幼い自分が握っているもの

執着してしまうことが、私たちの苦しみの原因なんだという話はよく聞くと思うのですが、実はそれに付随してもう一つ問題があるのです。

それは、執着していることに気づかないでいるということ。明らかに執着していると自覚できるならまだいいのですが。

それと気づかずに深く執着している場合があって、それはどのようにしてもそれを止めることができなくなってしまうのです。

特に子供の頃に無自覚に作ってしまった執着は、後々の人生に大きな悪影響を与えることになるので、適切な癒しをする必要があるのです。

癒しの作業に置いて、一般的に聞くことになるインナーチャイルドを癒すというのは、実は子供の頃の自分が握りしめてしまったものを解いてあげることなのです。

知らずに握りしめてしまうものとしては、自分の我慢していた感情だったり、自分の本音だったり、苦しんでいるという思いだったり。

なぜそんな辛いものを握りしめて離さずにいるのか?その時点での自分を守ることに繋がると思えたからなのです。

自分の身に降りかかった辛い出来事を右から左へと流してしまうことができたら、インナーチャイルドなんてそもそも存在しなかったはずなのです。

苦しみを握りしめて、なかったことにしようとすることで、逆にそれを温存してしまうということです。それが、大人になってあらゆる形となって現れ出て来るのです。

大人になったあなたが、そうした幼い頃の執着に気づいてあげて、ゆっくりと握っていた手を開かせてあげることができれば、人生はもっと生きやすものになっていくでしょうね。

思考による後付けに気づく

あらゆるテクノロジーが進んだ現代は、昔の時代の人に比べて格段に非二元を理解するハードルが下がっていると思うのです。

音響製品がない時代には、人の話し声が聞こえたら必ずその音の方向に誰かがいるはずだったのです。

今なら、スピーカーからどんな音でも出すことができます。あるいは、何かが見えてるなら、昔は必ずその見えている対象物があったはず。

ところが現代では、何かが見えているとしても、それは単にテレビの画面や映画のスクリーン上の映像かもしれません。

特に仮想現実を想起すれば、もっと明確になります。見えていても、聞こえていても、そのターゲットは存在しないのですから。

この気づきが非二元への入り口になるのです。つまりは、見えること、聞こえることはターゲットが存在することとは無縁なのです。

ここを自分で納得できるまで繰り返し見抜くことです。ただただ見えること、聞こえることが起きているだけだと。

見ている誰かがいるわけでもないし、見られているターゲットが存在するわけでもない。それは思考による後付けなのですね。

知らないこと、分からないことをそのままにしておく

非二元の世界に近づこうとするなら、次の二つのことに留意する必要があると思うのですね。その二つとは。

知らないことを知らないこととして扱うこと。もう一つは、分かっていないことは分かっていないこととして見るということ。

この二つが絶対的に必要です。というより、この二つが徹底的にできるなら、もう非二元になっているはずなのです。

何が言いたいかというと、私たちは気付かぬうちに、知らないことをさも知っていることのように取り扱うことに慣れてしまっているのです。

本当は少しも分かっていないのに、分かっているかのように自分を騙して、それをベースに次の展開を進めていくのです。

だからこの二元の世界というのは、そのほとんどが妄想でできているというわけです。それで成り立ってしまうのですから恐ろしいです。

それは、みんなで同じ妄想を抱くことによって、これは真実なんだと思えるからなんですね。妄想を共有する能力が凄いとしか言いようがありません。

こういうもっともらしい文章も、実は思考(イマジネーション)が元になっているのですけどね。本当はこんなこともないのが現実です。

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未来の人類はどのように生きる?

そう遠くない未来には、必ずAIが世界中で活躍する時代がやって来るはずです。もちろん、人類がAIに滅ぼされていないという前提ですが。

そういう世界を私なりに想像してみると、我々人間はかなり違う生活を送るようになるでしょうね。

極端な言い方をすれば、野生に帰るというのか。もちろん野蛮な生活になるということではなくて、現代人が陥っている競争社会はなくなっているはずです。

なぜなら、能力で競い合う必要がなくなってしまうからです。どんな秀でた人であっても、能力ではAIにかないません。

さらに、AIの働きによって衣食住は提供されることになるので、お金に困るということも皆無になるはずです。

働く人はごく稀にいますが、それは趣味で働いているに過ぎません。そうなった時、一体人間は何を目標に生きればいいのか。

多分、能力や成果などで自分の価値を保ってきた人は、苦しむことになるはずです。何もする必要がなくなってしまうからです。

そうなった時に困らないように、今のうちから自分の価値を上げようとする生き方をやめることですね。

左脳による生き方はAIに任せて、人間は右脳による生活を送るようになるのかもしれません。私はその前にいなくなるでしょうけれど。

ブレーキとなるものの正体

これは単に私の考えでしかないかもしれませんが、非二元に気づこうとすると様々な邪魔が入るのが常なのです。

それは、理解にブレーキをかけて、我々の常識の中へと引き戻す役割をしてしまうのです。その最も典型的なものとは、我々の信念や思い込みの類です。

非二元の探究を通して分かってきたことですが、普段の生活がどれほどイマジネーションによって作り込まれていることか。

そのことを知って本当に驚いたのです。私たちが現実と呼んでいるものの中で、リアルなものは1%もないかもしれません。

そのくらい、妄想によって支えられている世界の中で、リアルなものだけを見つめようとするのですから、困難を極めるのです。

そこに持ってきて、長い間培ってきてしまった強烈な思い込みがあるため、そこを脱出するのはなかなか困難なのですね。

自分の足元を支えてきた絶対的な正しさが単なる強い思い込み、つまりは信じていただけのものだったと気づくのは大変です。

そこと向き合って、少しずつそれらから足を洗うことができると、非常にシンプルな非二元の中へと招待されることになるのですね。

神という概念

どの国のどの民族であれ、神という概念は必ずあるものらしいですね。きっと人間が普遍的に必要としている概念なんでしょうね。

その神に対して、それこそたくさんの呼び名があります。子供の頃は神様と言っていたように記憶しています。

呼び名に関してはどうでもいいのですが、私が以前から気になっていたのは、神のことを擬人化して考えることです。

神という存在をまるで感情や思考を持った人間のように捉えるやり方です。例えば、神に罰を与えられるといった考え方。

神が人間のように善悪を持っているとは到底思えないのですが、何か悪いことをすると神様に罰せられるというわけです。

神がこの世の創造者であるなら、なぜ自分が創った人間ごときに罰を与えなければならないのか、馬鹿馬鹿しい限りです。

どれほど理性的な人であっても、神に対して持っているイメージというのは人それぞれに違いがあるのは興味深いものです。

私の神に対するイメージは、かなり昔からですが、神は外界にいるのではなく自分の奥底にいるものだと思っていました。

今は、神という概念を使うことはほとんど無くなってしまいましたが、自分を貶めるために神を使うことほど無意味なことはないと思いますね。

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探究がやめられない

昨年の暮れあたりで一度探究が終結した感じになったのですが、それでも完全にやめたとはなっていないなと思っています。

というのも、それまでの探究では非二元についての様々な基本的な気づきがやってきていたのが、一応終わりを告げたようになったのです。

ところが、今度はそれを定着させるべく少しずつですが忘れないようにするための実践などをやるようになったのですね。

だから、何もしなくなったというわけではないのです。逆にしつこく非二元への気づきから離れないようにしているのです。

そんな中、特にアンテナを張っているわけでもないのに、巷からやってくる情報の多くが「探究をやめよ!」というメッセージ。

コレなかなか不思議なんです。これまでもそう言った情報はあったのですが、最近特に多くなったなあと。

探究をやめられない理由は、本当に探究をやめたらどうなってしまうのだろうと思っているからなんでしょうね。

今一番心に響くのは、「黙って座れ」とか、「何もするな」と言った言葉なんです。探究を取り上げられたら、今の自分は何をしたらいいのだろうと路頭に迷う感じですね。

非二元の視点でいると

最近は、夜一人で部屋で過ごしている時には、なんと表現したらいいのか分からないようなちょっと異質な感覚になることがあります。

それは、まるでこれまで生きてきたすべての経験が、単なる妄想でしかなかったというような感覚とでも言えばいいのか。

他の言葉で表現すると、この世界に生まれて生きてきたと思わせている全ての記憶が偽物だったと言った感じ。

何も信じることができないし、信じられるものがない感じ。物語はどこにも存在しないし、そんなものは最初からなかったかのような。

コレしかないということが本当のことに感じられてくるわけです。そしてその中に個人としての私など存在しない。

嫌な感覚ではないので何も問題はないのですが、まだどこかに釈然としないものを感じているのも事実です。

やっぱりまだまだ本当のことに気づきたいという欲求があるのでしょうね。知られるべき何物もないと分かってはいるのですが。

非二元の視点でいられることが増えたのかもしれません。

「無常=存在」って?

初期仏教の長老と呼ばれている人が、あるYouTube動画の中で無常について解説しているものを観たのですが。

その中で、最終的には「無常=存在」であるというようなことを言っていたのですね。なんだかよく分からない話だなあと。

とりあえず初期仏教においては、無常を本当に深く理解することができたら、それが悟りだということを伝えていたのです。

その時は、そんなものなのかなあで終わっていたのですが、つい最近ちょっと気づいたことがあったのです。

それは、もしも無常がなかったなら、つまりずっと同じ状態が続くことが仮にあったとしたら、それは存在を認識できないはずだと気づいたのです。

何かが存在すると認識するためには、常に「在る/なし」というのを繰り返している必要があると分かったのです。

簡単に言えば、変化しないものは存在すると認識できないということです。例えば、ある音がずっと鳴り続けているとします。

普通は、その音はまったく変化していないと感じてしまうのですが、実は音は全て「在る/なし」を繰り返しているのです。

これは、オシロスコープなどで波形を見れば明白です。その波形は、常にプラスだったりマイナスだったりしているのです。だから、その音が鳴っていることに気づけるのです。

かなり低音の音であれば、その断続を感じることができます。そうした経験は誰でもしているはずなのです。

これは非二元の立場とは関係ないことかもしれませんが、万物が無常であるなら、変わらずにあり続けると思っている「私」は幻想だということになりますね。

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この世界は夢のようなもの

子供の頃から、この世界は何となく夢のようなものなんじゃないかな?と思っていたのを覚えています。

他の言葉を使えば、何だか現実感が足りないような感じとも言えます。そして、いつかはこの夢から醒める時が来ると。

それが死んだ時なんじゃないかといつの頃からか思うようにもなっていました。夢というのは、実在しないということ。

そして、作り物だというイメージも含まれています。ただし、誰かが作っているという意味ではないのですけど。

だからと言って気楽になれたかというとそんなことはなく、だから夢みたいなものと思っても何のご利益もありませんでした。

ところが、この年齢になって子供の頃のこの感覚が、間違っていなかったのではないかと思えるようにもなったのです。

つまり、非二元の気づきと探究を経て繋がったわけですから。そして、年齢を重ねてきたことも加味されて、気楽さは増してきましたね。

この世界の中で個人として生きているという夢、この夢の正体が何なのかはさっぱり分からないままですが、分かる必要もないことにも気づいています。