自分のままでいられるようになるのです。

意識的であるということ、つまりは見るということが如何に大切なことか、光を当てることで自動的に闇は消失するのですから。

見守るか乗っ取られるか

昨日のブログで、苦悩する時というのは無意識の状態になっているということをお伝えしました。

これをもう少し詳しく解説してみたいと思います。よ〜く見つめてみると分かるのですが、私たちの苦悩というのは全て過去からやってくるということ。

物理的な痛みは今この瞬間にあるのですが、心理的な苦しみや悩みなどというのは、過去に感じたものを再現しているに過ぎないのです。

だからあなたが今十分に意識的であるなら、過去からやってくる苦悩に対してただ見守るということができるのです。

苦悩を見ていられるのなら、それは大したことはないレベルのものとして認識されるはずですね。

ところが過去に苦悩していた自分に今の自分が乗っ取られてしまったなら、その苦悩はとてつもなく大きなものとして感じられるでしょうね。

そしてその状態こそが無意識だということです。無意識なので、見守るというところに自力で復帰することはほぼ無理だと思って間違いありません。

見守るか乗っ取られるか、見守るのが意識的であり乗っ取られるときは無意識的なのです。そして乗っ取られてしまえば、苦しみは最大に感じてしまうのです。

大切なことは、乗っ取られてしまったら手立てがないので、乗っ取られないようにするために、日頃から意識的になって見守る練習を積んでおくことですね。