一周まわって…

禅の人々は知識には関心がない。彼らは力に関心がないからだ。彼らの関心はあるがままの生に向けられる。彼らは神でなく朝食に関心を持つ–天国でも、魂でも、過去世でも、来世でもない。ただの朝食。彼らは身近にあるものを全面的に支持する。

by osho

「一周まわって…」という言葉がありますが、きっと↑これもそうしたことなのでしょうね。

始めの段階ではこの社会の中でどう生きるかを考えて頑張るのです。いい学校、いい会社、そしてその時に武器として役に立つのが知識ですね。

それが上手くいっているうちはいいのです。自分の人生はそこそこ良かったのではないかと自分を納得させて死んでゆくかもしれません。

けれども、社会との生活につまずきを覚えたときには、人は社会を超えた何かに関心を持つようになるのです。

それがいわゆる宗教であったり、スピリチュアルに目覚めるだったりするのです。場合によっては、瞑想や自己探求に進むかもしれません。

すると自分はそれまでの自分とは違って、俗世間のレベルから超越して真理を求める高尚な人生を生きていると感じるわけです。

そうした努力も虚しく、所詮は何の変化もすることはなかったと気づいたとき、あらゆる探求が終わりを迎えることになるのです。

そのときになってようやく、あるがままの生を受容するというところに来るのでしょうね。マインドは落とすのではなく、自然に落ちるのです。

健康なマインドなどない

この世界は腐敗していない。この世界には神が充満している–。あるいは仏陀の言葉で言うなら、無が満ちている。それは同じだ。もし何かが腐っているとすれば、それはあなたのマインドだ。そのとおりだ、腐敗したマインドで愛を見出すことはひじょうにむずかしい。

by osho

↑上の表現で「腐敗したマインド」というのがありますが、「病んだマインド」と言い換えてもいいのです。

そしてもっと正確に言えば、病んでないマインドというものはありません。「マインド=病んだ内面」だからです。

マインドとは分裂している内面のことです。マインドというのは、自分は個人として存在していて、外側の世界とは分離しているという思考がベースなのです。

これは真実ではないので、虚偽を信じている思考がベースということになるのです。だからマインドというのはすべて病んでいるというわけです。

ただし、そのように正常に病んでいるか、あるいは異常に病んでいるのかというのは個々のマインドによって違いがあるのです。

異常に(深く)病んだマインドとは、その発育状態において充分な安心感を与えてもらえずにいたマインドなのです。

不安や孤独感が強すぎると、自己防衛も過大となるためにマインドはその病みを大きくしていってしまうのです。

けれども、所詮はマインドについての話しであって、私たちの本質はマインドではありません。問題は、マインドとの自己同化に気付くかどうかということですね。

耽溺と禁欲

耽溺する者は快楽に執着し、苦痛を避ける。そして、禁欲する者は快楽を避け、苦痛に執着する。どちらのアプローチも間違っている。いずれの場合もあなたはバランスを失う。仏教は、耽溺でもなければ、禁欲主義でもない。それは何も教えない–。それはただ見守りなさい!と言う。

by osho

世間には、耽溺者と禁欲者がいるということですが、実は一つのマインドの中にその両方が含まれています。

どちらのパワーがより強く表面化しているかということに過ぎません。例えば私の場合は、耽溺者が強くて禁欲者は頼りない。

ただ内側では快楽を避け、苦痛に執着する部分があることを知っています。それが出てくると、必要以上に我慢したりするのです。

日頃は耽溺者として快楽に執着する側が表に出ているのですが、その部分が禁欲者であるクライアントさんが来られた時には活躍するわけです。

クライアントさんの多くは、自分が禁欲者であるとは気づいていませんが、戦っているという自覚はあるのです。勿論我慢も苦痛も必要以上にお持ちです。

まずはバランスを取ることが大切なので、一旦禁欲者から耽溺者へとひっくり返る期間が必要なのです。

自分の中には両方があったのだと気づいて欲しいからです。その上で、そのどちらでもない自己の存在に気づけばいいのです。

耽溺も禁欲も、原動力は自己防衛だということを理解できると、より中立になることが容易くなるはずです。

マインドは投映し放題

何の観念も持たずに探求するがいい–。それが仏陀のメッセージだ。見るがいい、あなたの目をきれいに掃除して、見るがいい。特に何かを探すのではなく、ただ見るのだ。事物に、事物のあるがままの姿に、純粋に見入りなさい。目は清く、純粋でなければならない、さもなければそれは投映しかねない。

by osho

いや投映するのは確実なのです。私たちの目には幾重もの色眼鏡がかけられていると思った方がいいのです。

その色眼鏡も、ただ何かの色に染まって見えるだけではなく、自分のマインドの都合のいいように事物を映し出すのです。

そして困ったことに、私たちはそれをいつでも信じてしまうのです。自分の目は確かだと思いたいのだろうけれど、とんだ見当違いなのです。

投映せずに周囲を見回すことがいかに困難なことか。まずは、そのことを深く理解することです。

投映のメカニズムはなかなか複雑ですが、分かりやすい事例を一つでも思い出せれば納得できるはずです。

たとえば、うちの子が1番可愛いと心底思っている親が時々いますが、本人にはそう見えてしまうのですから仕方ありません。

けれども、他人からみれば親の欲目だというのは明らかです。こうした可愛らしい投映ならいいのですが、そうでもない場合がほとんどです。

投映せずに見るためには、思考を介在させないことです。それ以外にはありません。瞑想状態のまま、目を見開く練習をするといいかもしれません。

ほとんどが無意識で生きている

人間以外のあらゆる動物は、常に100%無意識状態で生きています。彼らには、自覚というものがありません。

そこが人間とそれ以外の動物との決定的な違いですね。けれども、私たち人間もほとんどが無意識で生きているのです。

寝ている間にみる夢を思い出してみて下さい。夢の中の自分は、何かに追われていたり、誰かと戦っていたりとなかなか忙しそうです。

ただし、夢の中の自分はそのことを自覚しているわけではありません。ただ夢のストーリーの中に飲み込まれているに過ぎません。

それは動物と変わりないのです。ここまでは納得してもらえると思うのですが、実は日中活動している最中も、ほとんど無意識なのです。

そんなことはない、食事中は食事している自覚はあるし、勉強中だって勉強している自覚があると言いたいわけです。

では百歩譲って、そうした自覚があるとした上で、その自覚がどれくらい続くでしょうか?1時間?1分?それとも5秒でしょうか?

私の経験では、よほど訓練を積んだとしても、すぐに自覚は消えていってしまいます。つまり意識的であり続けることは至難の技なのです。

実際、意識的であることが可能なのは、全体の数パーセント程度がいいところではないでしょうか?

是非ご自身でも試してみて下さい。ほとんどが無意識だったと分かっても落ち込む必要はありません。それくらい、人間はまだまだ自我の手中にあるということです。

自己イメージからの脱却

自我というのは必ず自己イメージというものを持っています。自分とはこういう存在だという信念のようなものですね。

それが肯定的なものであろうと否定的なものであろうと、どんなものであったとしても決して事実ではないのです。

イメージというのは思考です。固く信じている思考だから信念というのですが、本人にとっては真実のように感じてしまうので厄介です。

そしてもう一つ自己イメージが厄介なのは、自覚できるものと抑圧しているために自覚できないものとがあるということ。

自覚していないからといって、それが影響を及ぼしていないわけではなく、必ず何らかの形で本人の人生に悪影響を与えているのです。

最も根っこにある自己イメージというのは、幼い頃に周りにいた家族からやってきた情報を、そのまま内側へと取り込むことで作られたのです。

だから自己イメージとは名ばかりで、本当は周囲から舞い込んできた情報の集合体でしかないのです。

そんなものを後生大事にしまいこんで、そのままを信じ込んでしまったために、いわれのない不都合を背負うことになってしまうのです。

そろそろ本気で、自己イメージを完全に無視する生き方を選ぶことにしませんか?人生がまったく違ったものに見えてくるはずです。

自己改善の放棄

自我の特徴の一つとして、自己改善に対する欲望というのがあります。簡単に言えば、より良い自分になりたい!というものです。

これは社会的には良いこととされていますし、そのように教えられて子供は育っていくのです。つまり、向上心を持て!というわけです。

昨日よりも今日、今日よりも明日という具合に、常に上へ上へと登っていくイメージがあります。

出来なかったことが出来るようになると嬉しいものですね。勿論能力だけでなく、人格を向上させるというのもあります。

すぐに怒ってしまう人が、もう決して怒るまいと決意するようなこともあるかもしれません。ところが残念ながら、いつかまた怒ってしまうのですが…。

大人になって、自分のことをよくよく見つめてみて分かるのですが、自分を改善しようと思う欲望にはきりがありません。

そしていつかどこかで、完全に諦めるというときがやってくるのです。トータルな自分をそのままに受け容れるしかないと悟るのです。

そのときに、ようやく心の平安が訪れるのです。どんな戦いもなく、奢りも偽りもなくなって、淡々と生を楽しむことができるようになるのですね。

目覚めたら自我は粉々になる

あなたは目覚めなければならない。目を覚ましているのは骨が折れる。なぜなら数知れぬ夢が打ち砕かれるからだ。

しかも、これらの夢には、あなたのあらゆる喜び、いわゆる野心や成功のすべてがからんでいる。

まさにあなたの自我全体がからんでいる。その自我がこなごなになる。

by osho

なぜ osho は、「目覚めなければならない」というのでしょうか?自我が粉々になるなら、別に目覚めなくてもいいのではないか。

本当は、目覚めなければならないのではなく、いずれは目覚めることになるのです。それは夜寝ている間に見る夢と同じなのです。

その夢の内容がどんなものであれ、いずれは朝が来て眼が覚めるのです。目覚めなければならないと osho が言う理由はたった一つ。

それは、悪夢にうなされている人がいたら、それはただの夢だから早く覚めなさいと言いたくなるのと同じなのです。

人生という夢物語は、楽しい時も嬉しいときもあるけれど、所詮は悪夢なのです。なぜなら自分の本質を忘れて、自我として戦う夢だからです。

自我こそが悪夢を作っている張本人なのです。けれども、自我はそんなことを認めるはずはありません。

自分は与えられた環境で精一杯頑張って、より良い人生にしようと戦っているだけだと言うでしょう。

もしもすべての人々が目覚めて、自我から離れて日々を過ごすようになったら、人生というまやかしは消えて、実在がその姿を顕すことになるのですね。

目的地は自我の必須アイテム

目的地は存在しない、だから誰も道に迷うことはできない–。それをあなたのハートに浸透させなさい。それを矢のようにあなたに貫かせなさい。<生>に目的地はない!だから、それは取り逃がしようもない。

by osho

自我にとっては、目的地というのはどうしても必要不可欠なものなのです。目的地があれば、目的地へ到達するという目的ができるのです。

目的地へ向かって進むことによって、自分の本質に気づかずにいることができるということも、自我にとっては好都合です。

目的地があれば、他人との競争が生まれます。自分の方がより早く、より巧みに目的地に向かっているという安心感。

誰も道に迷うことはないなんて、自我にとっては興味のないことなのです。目的地がなければ、差がつかないからです。

自我はあらゆる手段を使って、勝ち組に入りたいのです。そして気づかないかもしれませんが、負け組を利用する自我もあるのです。

つまり、競争に負けることで、道に迷うことでかわいそうな自分を作ろうとしてみたり、不幸によって仕返しを画策する自我もあるのです。

いずれにしても、目的地は自我が生き残るための必須アイテムだと理解することです。

目的地がないということを受容するなら、自我はひとりでに小さくなっていくことになるでしょうね。

自我が問題を創る

人はいらない問題を創る。私はあなた方に、理解してもらいたい。自分で創る問題以外に、生において問題など存在しないのだ。

ただ、分かろうとしてごらん。何であれ、あなたにとっていい感じがするものは、いいものだ。だとしたら、その道を果てまで行きなさい。

by osho

あなたのマインドが問題を創るのです。それ以外には、この世界に問題というものは存在しません。

いやいやそんなことはない、自分は何も悪いことをしていないし、問題が起きることなど望んでいるはずもない。

誰であれそう思っているのですが、自我には自覚できる部分と自覚できない部分があるのです。

問題なんて起きて欲しくないと思っているのは、自覚できる自我の部分に過ぎないということです。

その裏側では、着々と問題をこしらえては文句を言い、問題を考案しては被害者となり、問題を見つけては解決しようとするのです。

そのことにはっきりと気づくことです。問題を解決する、対処する、戦う、そういった生き方から足を洗う必要があるのです。

百歩譲って、問題が見つかったら、できるだけ愛を持ってそれを放っておくという態度を身につけること。

それを続けているうちに、あなたのマインド(自我)の問題を作るエネルギーが小さくなっていくのですね。