マインドは大所帯

人生って複雑なものだなあと感じている人がいると思います。もっとシンプルなものにしたいけれど、難しいなと。

けれども、人生が複雑(に見える)なのはその人のマインドが複雑に機能しているからなのです。それが外側に投影されるのです。

何か大切な分岐点に来ていることは分かるのだけれど、いろいろなことが頭に浮かんできてしまって容易には決断できないことがあります。

あるいは、何かを始めようとしているのにどういうわけか尻込みしてしまうとか、好きな人と一緒にいたいのに、一緒にいると疲れてしまう等々。

こうしたことは、その人のマインドが一枚岩ではないことが原因なのです。一枚岩どころか、たくさんの人格の断片(副人格)が同時に働いているのです。

それらの力が互いに拮抗した状態であれば、先に進めることはできません。人生が立ち往生してしまうことにもなるのです。

生まれたばかりの頃は、マインドと呼べるものもなくとてもシンプルです。これが無邪気さですね。私がオリジナルと呼んでいるものです。

ところが次第にマインドが作られていき、その過程で自我も発生するのです。その頃になると、親にそっくりな親2世も作られます。

そうなると、オリジナルと自我と親2世の三つ巴状態になります。それだけでも大変なことですが、更に自我の防衛による多くの副人格が作られてしまうのです。

それが私たちのマインドの本当の姿です。あなたの人生がシンプルではないと感じるのなら、それが原因なのです。

そのことを深く理解することができれば、日々マインドを見つめることがどれほど大切なことなのかも理解できるはずですね。

自分のマインドに寄り添い、たくさんの副人格を全て受け止めてあげることです。その結果、マインドは必ず静かな状態へと変わってくれるはずです。

意識と思考を見極める

私たちは日々、何かを意図し、意志をもって決意、決定するといったことを繰り返しています。これらを「意識」の範疇だと思っている人が多いかもしれません。

けれども実際には、それらは思考によるものです。思考なしに意図することはできないし、思考なしに決意などできるものではありません。

逆に言えば、意識というのは自我の心理的な働きには直接関わってはいないのです。意識とはただ気づいていることを言うのですから。

意識と思考では天と地ほどの決定的な違いがあると言うことです。自我は意識も自分のものだと思い込んでいるのです。

自我は色々なことを勘違いしています。自我の成長を助けているものの一つに経験というのがあるのです。

自我は毎日の経験を自分の糧として自分を成長させているのですが、実は経験あるいは体験というのはただ起きるものなのです。

それを、自我が勝手に自分がそれを体験したというふうに横取りするのです。あらゆる体験を自分自身のものとして所有するのです。

そうやって自分を肥大化させていくわけです。ただし本当のことを言えば、自我は思考の塊であって、思考がアクセスする記憶(体験)ではないのです。

この程度のことは、あなたが記憶を使わない時間をたとえ1分でも持てば、すぐにでも分かることです。

その時に自分は何でもないものだということを、すぐに気づくことができます。思考が止まれば、そこには何も残らないのですから。

そこにはただ気づきとしての意識だけがあるのですね。

常識に飲み込まれるな

より自然に、より自由に生きようとしたときに、それを邪魔するものとして挙げられるものの一つとして、常識というのがあります。

常識的に考えたらそれはダメでしょう、と言っている声が聞こえるようになったら、その時はそれを越えるチャンスだと思ってください。

聞こえるということは、それとの一体化が薄れている状態だからです。例えば、これから寒い冬に向かうという時に、水のシャワーを浴びるのは非常識ですね。

実はこの夏頃から、朝起きてすぐに入る朝風呂で、真っ先に水のシャワーを浴びるというのを習慣にしているのです。

夏の間は良かったのですが、そろそろ朝夕の冷え込みがやってきた昨今、それでも朝の起き抜けの水シャワーはどうなんだ?という常識人の声が聞こえるのです。

こんな馬鹿なことをしていたら、いずれは風邪を引くことになるぞとか、こんな非常識なことをしていいことなんか何もないぞ、という声が聞こえるのです。

けれども、実際の体感としては別に寒いと感じることも身体に悪いと感じるようなこともなく、ちょっと気持ちいい程度のことなのです。

水シャワーの後はすぐに暖かい湯船に浸かるので、何も問題はないのです。こんなことを毎日の習慣にしていてはっきり気づくことがあるのです。

それは、常識という一見理性的な思考がもっともらしい説を唱えてくるのですが、本当はそれは誰かが言い出した意味のないことでしかないのです。

水シャワーに限らず、常識にそぐわないと思われるようなことを見つけて、実際に試してみることをお勧めします。

いかに普段から常識の枠に囚われて生きているか、ということに気づくはずだからですね。

優しさという形の自己防衛

本当の優しさとは、相手の立場に立てること。相手の気持ちをおもんばかることができること。

相手に憑依して、相手を思いやることができることです。このことに異論を唱える人はいないと思います。

けれども、だからと言って相手の気持ちを実際に優先するかどうかは全く別の話しだということを知らない人が多いのです。

相手の気持ちというのは、決して分かるものではありません。だからこそ寄り添って、分かろうと努めることには意味があるのです。

ただし、正確には分かりようがないということを前提として理解しておくことです。他人の気持ちが手に取るように分かるなどと言わないことです。

それはとても傲慢なことですから。分からないなりに少しでも近づこうとすることが大切なわけです。

それと同時に、相手を優先して自分を抑えるのは優しさではなく、防衛だということも理解しておかなければならないのです。

もしもあなたが自分の優しさの中に、自己犠牲が少しでも含まれると感じるのでしたら、それは防衛だということです。

防衛は長く続ければ、自己犠牲が蓄積していき、いずれは相手への怒りとなって表出することになるのです。

そこまできてようやく、あれは優しさではなかったと気づいたところでもう手遅れです。そうならないためにも、常に自己犠牲がないかどうかをチェックすることですね。 

エントロピーの話再び

ちょうど一ヶ月前に、このブログでエントロピー増大の法則について書きました。その法則には、自我が深く関わっているという内容です。

何とも分かりづらい内容だなと思いながらも、あの時にはこれ以上の説明は更に内容を複雑にしてしまうと思って、あのままアップしてしまったのです。

少し後悔が残っているので、今日もう少し分かりやすく書いてみようと思います。あの時のエントロピーの記事 http://healing-office-lucid.com/2022/09/26/自我とエントロピー/ とあわせて読んでみて下さい。

縦10マス、横10マスの計100個のマスがあって、一つのマス毎に白になったり黒になったりすると仮定します。

あらゆる白黒の組み合わせは、2の100乗通りあるわけです。つまりは、一つの組み合わせになる確率は、均等に2の100乗分の1です。

私たちは、100個のマス全てが白か黒になるパターンを特別視しますね。あらゆる組み合わせの中でも特別だと感じるからです。

あるいは、右半分が全部白で、左半分が全部黒など。このような特殊な組み合わせは秩序があると感じるわけです。

そして私たちが秩序を感じる組み合わせは、あらゆる組み合わせの中では非常に極端に数が少ないのです。

その一方で秩序を感じない組み合わせは膨大な数だけあるのですが、なぜか全部同じもののように見てしまうのです。

そうした自我の我儘な見方のせいで、この世は無秩序になりやすいということが法則のようになってしまったのです。

全く秩序を感じないとある一つの組み合わせも、全部が例えば白になる組み合わせも確率的には全く同じなのですが、そこを見ないのですね。

どちらも2の100乗回に一回はその組み合わせになるはずなのです。と、今回もこの説明は何だか惨敗の匂いがします。

お伝えしたかったのはもっとシンプルで、要するに自然界の法則と言ったってそれは自我がいるからこそのものだということですね。

天国も地獄も場所ではない

一般的な天国というもののイメージは、何の苦労も何の心配もなく、全ての欲望が満たされて困ったことが一つもない世界。

だからこそ、誰もがみな親切で、愛に溢れていて、争いごとが全くない場所だと考えられるのです。素晴らしいところだと。

けれどもよくよく考えてみると、それは場所ではなくて私たちの内面の状態のことを指していると思える言葉ばかりですね。

つまり天国というのはどこかにあるのではなくて、私たちの心の状態のことを言うということ。地獄もまた然り。

地獄もそういう辛く苦しい、暗黒の場所がある訳ではなく、私たちの心が絶望や憎しみなどで満たされている状態のことです。

そして、自我は地獄では問題なく生き続けることができるのです。なぜなら、地獄は闘う場所だからです。

一方天国では、自我は決して生き続けることができないのです。闘いがなく、欲望も消えて完全に満たされた状態では、自我は溶け去るしかないからです。

つまり私たちが死んで天国に行くというのは、あながち間違った表現ではないということですね。

自我が死んだら、即座に私たちの本質が顕れるのです。そこに分離などはなく全ては全体という一つに戻るのですから。

静かに満たされる

今日仕事を終えて、すっかり暗くなった街を歩いているときに、不意に自分が何歳なのかが全く分からないというのがやってきました。

よ〜く感じてみると、子供のようでもあり、大人のようでもあり、また老人のようでもあるのですが、本当はどれも当てはまらない感じもするのです。

鏡を見れば自分の姿をまるで他人のように見ることはできるのですが、街を歩いている時には顔がないのです。

自分の肉眼を通さずとも、周囲のものが全て見えるだけでなく、その全てが対象物ではなくなってしまうのです。

自分の顔、頭がない時には他もなくなって、自他が消えてしまいます。無理やり自己イメージを手繰り寄せれば、そこには何らかの人物像が浮かぶのです。

けれども、もうそれはそぐわない感じがするのです。これを書いている今この瞬間も、その感覚がありありとあるのです。

それはずっと在ってなくなったことはないのですが、それに気づかなくなっていただけだということもはっきりしています。

自分は誰でもないし、何でもないという、とても静かなこの感覚の中にいるだけで、どんな理由もなしに深く満たされた状態になるのも不思議です。

降参→自我消滅→愛

osho が云います。流れと闘う必要はないと。ただそれに従い、それと共に浮き漂えばいいと。川に身を任せてごらん。降参しなさい。愛とは降参することだと。

ぼんやりとこの言葉を聞いているだけでは、良さげな事に聞こえるだけで、なぜそうなのかを理解することはできません。

云っている内容は簡単ですが、それを実践するとなるととてつもなく難しいのです。それは自我が抵抗をするからですね。

流れと闘う必要がないと言われても、自我にとっては闘うことは生きるためには絶対的に必要なことだからです。

川に身を任せてしまったりしたら、自我は不安になって自分を保つことができなくなると思っているのです。

降参などとんでもない。負けを認めてしまったら、相手に搾取されるだけだと。なぜ愛は降参することだとまでいうのか?

自我という個人は本当の愛を知りようがないのです。本当の愛は、自分はいないということと同じことです。

自他が消えた時に初めて、愛の状態になるのです。降参して闘うことを放棄した時に初めて、自我が消えてその結果として愛がやってくるのですから。

あなたの生きる指標は?

私自身の人生の指標となるものは、より自然に、より自由に、より無邪気に、というものです。それ以外は潔く切り捨ててしまいました。

というのも、それ以外のものをどれほど体現できたところで、自我の一瞬の満足以外に価値のあるものがないと理解できたからです。

自我の一時的な満足ほど虚しいものはありません。頑張ることに価値を見出すだけならまだいいのですが、それがどれだけ我慢するかに変化してしまうのです。

そうなると、自分が我慢した分だけ他人にも同等の我慢を強いるようになるのです。それがマインドの仕組みです。

それは本当に優しくありません。人が芯から優しくあるためには、自然に生きること、自由に生きること、無邪気さを失わないことなのです。

義務感や罪悪感などから自分に我慢を強いることを自己防衛と呼んでいるのですが、それは人を優しさから遠ざけてしまうのです。

あなたが自然さを保って生きているなら、人が自然に生きるのを喜んで見ていられるのです。あなたが自由なら、人の自由を決して奪いたくなくなるのです。

そして無邪気に、無防備に生きることができる人は、その逆の生き方をしている人とは疎遠にならざるを得ないのです。

それがエネルギーの法則ですね。

知恵を使って生きる

もっともっとお金があれば、あれもこれも欲しいものを何でも手に入れることができ、きっと幸せになるに違いない。

このようなことは多くの人が一度は考えたことがあるはずですね。けれども、あなたがかなりの富豪であるなら、そんなことはないと小声で言うかもしれません。

幼い頃からオリンピック選手を目指して頑張ってきたとしたら、晴れの舞台で金メダルを獲れたらきっと幸せに違いない。

けれども、あなたが実際に金メダルを獲得したことがあるなら、やっぱりそんなことはないと囁くかもしれません。

私たちは他人からどう言われようが、自分が経験しないことは分からないものなのです。欲しいものが手に入った人だけが、それでは幸せになれなかったと気づくのです。

だから生きている限り、次々と欲しいものを変えて行き、これでもダメ?あれでもダメ?といつまでも繰り返すことになるのです。

ここで必要となるのが、イマジネーションの力と知恵ですね。それによって、ある程度の経験をもとに、それ以降は実際に経験せずとも見通すことができるはず。

一生をかけて欲しいものを次から次へと手に入れてきたはずなのに、何だろうこの虚しい感じは?とならないためにも、知恵を使うのです。

なるべく早くに、人生というのは所詮満足することができないものだと気づくこと。これこそが本当の知恵ですね。