偏在と遍在について

「へんざい」という言葉は、漢字で書くと「偏在」とも「遍在」とも書けるのです。どちらも同じ意味であれば、それほど問題はないのですが、それが全く逆の意味なのですから、驚いてしまいます。

「偏在」の方の「偏」という字は、「偏(かたよ)る」という意味の字であって、つまり「偏在」とはある場所にかたよって存在するということです。

一方で、「遍在」の方の「遍」という字は、「遍(あまね)く」という意味であり、つまり「遍在」とはあらゆるところに一様に存在するということです。

話し言葉として、まったく同じ「へんざい」という発音をするくせに、両者の意味が互いに反対であるというのは、困ってしまいますね。

何でこんなことを書いているかと言うと、昨日のクライアントさんとのセッションの中で、純粋な意識としての本当の自己は遍在するというお話しをしたのです。

すると、それを聞いたクライアントさんは、きっと「遍在」ではなくて、「偏在」の方を咄嗟にイメージされたのだと思うのです。

だから不思議そうな、理解に苦しむような顔をされたのでした。真の意識がどこかに偏って存在するなどとは、誰も考えないでしょうから。

同じ発音で意味が真逆になる言葉があったのですね。ひょんなことから新たな発見をしてしまいましたが、自分ひとりでは気づかなかったことです。

おかげで、これからは意識は遍在するということをお話しするときに、普遍の「遍」もしくはあまねくの「遍」の意味ですと補足する心の準備ができました。

そして、どんなときにも、やはり真の自己は遍在している、この明らかな全体性の感覚を決して忘れないようにしたいとも思うのです。

肉体があるうちに、本当の自己に気づく

私たちは誰もが、いつか必ずやってくる死を恐れています。それは、肉体の死によって肉体が滅んでしまうのみならず、肉体と自己を同一視してきた思考も存続できなくなるからです。

つまり、肉体とともに体験したすべての記憶によって形作られて来た、人物としての私がいなくなってしまうということですね。

けれども、それをもう少し正確に表現すれば、人物としての私がここにいるという思考を保っていられなくなるということです。実は、単にそれだけのことなのです。

それなら、その思考が消滅した後には一体何が残るのでしょうか?それはとても簡単なことです。初めに肉体を自己と同一視した、その自己が在るのみです。

その自己は、それまで同一化していた肉体を失ってしまうために、それ自体の丸裸な状態にただ戻ることになるのです。

その自己とは、肉体とは何の関係もありません。それなら、この肉体があるうちにも、その自己という実在に自ら気づけばいいということになります。

ところが皮肉なことに、一体全体その自己とは何なのだろうかと考えることができるのは、人物としての私でしかありません。

しかし真の自己は、その人物としての私の影に隠されてしまっているために、見い出すことが難しいという、イタチゴッコのような状態になってしまっているというわけです。

何とも悩ましいというのか、特別な賢者のような人でなければ、その難題を解決することはできないように思えますね。

けれども、それ自体が人物としての私の思考でしかないのです。真理は、思考で測り知ることはできません。

言葉で表現するには無理があるのですが、つまり「このすべて」が本当の自己なのです。何者でもない、あらゆるすべてであり、その中に時空というこの宇宙もあるのです。

それなら、死の恐怖というのも大したものではないということになりますね。実際、死の恐怖ほどおかしなものはありません。

なぜなら、これほど恐れている死であるはずが、その死がやってきた暁には、それを恐れる誰もそこにはいないのですから。ただ真の自己が在り続けるだけなのです。

このことが分かったら、誰だってもっともっと気楽に生きていくことができるようになるはずです。誰もが、本当の本当の自己を信頼できるようになるといいですね。

全体性とは部分の総和ではない

今まで何度も書いたことなのですが、「全体性とは部分の総和ではない」ということをまた書いてみたくなったので、今日はどういう表現になるのか試してみたいと思います。

ジグソーパズルの内の一つのピースをどれだけ眺めていても、それが何を意味するのかは分からないものですね。勿論分からないからこそ、面白いわけです。

勝手に、このピースのこの部分は、恐ろしい猛獣の牙の部分に違いないと思っていても、完成したらそれは天使の美しい姿の一部だったということだってあるわけです。

このように、全体が分かったときに、各部分の在りようというものが変わってしまうということは十分に考えられることなのですね。

ある国の中で、ある一人が極悪非道な犯罪人だとしても、それ以外の人々の心が平和に満ちていたら、そこは平和な国家だということになるはずです。

私たち自身の誰もが個人として生きているのですから、どうしたって全体の中の部分に目が向くのは当然のことかもしれません。

ましてや、個人主義的な生き方をするようになると、視野が狭くなって局所的な見方しかしないようになってしまうのです。

部分というのは、どうしても正不正、善悪のような属性がくっついてしまいがちであり、評価も固定されがちになってしまうのですが、全体ではそうしたものが薄れていくのです。

そして真の全体性とは、無数の物語を包含していながら同時に、すべての善悪が消失してしまう視点であるとも言えるのです。

人物としての私は、どうしても部分に執着してしまうのですが、同時に本質としての自己はあらゆるものであり、それは神の視点でもあるのです。

その一見相容れない二つの視点をいつも同時に感じつつ、生きていけるといいなと思うのです。

マインドを磨いても光にはなれない

私の周りには、真面目な考え方の人たちが沢山いらっしゃいます。少しでも今の自分に比べて、より良い自分になりたいと考えている人たちです。

それを向上心と呼べばいいのかは分かりませんが、自己否定している部分をなくしてもっとましな自分になりたいと常に思っているのです。

精神世界的な言い方を使えば、自分のマインドを磨いて、暗くくすんだ部分を光に変えていこうとするわけです。

けれども、マインドはどこまで行ってもマインドなのです。ニワトリが頑張ったら鷲になれるわけではありません。

マインドの正体とは、疑念であり、あらゆる対象に対して信じるか信じないかのどちらかであるということです。そこには本質的な信頼はあり得ないのです。

マインドを向上させて恐怖から愛へ変遷させようとすることこそが、マインドそのものの罠であることに気づかなければなりません。

マインドを磨いた先に、光り輝く愛に満ちたマインドになるということが待っているわけではないということです。

真実を垣間見る経験をしたことのある人であれば分かるはずですが、それは突然やってくるものであり、その体験をしている自分は今までの自分ではないのです。

それは明らかに不連続な体験なのです。努力した結果であったり、修行をした成果としてそれがやってくるのではないことは明らかです。

マインドが愛で満ちることはないのですが、さりとてマインドを否定する必要もありません。それはどこまでいってもそれであり、それとは別次元として真実はいつもここにあるのですから。

人の関心は物語性に向く

人はどんなことに対しても興味を持って見ることができる能力があります。それはどんな時かといえば、対象となる物事に物語性を同時に見い出せる場合なのです。

事実がただ淡々と目の前に現れ続けても、そこになんらかの物語性を感じることができなければ、心が動かされることがなく、つまらない対象でしかありませんね。

本当は、物事はただ起きているだけです。それ自体には一切の物語性など存在することはありません。

けれども、そこに思考という解説者が現れることによって、自由自在の物語を作り出すことができるわけです。

私の子供の頃、あれほどまでに歴史という教科が嫌いだった理由は、もうはっきりしています。それは、歴史の中に物語性を見出すことができなかったからです。

それを学校の授業や教科書のせいにすることは簡単ですが、本当の理由は私自身が自分のことにしか興味を持つことができなかったというのが真の要因です。

そうであれば、授業は退屈であって、苦痛でしかなかったのですね。けれども、その歴史の中に物語性を見出すことができるようになって、その感覚は一変してしまいました。

私が今一番関心を持ってみている物語とは、日本人の思いの変化です。戦前までの日本人が全体主義的であったとするなら、戦後は個人主義的傾向が強くなったのです。

その変化は、まさにドラマチックというのか、理不尽というのか、とにかく物語としては非常に心に迫ってくるものがあります。

日本が関わった戦争が侵略戦争だったと誤解することで、日本の軍国主義を否定している平和主義者が大手を振って生きている時代が今なのです。

有色人種の中で、唯一白人の人種差別に真っ向から立ち向かった日本、命を投げ打って戦ってくれた先達には感謝してもしきれません。

それなのに、そういった事実を全否定するような戦後の教育と、それに洗脳された戦後の日本人のマインドを思えば、これほど理不尽きわまりないこともありません。

ここに、とても大きな物語性を感じずにはいられません。こんな見方ができるようになったのは、間違いなく本当は物語などはないということがベースとしてあることが分かったからなのだと思うのです。

平和主義と事なかれ主義

小学生のときに、確か図工の授業か何かで、各自が自由にポスターを作るというのをさせられたことがありました。

私は、絵を描いたりするのがとても苦手なので、楽しくない時間だったことを覚えていますが、そのときにクラスの生徒の結構な人数が申し合わせたように、「世界平和」というのをテーマに選んでいました。

普段だれもそんなことを言う奴はいなかったはずだし、自分はそんなテーマには特別な関心もなかったので、とても意外でした。みんながちょっと大人に見えたものでした。

そんなことがあって、それ以来自分でも日本は平和でありがたいという思いが、遅ればせながらもようやく芽生えたことを覚えています。

誰もが争いのない世界を願っているわけですし、日本は、幸運なことに敗戦後67年の間は、国をあげての戦争には巻き込まれずにやってこれました。

けれども、残念なことに人類の歴史は血にまみれた戦いの連続でしたし、それは世界の各地で今もって続いています。

勿論日本も敗戦前までは、多くの戦争の歴史を持っていますし、それがいかに多くの国民の安らかな生活を無残なものにしたかを知っています。

ところが、戦争を忌み嫌う気持ちが、ただ戦争を否定するだけではなくて、大切な人たちを守るために仕方なく戦わねばならなかったという事実までも否定するようになってしまいました。

これはとても由々しきことです。大切な家族が暴漢に襲われそうになったら、自分の命をかけて戦って守ろうとするはずです。そのときに、平和を愛すると唱えても意味がありません。

まだまだ人類のレベルでは、残念ながら戦いが起こるのです。そのことから、決して目を背けてはならないのでしょうね。その上で、戦いを抑止する最善の方法は何かを、みんなで考える必要があると思います。

そして、戦争も一つの物語なのだということを、いつも忘れないでいることです。そうすれば、戦うことから逃げずに真正面から向き合うことになるはずです。

平和主義と事なかれ主義の違いにしっかりと気づくことによって、それが生と死をいつも身近に感じながら生きることに繋がっていくはずなのです。

忘れかけている正義感について

私たちの周りには、特別に正義感の強い人が時々いますね。曲がったことが大嫌い!という表現をすることもあるでしょう。

それは、昔からの日本人の心の底にある、共通の考え方かもしれません。けれども、この正義感というのは少々やっかいな代物でもあるのです。

「強気をくじき、弱きを助ける」というように、目を本人の外側に向けることに使われるのでしたらいいのですが、自分を守るために使ってしまうと問題となります。

正義の「正」の字は、正しいという意味ですから、正義感を自分は正しいという具合に都合よく変えてしまうということがあるのです。

そうなれば、正しさという心の鎧によって、自分を防衛するための大変便利なツールになってしまうのですが、そのことを本人は気づかないことが多いのです。

その一方で、自分を守るために正義感を使わないでいられるなら、誰かのために自分の命を与えることもできるかもしれません。

なぜなら、日本人が言う正義感とは、ルールを守るとか、人の道に外れないといった単なる倫理的正しさというよりも、誰かのために自分を投げ出すという態度があるからです。

自分の人生を自分を守るために使うのではなく、誰かのため、何かのために人生を捧げるという意味合いを多分に含んでいるのです。

こうした心の在りようというものは、生まれたときから誰もが本当は持っているものではないかと思うのです。

なぜなら、無邪気さを忘れていない幼い頃というのは、そうした感覚で生きていたように感じるからです。誰にも教えられてなどいないのにです。

けれども、その後の教育によって、そうした他人を思いやる気持ちを忘れていってしまう可能性は大いにあると思われます。

誰もが初めから持っていた、あの純粋な正義感をもう一度思い出すべきときが、やってきているように感じているのは私だけでしょうか。

朝の散歩でのちょっと素敵な風景

秋も深くなってきて、朝散歩をするのには暑すぎず寒すぎずで、ちょうどいい気温になりましたね。普段あまりにも運動をしないので、歩けるときは40分程度の散歩をしています。

近所に井の頭公園があるので、その池の周りをぐるりと一周して戻ってくると、ちょうどいい運動になるのです。

その散歩中に、ちょっと不思議な光景を目撃しました。公園には沢山のベンチがあって、朝だからか、それらのほとんどが空いているのです。

そのベンチの一つの下のところに四つんばいになって、何かを一生懸命にやっている人の姿を見つけました。

最初は何だかよく分からなかったのですが、その人は明らかにベンチを掃除していたのです。お爺さんというほどではないですが、それなりの年齢の男性です。

彼は、何やらヘラのようなものを使って、ベンチの足元に付着したものを一心に削り取っているようなのです。お仕事としてやっているようには見えません。

あの公園のベンチは、東京都がやっている「思い出ベンチ」事業で、一般の方々からの寄付の募集によって作られたものなのです。

それで、一つひとつのベンチには、寄付者の名前とメッセージを刻んだ記念プレートが取り付けてあって、寄付した人の思い出を目で見える形で残しているのです。

もしかしたら、あの男性は自分が寄付したベンチを大切に思って、掃除をしに来た人だったのかもしれないと思ったのです。

ところが、その後もまったく違う場所のベンチを掃除しているその男性を2度ほど目撃したのです。ということは、まったく自主的にやっているボランティア活動なのでしょうね。

その掃除のやり方が、単にベンチの椅子の表面を拭くというような簡易的なものではなくて、かなり厳重な手の込んだ掃除なのです。

誰に評価されるでもなく、誰に言われたからでもなく、ただ黙々とかつ丹念に雨ざらしになっているベンチとその周りを掃除しているのです。

なんだかいいなあと思ってしまいました…。

神は誰の敵でも味方でもない

以前、あるキリスト教信者の方とお話しをしているときに、信者ではない人たちは可愛そうだというようなことを言っているのを聞いたことがありました。

なぜかというと、その人によれば、神は自分のことを信じる信者たちを特別に守るが、そうでない者は守らないからということでした。

つまり、神が人間的なえこひいきをすると固く信じているわけです。こうした考え方というのは、無宗教者や常識的な一般人からすれば到底考えられないことです。

けれども、それと似たような考えと言うのは、意外と広く蔓延しているのです。たとえば、良い行ないをすると天国に行けて、悪い人は地獄へ落ちるというものです。

私自身も幼い頃からそうした考えを持っていました。信じているというよりは、悪いことをしたら地獄に落ちるかもしれないから、いやだなという程度ですが…。

結局、神は審判を下すという普遍的な考え方が、心のどこかに根深くあるのですね。しかし、神には勿論思考などはないのですから、審判というものもありません。

百歩譲ってあるとしても、それは局所的なものの見かたではなく、全体的なものであるに違いありません。つまり、局所的に誰かの味方をしたり、誰かの敵になったりということはないのです。

私たち人間だけが、思考を使って物事を局所的に判断してしまうために、理不尽な思いや執着などによって苦悩することになるのです。

もしもかつての真珠湾攻撃のときに、海軍を代表する提督として高く評価されていた「山口多聞」の作戦通りに米国を叩いていたら、米軍は半年以上も太平洋では戦えなくなっていたらしいです。

もしかしたら、日本は戦争に負けてはいなかったかもしれませんし、多くの尊い日本人の命が助かったかもしれません。歴史は大きく変わっていたでしょうね。

けれども、一方では、そうなると米国の軍力をヨーロッパから太平洋に向けざるをなくなるため、ナチスドイツがヨーロッパを占拠してしまったかもしれません。

局所的に見るのではなくて、全体的に見れば何が良くて何が悪いとは言えなくなるわけです。これが神の視点なのでしょうね。真理というのは、あくまでも全体性なのです。

自我を丸裸にする

いつの頃だったか、「……と日記には書いておこう!」というテレビのCMが流行って、その言葉だけが巷で独り歩きしたことがありました。

何のCMだったかなと思って、今ネットで検索してみたら、見つかりました。内容は、こんなものでした。

『今日、僕は偶然みちこさんに会った。可愛そうに、咳をしている。風邪で喉を痛めたらしい。僕は龍角散トローチをあげて、親切に家まで送って行った。嬉しかった。……と、日記には書いておこう!まあいいさ。』

にきび面の純情そうな中学生か高校生くらいの男子をイメージさせるような感じで、ちょっとクスっと笑えるような可愛らしい内容ですよね。

けれども、これを日常的な生活の中で実際にやってしまうと、とんでもないことに発展する危険性があることも事実です。

というのも、初めのうちは自分に都合のいいように記録しておくという自覚があるから大丈夫なのですが、そのうちそのことを忘れて嘘が自分の中で本当になっていく可能性があるからです。

これはとても危険なことです。つまり、自分で自分を騙してしまうことに繋がっていくのです。人生の中でこれほど危険なことはありません。

私たちは、もうすでに一度本当の自分を騙してしまっているのです。3歳くらいのときに、身体と自己を同一視してしまったのですから。

そこで自我を自分自身だと思い込むのですが、その上でまた更に自我の上に別の自画像で装飾してしまうなら、真の自己のことを思い出すなど到底不可能なことになってしまうでしょう。

どんな自分であれ、どんな出来事であれ、なるべく思考を用いずにそのままを体験し、あるがままを見ることです。

その過程で、初めに自我が丸裸にされるはずです。そして、その後自我よりももっと近くにずっとずっと在り続けていた本当の自己に気づくことになるのです。