禅の人々は知識には関心がない。彼らは力に関心がないからだ。彼らの関心はあるがままの生に向けられる。彼らは神でなく朝食に関心を持つ–天国でも、魂でも、過去世でも、来世でもない。ただの朝食。彼らは身近にあるものを全面的に支持する。
by osho
「一周まわって…」という言葉がありますが、きっと↑これもそうしたことなのでしょうね。
始めの段階ではこの社会の中でどう生きるかを考えて頑張るのです。いい学校、いい会社、そしてその時に武器として役に立つのが知識ですね。
それが上手くいっているうちはいいのです。自分の人生はそこそこ良かったのではないかと自分を納得させて死んでゆくかもしれません。
けれども、社会との生活につまずきを覚えたときには、人は社会を超えた何かに関心を持つようになるのです。
それがいわゆる宗教であったり、スピリチュアルに目覚めるだったりするのです。場合によっては、瞑想や自己探求に進むかもしれません。
すると自分はそれまでの自分とは違って、俗世間のレベルから超越して真理を求める高尚な人生を生きていると感じるわけです。
そうした努力も虚しく、所詮は何の変化もすることはなかったと気づいたとき、あらゆる探求が終わりを迎えることになるのです。
そのときになってようやく、あるがままの生を受容するというところに来るのでしょうね。マインドは落とすのではなく、自然に落ちるのです。