「探す」と「捜す」の違い

皆さんご存知の通り、「さがす」という漢字には二つのものがありまね。「探す」と「捜す」です。どのように使い分けるか私は最近まで知りませんでした。

「捜す」の方は、既知のもの、すでにあったもの、紛失したもの、そういった特定のターゲットに対して、それを「捜す」というときに使うということらしいです。

例えば、昨日入社した新入社員が広いオフィスの中で迷子になってるようだから、「捜して」連れ戻して来て欲しい、などです。

つまり捜す相手が決まっているわけですね。したがって、紛失したお財布を捜すという場合もこの漢字を使うわけです。

一方、人手不足だから新入社員を雇わなければならないので、どこかに適材がいないか今探しているという場合には、この「探す」という漢字を使うのです。

これは、どこの誰かはまだ決まっていないので、つまり未知の人を探すわけです。上記の例と比べて、そこが違うということです。

ある男性が花嫁を募集しているのであれば、彼が結婚相手を「探す」となるし、彼のお嫁さんが失踪してしまったら、彼の結婚した相手を「捜す」となるわけですね。

ところで、自己探求という言葉がありますが、この場合は、「探」の漢字が使われるということは、自分にとっては未知の自己を探すという意味あいがあるということになります。

今まで見たことも聞いたこともない本当の自己を探すということであれば、この「探す」で問題ないのですが、それは本当なのでしょうか?

最近では、この自己探求という場合に、本当は意識の深い部分で本質の自己のことに気づいているはずだとの思いが強くなってきているのです。

そうなってくると、自己探求は、自己捜索という言葉の方がより適しているのではないかと密かに考えたりしています。

本質の自己は、人物としての「私」よりも、もっともっと近くに在るものだということです。それは、探す必要など決してないものなのです。

それどころか、何かを探すことを徹底的にやめることによってのみ、出会うことができるのだと思うようになったのです。