なるべくイメージを使わない

私たちは、普段何気なく様々なイメージを使って生きています。イメージというのは想像するということですから事実ではないのは明白です。

しかし、何度も繰り返して同じイメージを作り続けると、自分の中でもそれがただの想像上のことなのか、事実なのかの判別がつかなくなって、次第に事実だと思うようになるのです。

自分がどれだけイメージを使っているのか、それをずっと探求していると、驚くべき結果が出てしまいます。ほんの些細なことまで含めると、一分一秒ごとにイメージを続けているとも言えます。

そうなると、事実だけを正確に見ているつもりでいたものが、本当はそうではなくてとても多くの部分に至るまで捏造していたのだということに気づきます。

そして、残念なことにそのイメージの基データはと言えば、すべてが過去からやってくるものなのです。これは当然のことですね。

我々は自分の中に蓄積しているものを使ってしかイメージすることはできないのですから。こうやって、過去からの情報を基にしてイメージしまくっているということこそ、過去に生きているということを物語っているのです。

例えば、目を閉じて静かにしているときには、今自分の身体はこのようになっているというのを継続的にイメージし続けているということに気づきます。

そうやって、視覚を使えない状態においても自分は身体なのだというイメージを失くさないようにしているということです。

もしもそのイメージを一旦脇に置いて、自分とは何だろうと見ると、少なくとも身体ではないということがはっきりしてきます。

湧き上がってくる夥しいイメージを止めようとする必要はありません。それを無理強いしてもよい結果を得ることは難しいからです。

それよりも、ただそうしたイメージに気づいているだけでいいのです。気づいていさえすれば、それを利用するかどうかという選択肢があることにも気づけるからです。

まずは気づくことです。あらゆるイメージを暴いて下さい。そのためには、できるだけ今この瞬間に注意を向けていることが必要です。

問題行動の原因

一般常識に照らしてみたときに、そこからやや逸脱しているように感じさせる行動というものがあります。そうした行為、あるいは行動のことを問題行動と呼ぶことにします。

もしも、あなたが自分のことを品行方正だとの自負があるのであれば、これは直接的には縁のない話題かもしれません。

しかし、あなたの身近にそうした問題行動を起こす人が少なからずいるはずです。きっと、多くの人が今思い当たることがあるはずです。

問題行動とは、例えば一定の年齢を超えてもおねしょが止まらない場合とか、子供の不登校などが挙げられます。

問題行動は、子供だけではなくて、我々大人にも起きるものです。恋愛でのトラブルであったり、職場や家庭でのいざこざなども場合によっては、問題行動である可能性もあります。

また、病院で検査してもらうとどこにも異常らしきものが発見されないのに、いつもなんだか具合が悪いというのも問題行動の一つかもしれません。

問題行動を起こしてしまう本当の原因は、実は当人にも分からない場合が多いのです。それは、本人が本心を自分自身に隠してしまうからです。

何か切実に訴えたいことがあるのに、自分を欺いてそうした本音をひた隠しにしているのです。無理やりねじ伏せられた本心が、何とかしてそれを表現しようとして問題行動を起こしていると言うわけです。

したがって、周りの人がその行動の異常さなどに目を奪われて、それを裁くことばかりに意識が向いてしまうと、かえって問題を悪化させることになるのです。

それは、誰にとっても百害あって一利なしということになってしまいます。問題行動とは、見えないところに赤信号が点滅していることを知らせる大切な印だと理解することです。

もしも、あなた自身がそうした問題行動の経験があるのでしたら、自分は一体何を隠しているのか、徹底的に心の中を掘り下げて見てあげることです。

どんなものが出てこようと、それをそのまま見てあげることです。そしてとことん感じきることができたら、自然と問題行動は解消していくはずです。

そればかりか、自分にとって酷く都合の悪いもの(痛みや傷)をあるがままに見ることをしていくと、見ている主体である自分と対象としての痛みや傷が一つになり、両者は消えていくのです。

そして、その先には誰でもない本当の自分の姿との出会いが待っています。結局、問題行動は、自分を掘り下げていく自己探求のすばらしいきっかけとなってくれるのです。

観照し続けよう!

この世界に生まれた私たちにとって、誰にとっても平等で、そして逃れることのできないことは、自分の人生を生きてそして死んでいくということですね。

あなたの人生がどんなものであろうとも、人が羨むようなすばらしいものでも、あるいは過酷なものであったとしても、命が尽きるまでは生をまっとうするしかありません。

誰かの人生の方が楽そうだからといって、他人の人生を生きることなどできません。しかし、人生というものの見方を変えることはできるのです。

それは人生そのものを変えるという不可能に挑戦することではなく、その人生の主人公として生きるのか、それとも人生とその主人公を観照する立場として在るのかということです。

一般的に私たちは、自分のことを人生の主人公として感じています。それは人生というストーリーの一登場人物としての自分を演じているとも言えるのです。

人物というのは現在を生きているように見えて、実は人生という長いストーリーの過去をごっそり引きずって自分を保っているような存在なのです。

だからこそ、そのストーリーの中にどっぷりと浸かってしまっている状態であり、それ以外のことはあり得ないと思ってしまっているのです。

しかし、そのストーリーの中で活躍する人物としての自分を観照する立場であることを意識することができると、その意識は今この瞬間にだけ在るということが分かってきます。

過去や未来の人物としての自分を見つめるのではなくて、今この瞬間の自分だけに意識を向け続けるということです。

それができるようになると、次第に自分というのが人物などではなく、ただ意識として在るということに明確に気づくことができるようになります。

そして、ストーリーに流されて、それに翻弄されて頑張っている登場人物としての自分のことを、愛を持って抱きしめることができるようになるのです。

人物としての自分は相変わらずかもしれませんが、それでも構わないということが分かってきます。この観照する意識というのは、一切のコントロールがありません。

ただただ観照するということであり、それは同時に自分という本質の存在の全体性にも気づいていくことになるはずです。

まずはシンプルに、今の自分を内側から観る、観続けるというクセをつけることから始めようとする意欲がありますか?

人生をコントロールすることはできない

赤ちゃんや幼児の頃は、全権を親に委ねて生きています。つまり、親のコントロールの下で生活の安全を保障されているわけです。

ところが、3歳くらいになってくると、自分というものの自覚がぼんやりできてきて、それに付随して親というのは自分とは違う対象であると理解するようになります。

そうすると、すべてが親のコントロールに従っていることに、不安を感じるようになるものです。なぜなら、自分と親の好みや考え方、感じ方にずれがあることを知るようになるからです。

そうなったら、自分を守るために自分のコントロールを保とうとする努力をするようになります。親の意向(コントロール)に従っていては、不満を感じるということに気づくからです。

そして出来るだけコントロールを失わないようにと頑張るのです。例えば、いくらせがんでも欲しいものを買ってもらえないとしたら、それは親のコントロールに屈することになります。

そこで、自分はそれをいらないと思っているのだと自分を騙してまで、手に入らないことを自分のコントロールであることにすることもあるかもしれません。

また、成長していく段階では、親だけでなく社会などから、なるべく多くコントロールできるようになることが人としての成熟だと教えられるのです。

そして、自分の思うとおりに人生を切り盛りできるだけのコントロール能力を身に着けることこそが大切なことだし、そこに人としての価値があると考えるようになっていくのです。

残念ながら、そこにこそ私たちの苦悩の原因があるのです。私たちがコントロールできることと言えば、ごく限られた物事の表層の部分に過ぎません。

息を止めようと思えば、しばらくの間は止めていることもできますが、ものの数分と持たないはずですね。逆に自分のコントロールなしで、呼吸はずっと続いていることは誰もが知っています。

明日自分の身に何が起こるか知っている人は誰も居ません。私たちにできるのは、所詮予測する程度のことだけです。つまり、人生をコントロールすることは不可能なのです。

それなのに、自分の人生をコントロールできると信じてしまっているからこそ、そこのずれを何とかしようとして苦しむことになるのです。

本当に苦しみから解放されたいと思うのであれば、コントロールは不可能なのだと徹底的に理解することです。根本的なことほど、コントロール不能なのですから。

コントロールできないことを認めると、もしかしたら大きな恐怖に襲われることもあるかもしれません。その恐れすら、私たちはコントロールできないのですから、それをそのままに見るのです。

船が大きな波に揺られている時には、その上にいる人の内耳にある三半規管が自動的に平衡を保とうして頑張ってしまうために、船酔いが起こるのです。

コントロールをすべて放棄することです。不可能なことを不可能だとして、そのままに認める勇気があるでしょうか?

意識の全体性に注意を向け続ける

私たちは、自分がここに居るという感覚をほぼ一日中感じながら生活しています。というより、物心ついた頃からずっとそれが続いているわけです。

それはもう当たり前過ぎて、そのことに何の疑問を感じることもなく、疑問どころかそのことを意識にあげることすらないかもしれません。

しかし自己探求が始まると、そのことがごく普通のこととは思えなくなってきます。この自分がここにいるという感覚とは一体何だろう?という探求の可能性があるということに気づきます。

それは当たり前では決してなく、何かの作用がその感覚を作り続けているとしか思えなくなります。たゆまぬ努力というのか、つまり自然なことではないということに気づくのです。

そして、そのことにずっと意識を向け続けていくと、自分が誰なのかということの化けの皮が剥がれていくような感覚になるときがあります。

自分がここに居るという感覚は、自動的に起きてくるわけではなく、自分は身体だという一つの信じ込みが作っているのだとわかります。

そのことに気づいた途端、意識の広がりという突然の注意の転換が起こります。私の場合のそれは、とても穏やかなものでどこかしら馴染み深い感じすらします。

それは毎日何度も繰り返して、その広がりに注意を向けているうちに、自分が何をしていても感じることができるようになります。

それを感じるための如何なる努力も必要はありませんし、努力してそうなるというものでもありません。それこそ、元々の意識の自然な状態なのだろうとも感じます。

不思議なことに、自分という意識に徹底的に意識を向けていると、個としての自分はそのままに、自分の意識の全体性に気づいてしまう瞬間が必ず来るということです。

そのことによって、人生が何か変化するわけでも、何かいいことばかりが起きてくるようになるということでもありません。これまでと同じように痛みは来るのです。

ところが、全く目立たない奥深いところで、それまで自分が苦悩の上に立っていたはずが、どうやら至福の上に立つようになっていると感じます。

それは確固としたものではないのですが、自分の全体性に意識が向いているときに、そのような感覚になるようです。

そのためのどんな努力もいらないというのが、理性からしたら何だかしゃくな気もするのですが、それの何倍もの大きな感謝の気持ちがあるのです。

柄にもなく防災グッズを買いました

先週あたりから、何となく自分の周りで地震に関する情報がやってくるようになっています。いくつかの情報を総合すると、どうも今週ないしは月末あたりに大きな地震が来てもおかしくないらしいです。

勿論、科学的な裏づけは何もないですから、大騒ぎするべきではないと思うのですが、ふと考えたら防災について何も準備してないということに気づきまして…。

昨日は時間があったので、思い切ってホームセンターに出向いて、防災関連のグッズを何点か買って来ました。

家族にはいろいろ今までにも言ってはいたものの、自分としては防災グッズなど買うつもりは全くなかったのですが、自分でもここにきて不思議な現象が起きたなと感じています。

そこそこ暖かそうな寝袋や、懐中電灯、ペットボトルの水、缶詰、他にもいろいろと、そしてそれらを入れておいて担いで逃げるためのリュック等。

備えあれば憂いなしという言葉には、これまであまり関心がなくて、会社員時代にも海外出張のときにほとんど手ぶら状態で行くこともありました。

結局、現地でいろいろ準備できてなかったしわ寄せがやってくるのですが、持ってくればよかったという後悔をしないのが自分の特徴だったのです。

外出するときには、いまだに手ぶらですし、汚い話しで申し訳ないのですが、ズボンのポケットには一枚のハンカチが無傷のままずっと入りっぱなしです。

でもさすがに、昨年の大震災のことも記憶に新しいということもあるのでしょうね。生まれて初めて真面目に「備える」ということと向き合った感じがします。

後それほど長くは残っていないこの身体の寿命ですが、生きている限りはきっと何かの役には立つかもしれないし…。

おとといのブログにも書いたように、これは神の身体だとの認識も新たにしたことですから、備えるべきものはきちっと備えておく必要があると思うようになったのですね。

自分の本質は何が起きても起きなくても、永遠に変わらずあらゆる物を包含する源だと分かったとしても、あるいは分かったからこそ、この現象界ではそれなりに丁寧に生きていくことも必要だという気持ちになれたのかもしれません。

今晩は、試しにホカホカのシュラフで寝てみようかなと思っています。

理性が観念するとき

瞑想しつつ、心が静まってくればくるほど、如何に自分が理性に権威を与えてしまっているのかということに気づくようになります。

私たちは気づかぬうちに、理性の力である理解力というものに自分の最高権威者としての地位を授けて、それに依存して生きているのです。

その表れとして一番馴染み深いものは、自分の正しさによって自己防衛しようとすることです。これは本人が気づいているかどうかに係わらず、誰もがしていることです。

一方、理性は人間が持つとてもすばらしい恵みであるとも言えます。理性をうまく使いこなすことによって、他の動物ではとても為しえないことを人間はやってきたのですから。

問題は、理性にあるのではなくて、それに妄信してしまったことなのです。理性が遠く及ばないことについては、その存在を簡単に否定してしてみたりするといったことです。

私は瞑想中に普段とは違う感覚や意識状態になると、それを何とかして理性で理解しようとしている自分を見つけることができました。

これはもしかしたらこういうことかもしれないとか、とにかくいちいち解説が入ってくるのです。そのときに、どれほどの理性を働かせたところで真実には届かないと思いとどまるのです。

そして、その理性がどんな解釈も及ばないと本気であきらめたときに、何やら形容することのできない何かを感じることができます。

理性が考えられる最高のものとは、理性自身がみずからの力の範囲を真摯に理解することです。あらゆる本質は、理性では決して届かないと見切ることこそが理性のできる限界なのです。

真実はあまりにも大きく、そして広大なので理性では手が届かないし、それはあまりにも近すぎて理性には見ることができないし、それはあまりにもシンプル過ぎて理性には解釈することができないのです。

そのことを完全に理解したとき、理性は観念するに至ります。それはあらゆる責任から開放される何とも言えない清々しさです。重い荷物を一気に肩から降ろした感覚です。

ひれ伏すことの無限の安心感、理性が静かになった時、それはやってきてくれます。そのために、思考を停止する必要もなければ、正しい姿勢で瞑想する必要すらありません。

これが多分明け渡しの感覚なのではないかと思います。

神の身体

奇跡のコースを読み出したときに、自分は身体ではないということを理解すると同時に、そもそも自分は身体だというのが単なる思い込みだったのだということが分かったのです。

しかし、そうはいっても、自分のモノであるということには違いないのではないかと勝手に思っていたふしがあります。

それはあたかも洋服や靴のように、勿論お金を出して購入したわけではないのですが、ともかく生まれたときからずっと一緒だし、自分の所有物だというように感じていたわけです。

人から何かを借りたら、気をつけて悪くしないように心持丁寧に扱うのが普通ですね。逆に自分のものであれば、ある程度は場合によってはそんなに気遣いせずともいられることも多いです。

私は、この身体は間違いなく自分のものだと信じていたので、かなり雑な扱いをしていることに気づいています。

最近ではめっきり運動をしなくなってしまい、筋肉が相当に退化してきているのが分かります。そして、食にもそんなに気を使ってないので、野菜が不足していることも分かっています。

だからなのか、腰痛になったり便秘になったりを繰り返していますが、自分のものなので誰に迷惑がかかるわけでもないし、ということでそのままの状態が続いています。

ところが最近、「この身体は自分ではない」というよりも、更に言えば「この身体は自分のものではない」とも言えるということに気づいたのです。

つまり、自分は身体ではないばかりか、その身体はそもそも自分のものでもなかったということです。一体誰のものかと言えば、きっと神のものだろうと。

神という言葉がそぐわない感じがするようなら、大いなる意識のものと言い換えてもいいのですが、とにかく個人的な私たちの所有物ではないという感覚に気づいたのです。

だとしたら、神が不自由なく使えるように、この身体のメンテナンスをなるべく怠らないようにしなければならないのではないかと思うのです。

自分の身体だから大切にしなければならないというよりも、神のものだからしっかり調整してあげて、いつでも完全な状態で使ってもらえるように管理しておく必要があるのかなと。

私たちは、一人ひとりが神の身体の維持・管理を任された一時的な存在なのだと思うと、この身体に対する愛情も何だか今まで以上に感じることができそうです。

ただし、いまさらですが、私はいかなる宗教とも一切係わりがありませんので、遅ればせながらお断りしておきます。

ストーリーを語りたい衝動

愚痴を聞いてもらって、すっきりしたということはよく聞く話しですね。そして、愚痴を言い続ける限り、人生において何も改善されるはずがないということもよく言われますね。

常に愚痴っぽい人というのは大抵が被害者の意識になってしまっているということが言えると思います。その被害者ぶりを誰かに訴えたくて仕方ないのです。

それは実のところ、幼いころに家族や親からひどい目に遭って、それを分かってもらえてないという不満から来ていると考えられます。

あなたがこれまでの人生でどんな生活をしてきたか、被害者の立場から言い換えれば、どんな生活を強いられてきたのか、それを訴えたい気持ちがあるとすれば、その分だけ幸せは遠のくと思って間違いありません。

自分の心の中に不満を訴えたいという気持ちがあるということ自体は、悪いことでも何でもありません。ごく普通のことだとも言えます。

しかし、そうした気持ちに乗っ取られて毎日を生きているとしたら、それはいい悪いの問題ではなくて、単に満たされることは絶対にないということです。

自分の気持ちを正直に見つめてみたときに、あなたは自分の人生というストーリーを語りたいという欲求を見つけることができますか?

もしもそうした思いを見い出すことができたなら、それをいつも監視して決してそれに巻き込まれないようにしておくことです。

なぜなら、ストーリーとはすべてが過去であることを考えれば、その思いに巻き込まれてしまえばあなたが過去に生きていることになるからです。

過去とは、挫折と苦悩と後悔と罪悪感の巣窟です。せっかく唯一愛を感じることができる今に在るあなたを過去からやってきて、乗っ取ろうとするのがそうした被害者の意識なのです。

被害者であると信じることで、罪悪感などの苦しみから一時的に逃れることができると思っているのです。それこそが、被害者としてのメリットなのです。

文句を言える立場というのは、甘味なものです。それを決して奪われたくないばっかりに、いつも辛い被害者の人生を生き続けることを選んでしまうのです。

もしも、あなたが自分のストーリーを語りたい衝動を感じたら、それをただそのままにしておくことです。それと闘わずにさりとてそれを否定もせずに、ただただそれを見てあげることです。

そこでやってくる痛みと共にいてあげるのです。ストーリーがどんなに悲惨であっても、どれほど過酷なものでも、ありえないほど理不尽であろうと、それはただのストーリーでしかないのですから。

恐怖を大きくしているのは自分自身

小学生の低学年くらいの頃、大抵クラスに一人や二人は注射となると、泣いて騒いで大暴れする奴がいました。今でもよく覚えています。

誰だってか細い腕に針を刺されるのですから、怖いには違いありません。それでも、みんなも同じなんだからきっと大丈夫なのだろうと自分をなだめて何とか無事に済ますわけです。

それなのに、そういう泣き叫ぶ子がいて、子供心に苦しそうで可哀想だなと思っていたのを覚えています。その怖がり方が半端じゃないので、からかう気持ちにもならないというか…。

今思い返しても何であれほどまでに怖がらなくてはならないのか、本当のところは分からないわけですね。それでも確実に言えることは、彼らにとっては死ぬほど怖かったのだということです。

だれだって、人知れず苦手なものがあったりするわけで、他人にはその恐怖感がどれだけすさまじいものなのか、本当のところは分かってはもらえないのです。

しかし、実際には腕に針が刺さる痛みというのは、それほどのものではありません。本当のことを言えば大したことはないので、ほとんどの子供は泣いたりしないで済むのです。

泣き叫ぶ彼らの心境というのは、額面どおりの注射の痛みを恐れているのではなくて、彼らが独自に作り上げた架空の痛みを恐れているわけです。

空想の痛みですから、どれほどにでも痛みを大きくすることができるわけで、そうなったら際限がないので彼らは死ぬほどの恐怖を感じてしまうということです。

同じようなことを、私たちの誰もが自覚せずにやっているかもしれません。痛みから逃れようとしてそれと闘えば闘うほど、恐怖は大きくなることをどこかで知っています。

そして、幸運(?)にももう抵抗することは無理だと知って観念したときに、予想していた痛みとは桁違いに実際の痛みが小さなものだったと理解するのです。

痛みを拒絶しようとする気持ちそのものが、恐怖を大きくする要因なのだということをしっかり理解することが必要ですね。

もしも勇気を持って、痛みをあるがままに見ようとする気持ちになれたなら、もう痛みは恐れる相手ではなくなってしまうということです。

このことは、いつでも試すことができますので、日頃あなたが怖いと思い込んでいることに対して実践してみることを強くお勧めします。コツは「何とかしよう」をやめることです。