体験することが目的

クライアントさんの中には、自分の人生の目的を知りたいという人が時々いらっしゃいます。確かにそれが明確になったなら、ワンランク人生がシンプルになる気がします。

究極的には、人生にはどんな目的もないということを承知の上で、自我のレベルに戻って人生に目的があるとしたら…、で考えるのは悪いことではないですね。

私の自我は、色々体験するために生まれてきたのだろうと考えているようなのです。つまり、体験を積むことが人生の目的だと。

そう考えてみると、うまいこと行くなあと思えるところも確かにあるのです。というのも、体験には自分にとって都合のいい体験も都合の悪い体験もあります。

けれども、体験することこそが目的だとなったら、いいも悪いも無くなってしまうのです。どれほど都合の悪い体験だったとしても、それを体験できたことを感謝する気持ちになれるのですから。

体験をしたい、せっかく生まれてきた大チャンスなのだから、貪欲にあらゆる体験をしてから死にたいというわけです。

そうなると、どんな体験がやってきたとしても、とにかく感謝がやってきてくれて、とてもいい気分になれるのです。

借金まみれになる体験、裏切られて生きていられないと感じる体験、誰よりも惨めだという体験、復讐心で潰れそうになる体験。

何であれ体験ができれば生まれてきた甲斐があったと思えると、少し気持ちが楽になれますね。これ、気に入ったら是非使ってみてください。

極端な考えは子供のもの

幼い頃というのは、誰でも白か黒か、百かゼロか、敵か味方か、善か悪かといった極端な見方をしているものです。

これにはちゃんとした理由があるのです。弱者であればあるほど、自分の身を守らねばと思う気持ちが強くなりますね。

だからこそ、あの人はいい人であの人は悪い人とはっきりと区別することで、安全を確保しようとするのです。

いい人か悪い人かどちらか分からなければ、それだけ危険だからです。私のマインドの中には、敵か味方かで他人を見る幼い奴がいます。

何かの拍子に彼が暴れ出すと、周りにいる人はみんな敵だと訴えてきます。地球上の全員亡き者にしてしまえ!と勇ましいのです。

きっと自分が惨めで情けなくて可哀想な奴だと思っているからこそ、敵だらけに見えてしまうのですね。

大人になって余裕ができてくると、善悪は混ざっているものだという理解をすることができるし、敵でも味方でもない人が沢山いると分かるのです。

ただ大人になっても、余裕がなくていっぱいいっぱいで生きている場合には、子供のような極端な考え方をしてしまう場合もあるのです。

もしも極端な考え方が出てきてしまったら、それはインナーチャイルドが暴れていると理解するといいと思いますね。

あなたの敵は何ですか?

みなさんは、110番通報したことがありますか?私は何度か経験があるのですが、電話が繋がるといきなり、「事件ですか、事故ですか」と聞かれるのです。

え、二択なの?と思って、事故ではないですが…、と曖昧な言い方をついしてしまうのです。事件というほどのことではないと思っていたので。

私はどうも国家権力を盾にしている警察が苦手で、自分一人で勝手に敵対視しているのです。そのせいか、交通違反で捕まる度にムカついてしまうのです。

もっと他にやることがあるだろうと警察官に訴えたこともあります。自分でも子供じみていることを承知でやっているので、後を引くことはありません。

ただ、自分の中では警察は安心できる敵という位置付けなのです。今のところ、警察に怖い思いをさせられたことはないので。

自我というのは、とにかく戦う相手が必要なのです。戦う対象ですから、つまりは敵ということになりますね。

それは人物でもいいし、環境でも何でもいいのです。そのことを理解して、あまり深刻にならないで済むような敵を一つ見繕っておくといいです。

その敵がいることで自我は満足できるし、だからと言って人生に悪影響を与えるようなレベルではないので。

あなたは何を敵として生活しているでしょう?笑ってすませるような戦いのレベルにして置けるといいですね。

期待しないを体得する

2001年の初頭からセラピストとして仕事をするようになって、すでに21年以上が経ちました。思えばあっという間でした。

その間に1万回以上のセッションを通して、さまざまなクライアントさんから莫大な量の気づきを与えてもらったのです。

どんな書物を読み漁っても、どれほどの賢者に教えを請うても、これほどの気づきを体得することはできなかったはずです。

なぜなら沢山のクライアントさんのマインドをリアルに見せてもらえたことで、間接的ではあるけれど貴重な擬似体験をさせてもらえたからです。

数ある気づきの中で一つ例を挙げるなら、自分や他人に対してできるだけ期待せずにいることの大切さを学んだのです。

セラピストとして当然のことですが、クライアントさんに対して様々な期待をしてしまうのですが、それが大きく変化したのです。

期待が愛ではないということにも気づいたし、期待は言葉を変えれば欲望でしかないことも理解できたのです。

そのおかげで自分への期待も激減してしまいました。その分だけ私の自我は縮小したのかもしれません。

そして最近では、さらに期待を小さくする生き方を学んでいます。それは認知症が重度になってきた母親との会話においてです。

夜間に特に支離滅裂になってしまう母親に対して、どこまで期待せずに対応し続けることができるのか?

分かって欲しいという願いが独りよがりの欲望でしかないということを、繰り返し思い知らされるので、貴重な学びの場だなと思うのです。

悔し涙の正体

昨日のブログでは、怒りという感情を味わう方法について述べてみたのですが、この怒りを別の言葉でも表現できますね。

例えば、イライラする、ムカつく、悔しい、腹が立つ等々。怒っているはずなのに、悔し泣きなんて言葉もあります。

つまりは、悔しくて仕方がない時に、どういうわけか涙が出てきてしまうという場合があるということです。

なぜ怒りが涙を伴うことがあるのか?一般的には悲しいという感情があれば自然と涙が出てくるのは周知の事実です。

実は怒りの下側には必ずといっていいほど悲しみが隠されているのです。その悲しみは惨めであるという思考から作られるのです。

全体のカラクリを説明すると、まず初めに惨めだという思いがやってきて、そこから悲しみという感情が作られます。

けれども、惨めさも悲しみもどちらも見たくないので、怒りという感情で蓋をするのです。だから、怒り→惨め→悲しみの順番で層を成しているのです。

ということで、怒りをしっかり味わうことができると、その下に隠されていた惨めさが露わになって、同時に悲しみも感じることになるのです。

それが悔し涙の正体だったのですね。

怒りの味わい方

怒りという感情をネガティブなものだと思い込んでいる人が多いのですが、そもそも感情にいいも悪いもありません。

怒りを否定的に捉えてしまうのは、攻撃的になって相手を傷つけてしまう可能性があると思うからですね。

確かにそうですし、自分自身が幼い頃から親や周囲の人から怒りをぶつけられて、辛い思いをした経験があれば、怒りを否定しても当然でしょう。

ただし、感情そのものを否定するのは間違いです。怒りという感情をしっかり自分自身の中で消化すればいいだけです。

それができないので、相手にその怒りを投げつけてしまうのです。これは依存心ですね。未熟なマインドのすることです。

投げた怒りのエネルギーは自分自身に戻ってきてしまい、全く消化されずに蓄積されるということも知っておく必要があります。

怒りをしっかり味わうためには、いくつかの方法があります。もちろん依存をやめて、自分一人で怒りと向き合うのが前提です。

その上で、一番効率が悪いのは声を荒げて怒りの対象に向かって言葉を発することです。イメージの中でやれば誰にも迷惑はかからないのですが、少し効率が悪いです。

それよりも効率が良いのは、言葉を一切使わずに大声を張り上げることです。言葉を使わないことで、思考から離れることができるので、中程度の効率です。

最も効率が良いのは、言葉を発せず、大声を出すこともせず、ただ唸ること。大声を出さないことで、外側へ向けて怒りを投げなくなるのです。

それによって、しっかりと怒りを自分の肉体を使って感じ切ることができるのです。どうせやるならできるだけ効率的にやりたいものです。

是非試してみてください。

存在に意識を向ける

部屋でじっくりと大好きな音楽を聞こうとしたら、その部屋が静かであるに越したことはありませんね。

誰も雑音だらけの場所で音楽を聴きたくないのです。雑音を遮断するために、イヤフォンやヘッドフォンを使うくらいですから。

それは当然、雑音が聴こうとする音楽の邪魔をするからです。環境が無音であればあるほど、音楽はそのまま耳に入ってきてくれるのです。

無音、つまり静寂というのが如何に大切なものかが分かりますね。音のベースは静寂だと言ってもいいくらいです。

私は個人的に、静寂を感じられる音楽が好きです。この音の背景には静寂が佇んでいると感じられると、何だか気持ちがいいのです。

それと似たようなことですが、自分は自分の人生物語を生き続けているのですが、その自分をどのように見ているのか?

自分は何かをする人、自分は何かを経験する人、自分は何かになる人、このようにだけ自分を見ているのではないでしょうか?

実はその背景にあるもの、それは自分とはただ在る人、つまりは自分は存在なのです。この存在が常にバックにあっての毎日の生活なのです。

それは音楽のバックにある静寂のようなものです。もしもあなたが自分の存在に意識を向けずに生きているなら、何と軽薄な毎日でしょう。

あなたの本質はただ存在するということです。あなたが誰かを愛するならその対象は存在なのです。受容する対象も存在です。

なぜなら、愛も受容も存在も全てが思考の外にあるものだからです。いつも自分の存在に意識を向けているように練習するといいと思いますね。

それができれば、人生物語を見ている側でいることが容易に感じられるはずです。存在を感じられるように訓練することです。

見守る側でい続ける

物事を複雑に捉えるよりも、できる限りシンプルに考えることが大好きなのです。今日はその精神で、人生をシンプルに表現したいと思います。

誰にとっても終わりが必ずやってくるたった一度きりの人生です。どのように生きていったら悔いが残らないのか?

何が正解でどうなったら失敗なのか?どう生きるべきか?このようなことを可能な限り単純に表現できたらいいですね。

で、結論が出たのですが、それは物語の中で生きる自分を見守る側でいるということに尽きると思うのです。

人生物語で何をしようが、何をしなかろうが、そんなことはどうでもよくて、そこにはどんなルールもなく、金メダルを獲ろうが、ホームレスであろうが構いません。

ただ一つ、それを見守る側でいるということ。つまりは、できる限り自己留意の状態で生きるということです。

最もシンプルですが、かなりの高難度であることは間違いありません。物語の中では全くの自由ということで救われますね。

一方見守る側でいる、つまりは意識的であり続けるというのはとても骨の折れることです。一瞬一瞬が途方もなく大事になってきます。

その結果は明確な違いとなって表れるはず。必ず死に際して、そして肉体と自我の死後に大きな違いとなってやってくるでしょうね。

存在を楽しむ

この二元性の世界では、快適さと不快さは一対としてやってきます。快適さを求めてしまう私たちとしては、不快さもくっついてくると言うことを受け入れたくないのです。

いつも外側に求めるのは、快適な居住空間、快適な人間関係、快適な仕事等々。それらに囲まれているときは幸せだと思うのです。

けれども、表しかないコインが存在できないのと同様に、快適さだけの人生もあり得ないのです。

表裏、あるいは快不快というペアでのみ存在するのが二元性の世界であることを知ることです。この世界はそのようにできているのですから。

ただしそこから逃れる方法もあることはあるのです。それは、外側の世界から内側の世界へと向きを変えること。

具体的に言えば、自分の単純な存在を楽しむ方法を体得することです。存在そのものにはどんな理由もなく、どんな価値判断も当てはまりません。

存在はペアとしての相棒を持っていません。静寂もそうですね。そう言うものは、非二元性だからです。

もしもあなたが静寂を楽しむことができるなら、自分の存在をも楽しむことができるはずなのです。

結果として二元性の中でしか生きられない自我からも離れていくことになるのでしょうね。

不安は未来のもの

過去や現在のことを考えた結果、不安になるということはあり得るでしょうか?あり得そうですが、実際にはそれは不可能です。

私たちが不安になったり心配してしまうのは、未来のことについて考えている時に限られるのです。

いや、そんなことはない。夜寝る前に宿題をやっていなかったことに気づいて、不安になるのは現在じゃないか、と思うかもしれません。

けれども、その不安はやはり宿題をやっていない状態の明日を無意識的に考えて、不安や心配になっているわけです。

だからもしもあなたが理由がはっきり分かっている不安や心配を抱えているとしたら、間違いなく未来に注意を向けた結果だということです。

老齢の母親が毎日お決まりのように不安や心配を訴えてくるのは、明日の朝食が食べられるのかどうかといったことばかりです。

当然朝食が出てこなかった試しはないのですから、未来の食事に関するありもしない妄想を作り上げて一人で心配しているのです。

不安や心配というのは100%未来のものなのです。もしも余計な心配をしたくないと本気で思うのであれば、思考を過去か今現在に貼り付けておくことです。

もちろん一番いいのは、思考を緩めてマインドを静かな状態にしておくことです。それが難しいのであれば、注意深く未来に思考が飛ばないようにしておくことですね。