中心なんてない!

瞑想によって自分の中心へと深く深く入っていきなさいと osho が言うとき、そうすることで自分の正体を知ることができると教えているのですね。

逆に言えば、エゴとは中心からもっとも離れた円周上にあるようなもの。けれども、自分に中心があるというのは明らかに方便に過ぎません。

私たちが勝手に、一つのまとまりのあるものには、中心となるところがあると思い込んでいるからこそ、そのような表現を使うのです。

宇宙にも中心はないということをご存知ですか?この宇宙が、140億年くらい前にビッグバンによって爆発して以来、ずっと膨張しつづけていることは知られています。

膨張しているのだから、中心があるはずだと思いがちなのですが、宇宙には中心というものがありません。

人間の感性というものは、どうにもいい加減なものだということがよく分かりますね。けれども、そういうものを持ってしまっているので、それを利用するしかないのです。

それを方便と呼ぶわけです。要するに、役立てばいいのです。それが言葉のすべてなのです。話を戻して、自分の中心をイメージして、どこまでも掘り進めて行くと…。

最後には、そこには何もなかったということに突き当たるのです。そのときに、一瞬にして全体へと広がっていき、そこには中心とか果てという概念も存在しません。

思考では捉えることのできない真実が広がっているということですね。

奮闘せずには生きられない?

奮闘せずに生きるのだ。そうすれば、自然があなたを乗っ取る。あなたの生は臨機応変になる。あなたは結論を持たずに生きる。各瞬間が独自の現実をもたらし、あなたはそれに応える。あなたは、自分の全一な存在から応える–。あなたの身体の全細胞とマインドと魂がそのなかに巻き込まれている。

by osho

↑それは素晴らしいだろうけれど、じゃあなぜ奮闘してしまうのだろうというところを見ることです。奮闘するにはそれなりの理由があってのことだから。

試しに、奮闘せずにいたら自分はどうなってしまうのだろうとイメージしてみることです。そのイメージが爽快なものなら、誰だって奮闘をやめられるはず。

実は奮闘する目的は、幼い頃の自分の惨めさから逃れようとすることなのです。その惨めさがあまりにも悲しく、孤独で、絶望的だからです。

こうして欲しいという親への期待に対して、現実はその真逆だったりすれば、その落差によって惨めになるのです。

あるいは、自分がこうしたいと願ったとしても、それが叶わなければ自分は無力だという思いがやってきて、それがまた惨めにするのです。

いずれにしても惨めな自分でいることは、到底耐えられるものではないので、できるだけ惨めさから離れようとして、「奮闘」することになるというわけです。

ところが、奮闘すればするほど、惨めだという思いを強固なものにしてしまうのです。本当は、惨めなのではなくて、惨めだという思いしかないというのに。

だからこそ、奮闘をせずに生きなさい、と言っているのですね。奮闘せずに、幼い頃の惨めだという思いから一歩も逃げずに、そんな自分を抱きしめてあげること。

そこから癒しが始まるのです。

記憶から離れれば個人はない

一切の記憶を使わないように注意していると、自分が誰なのかが分からなくなりますね。なぜなら、自分とは過去の集大成でしかないからです。

だから正確に言えば、記憶から離れれば、自分は「誰か」ではなくなるということです。誰でもないナニカとしか言いようがなくなるのです。

その時に残っているものは、あなたが全く同じようにして記憶を使わずにいる時に残っているものと、きっと違いはないのだろうと思うのです。

なぜなら、互いに違いを探し出すことができないからです。個別性が消えるとはそういうことなのです。

さらに言えば、そのときに全く判別することができないナニカが二つあるというよりも、それらは一つものだと考えることもできるのです。

その残ったナニカを、別のナニカと区別する境界のようなものも存在しないのですから。それを意識と呼ぶのですね。

それこそが私たちの本質、その一つもののことを全体性と呼んだりしているだけで、どう表現しようが同じことです。

今回は記憶という言葉を使ったのですが、それは思考と言っても同じなのです。思考こそが、「私」という個人をあらしめているのです。だから、個人は実在しないのです。

エゴは二元性の振り幅を増大させる

寒いのは好みではないのですが、この季節にもあっぱれなところはあるのです。それは、紅葉によって草木の彩りが素晴らしい艶やかさを見せてくれるから。

もっとも感じ方は人それぞれ。会社員だったころ、アメリカ出張中に毎日のようにフリーウェイの両側に広がる大規模な紅葉を眺めながら出勤していたことがあったのです。

ただ、そのことを会社の人たちに伝えても、ほとんど興味を持ってもらえませんでした。たまたま、仕事上気持ちに余裕がなかったからか、民族の違いなのか。

とにかく紅葉をどのように感じられるかは、人によって様々なのは確かなのです。それでも、そうした大自然の粋な計らいを感じ取れるのは人間の特権かもしれません。

けれどもひっくり返せば、ほかのどの動物たちも感じることのできない苦悩も私たちには与えられるのです。つまり、人間はそれだけ振り幅が大きいということ。

決まった発情期がなく、年がら年中セックスを楽しめるのも人間ですが、その一方では動物には決してない精神的な不快感があるのも人間だけ。

快楽を求めればその分だけ不快がくっついてくるということ。安全を求めれば、求めただけの不安も付いて回るということです。

これが二元性の原理なのです。エゴが活動すると、その振り幅はとても大きくなるのですが、それが悪いということではありません。

またエゴが小さくなればなるほど、振り幅は小さくなって行くのです。それを中道とブッダは呼んだのですが、そこにだけ至福が横たわっているのですね。

孤独という的外れな思考

多くの人々が愛の世界に執着しつづける。少数の人がそこから逃れ瞑想の世界に執着しつづける。禅は言う、もし瞑想の世界に執着したら、自分の孤独にしがみつきはじめたら、あなたは依然真実そのものからはるかにかけ離れていると。共にあることが虚偽だとしたら孤独が真実でありうるはずがないだろう。

by osho

共にあることも孤独であることも真実ではありません。なぜなら、そのどちらも個ありきだからです。個があれば、共にあることもできるし、孤独であることもできるのです。

その基本中の基本となる個というものが、思考からやってきた幻想でしかないのであれば、孤独も幻想に違いないと分かればいいのです。

そうはいっても、孤独感は実際にやってくるわけで、それをどうしたらいいのだろうかということですが、できる限りこれまで続けてきた孤独感を誤魔化すのだけはやめましょうということ。

物理学の世界では、もう随分前からこの宇宙のすべてが素粒子から成り立っているということを発見しています。

まだ全部の素粒子が発見されたとは言えないのですが、それでも私たちの身体であれ地球であれ、太陽であれ、なんであれ素粒子からできていることは疑いようのない事実です。

しかも、素粒子というのは永遠にとどまるような存在ではなく、常に現れたり消えたりを繰り返しているような、非常に曖昧な存在なのです。

つまり、素粒子からできている私たちの身体も、連続して存在しているようにみえて、本当は現れたり消えたりを繰り返しているのです。

試しに、スケールを素粒子レベルにまで落として、この世界を眺めてみれば、どこに個などがあるでしょうか?そんなものはどこにもないと分かります。

宇宙のどこにもどんな境界もないということに思いを馳せてみれば、孤独というものがどれほど的外れなものか分かりますね。

孤独の真の理由

もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう–。あなたの行動はすべてみな、ひとつの原因に帰着しうる。その原因とは、あなたが孤独を恐れているということだ。その他のことはすべて口実にすぎない。ほんとうの理由は、あなたが自分はひじょうに孤独だと気づいているということだ。

by osho

孤独を実感している人と、そうでない人がいるとしたら、それは単に孤独を上手に誤魔化せているかどうかにかかっているのです。

つまり、本質的には誰もが同じだけの孤独を抱えて生きているのです。ただそれを感じている度合いに違いがあるというだけなのです。

私たちは、周りに誰もいなければ孤独を感じるし、周囲にいる人と心が通じてなければ、やはり孤独を感じるのです。

それ以外にも孤独だと感じる理由は個別に探せばたくさんあるのですが、本当の理由はたった一つしかありません。

それは、「私」というエゴとして生きているからです。エゴとは、この身体の内側だけが自分であり、その外側はうかがい知ることができない世界だと感じているのです。

自分のことを本当に知っているのは、この自分だけ。外側の世界とは完全に分離しているという思い込み、これこそが真の孤独感の正体なのです。

だから、どんな人間であれ、そこにエゴがある限りは孤独なのです。その孤独をなるべく感じないようにと工夫するのが人生というわけです。

もしもあなたが今、耐え難い孤独を感じているとしたら、それは正当なものだし、当然のものだと見抜くことですね。

個人として成立させているのは希望

あなたをひとつにまとめているのものは何か?
それは生ではない。生は四方八方からあなたを強く打ってきた。生はあらゆる方向からあなたを打ちすえている。
それは希望だ。希望は緩衝器のような役目を果たす。生の衝撃は希望によって吸収され、人は生き、そして明日を待ちつづけている。

by osho

↑これ、なるほどという気づきを与えてくれる言葉ですね。私たちは、自分のことを一つのまとまった個体、個人として認識しています。

けれども、何かがあなたを一つにまとめている、そう言っているのです。その正体こそが希望だということですね。その希望を餌にして、エゴとして自分を一つにまとめ続けているのです。

たとえば、複数の人たちがいるとして、彼らに共通の敵が現れたら、一致団結してその敵と戦おうとしますね。

共通する目的、目標なりがあるとバラバラであったものが一つにまとまるという法則があるということです。

その共通する目標こそが希望という未来なのです。だからこそ、未来への期待がなくなってしまえば、エゴは自分を一つにまとめておくことができなくなってしまうでしょう。

そうなったら、個人は消滅してしまうということです。希望が小さくなっていくだけで、惨めさも少なくなっていくのです。

最後には、自分としての一括りの感覚がより小さくなって、個人としてのアイデンティティも失せて、全体と一体になるのですね。

イメージしただけで、とても穏やかで静かな至福を感じませんか?

意識とマインドは無関係

昨日のブログを読み返して見て、何だか分かりづらい表現になってしまったなと反省したので、少し補足というか言葉を変えて説明し直してみたいと思います。

表面意識と呼ばれる部分というのは、思考が認識され得るマインドの部分であり、もう一方の潜在意識と呼ばれる部分とは、思考が隠されて認識できないマインドの部分だということです。

つまり、どちらにしてもマインドというのは思考の集まりであり、それが見えている部分と隠されている部分とに分断されているということなのです。

なぜそのような構造になったのかというと、自覚はないままに都合の悪い思考やそれからやってくる感情などを抑圧したのです。

抑圧されたものがどんどん溜まっていって、知らず知らずのうちにまったく認識されないマインドの部分が9割もできてしまったのですね。

そして、要するにマインドに意識そのものを関連づけるからおかしなことになるのであって、そもそもが意識とマインド(思考群)とは全くの別物だということ。

このことさえきちんと押さえておけば、混乱せずに済むはずですね。意識は、マインドなど必要とはしません。なぜなら、意識こそが私たちの本質だからです。

実はマインドには実体がありません。思考が幾重にも絡み合って、互いにその存在感を醸し出しているに過ぎないのです。

マインドが幻想だと分かれば、残念ながら「私」というエゴも作り物だと気づかざるを得ないでしょうね。残るのは、純粋な意識だけということです。

表面意識の部分も意識的ではない

心理学では昔からマインドの1割が表面意識とか顕在意識と呼ばれる部分であり、残りの隠された9割の部分を潜在意識とか無意識と言うのですね。

このことはよく知られたことですが、誤解のないようにもう少し詳しく説明しようと思います。

まずネーミングについてですが、◯◯意識と言うからといって、それを意識だと思うのは間違いだということです。

表面意識の部分も潜在意識の部分も自覚されてなければ、意識的ではないということです。また潜在意識の中の部分に自覚を持つことは一般的にできません。

一方、表面意識の部分については、意識的であることは可能なのです。たとえば、あなたが街を歩いているとします。

そのことを意識しつつ歩いているのだとすれば、意識的な状態だと言えるのです。それなら、自分は歩いている時には常にその自覚があると思っていませんか?

実はそんなことはありません。今歩いているという自覚がありますか?と質問されれば、よほどのことがない限り、自覚があると答えることができるはずです。

けれども、この場合には自覚することを喚起されたのであって、そうでなければ歩いていることを自覚していない場合の方が多いのです。

つまり、表面意識というのは、本人が意識的である時のみ自覚を持っているのであって、意識的でなければ自覚せずに生活しているのです。

ここが今日一番言いたいことです。1割だけ意識的に生きているというわけではないということです。現実は、表面意識であれ潜在意識であれ、無意識的に生きているのです。

だからほとんどの場合には、眠りながら生活しているようなものだと osho に言われてしまうのです。

表面意識の部分だけでも意識的に生きる練習をすることで、少しずつ潜在意識の部分にも光が当たるようになるのですね。

思い込みであることを見抜く

大切な気づきの一つは、自分の中では事実だと認識していたことを、ただの思い込みに過ぎなかったと見抜くことです。

私たちが日頃事実だと認識していることのほとんどは、思い込みの産物でしかないという発見は、本当の意味で人生を変える力を持っているのです。

たとえば、大きなスケールで言えば、この世界、この宇宙は自分の認識とは関わりなく実在するという常識がありますが、実は量子力学がこの常識を破壊したのです。

私たちが観察することと、存在は一つものだということ。夜太陽は地球の裏側に隠れていて、夜が明けると太陽が現れるという常識は、間違っていたということ。

あなたが認識しなければ、太陽の存在は不定なのです。このことはあまりにも奇想天外なことなので、すぐに理解できなくても当然かもしれませんね。

逆に、もっと身近な例で言えば、幼い頃に蓄積してしまった自己イメージを誰もが持っているのですが、それを疑ってかからないということがあります。

イメージというからには、作り物でしかないはずなのに、きっと自分は価値のない存在なのだということを事実だと認識して変えることができないのです。

自己イメージはその内容のいかんにかかわらず、すべてが刷り込まれた情報でしかありません。事実でも真実でもなく、単なる洗脳のようなものなのです。

そのことを深く理解することで、防衛が減って生き方がよりシンプルなものへと変化していくのです。きっと気分が軽くなっていくはずですね。