生き方が相応の結果を招く

私のモットーである、「より自然に、より自由に、より意識的に」というのを、絶賛推奨し続けているのですが、決して押し付けるつもりはありません。

どんな生き方をしようと、それが間違っているとは思っていないし、それこそその人の自由に任せればいいのですから。

またそんなもの、初めから押し付けられるものでもありません。より正しく生きたいと願っている人がいてもいいのです。

誰よりも強くありたいと願うのもありですね。あるいは、弱音を吐かない、みっともない姿を見せない生き方等々。

何を優先して生きるかは人によって異なって当然です。ただし、その人の生き方や考え方がはっきりと結果として現れてくるのも事実です。

どんな結果がやってこようが、当然のこととしてそれを受け容れるべきなのですが、どうもそこが曖昧な気がします。

つまり、自分は自分の流儀があってその信念のもとに生きている、まではいいのですが、そこからやってくる結果は気に入らないのです。

あなたが何かと戦っているなら、必ずあなたの周りに敵がやってくるはずです。冷静でいようとして自由な感情表現を抑圧すれば、激しい感情を誘発される事象がやってくるのです。

自分が選択した生き方が、それ相応の結果を招くという事実をしっかり理解することです。この理解の深さによって、生き方は自ずと修正されていくでしょうね。

来世へのささやかな希望

今から30年ちょっと前の会社員だった頃、「イカすバンド天国」という深夜番組が流行っていたのをご存知でしょうか?普通は知らないですよね。

数多くの素人バンドが出てきて、それぞれに演奏を競う番組なのですが、その番組に出ることを目標に職場の仲間とバンドを組んでたことがありました。

自分の演奏の腕前は脇に置いて、当時フュージョン系のトップを走っていた「カシオペア」とか「プリズム」といったバンドの超難しい曲ばかりを練習していました。

それから時が経ち、あの「カシオペア」のメンバーだった3人が、キーボード、ベース、ドラムのトリオを結成したのを最近知ったのです。

彼らも全員が60代のおじさんになったのですが、今年リリースした新曲を聴いて久しぶりに心が躍るような感覚が蘇ってきました。

もうかれこれ100回以上はクルマの中とかスポーツクラブでウォーキングしながら聴いています。

そして聴くたびに、次生まれ変わったら是非ともカッコいい演奏ができるミュージシャンになろうと馬鹿なことを考えている毎日です。

そのくらいのノー天気な方がいいのです。闘う人生から足を洗ったという実感があるので。宜しかったらどうぞご視聴ください↓

うまく言葉にできない

これから書くことが何となく難解に感じてしまうこともあるかもしれませんが、本当はものすごくシンプルなことを言っているのです。

それはシンプル過ぎて言葉にできないくらいなのです。それを無理やり言葉にしようとするから、分かりにくいということになるのだと思います。

もうホントに単純に、自分はなんなのか?どこにいるのか?というこの基本的な質問にも答えがないのです。

もしも答えられるとしたら、それはあなたがこれまでに手にした情報を思い出しているだけなのです。

そういった情報は、誰かから与えられたものであって、自分が本当に知っていることではありません。

それは一種のラベル付なのです。ある物体にリンゴという名前をつけるのと同じで、私たちはリンゴの本質については知りません。

意識を自分自身に向けていればそのことは明白になるはずです。あまりにも明白過ぎて気づくことができないのです。

自我が大好きな五感を一切使わずに、ただ在ることに気づいていればいいだけ。そうすると、自ずと分かるのです。

自分には形も大きさも場所も何もないという、この感覚は普段忘れ気味ですが、マインドが静かなときに意識を内側へと向ければやってきてくれるのです。

この単純な感覚を見つけることです。それが何の役に立つのと疑問に思うかもしれませんが、これもうまく言葉にはできないですが、深い安心と信頼につながっているように感じます。

マインドとハート

マインドは生後親や社会などから作られていくものですが、ハートは生まれながらに備わっているものです。

マインドが人工的であれば、ハートは自然のもの。マインドが思考であるのに対して、ハートは無思考です。

マインドは考え、ハートは感じる。マインドは防衛し、ハートは無防備なのです。両者は、これだけの真逆の特性を持っています。

マインドが社会性であるのにハートは非社会性であり、マインドが攻撃性であるのに対してハートは受容性なのです。

マインドの中にもある種の受容性はあるように思えますが、それはホンモノではない感じがしますね。

マインドが受容するときは、形だけ、表面だけ受け入れるということのように思うのです。そこにはある種の取引のようなものが付随している可能性が大ですね。

マインドは計算的ですが、ハートは計算ができません。だから、マインドは打算的ですがハートは取引ができないのです。

このくらいマインドとハートをしっかりと比べてみれば分かるのですが、ハートを主体として生きていなければ人生が殺伐としたものになるのは当然です。

マインドよりもハート優位の人生にすることです。そして最も大切なことは受容するということ。あなたの受容性が花開くとき、全体性が降りてきてくれるのですね。

どんな信念もいらない

みなさんは信念という言葉を聞くと、どんなイメージが湧くでしょうか?一本筋が通った人は、強い信念を持っているように見受けられます。

あるいは、人としてこの社会の一員として生きるためには、信念を持っていた方が上手くいくかもしれませんね。

信念がない人は、他人に支配されてしまう感じもするし、風見鶏のような生き方しかできないように思えます。

私はそれを否定するつもりはないのですが、社会に適合することを優先する生き方が唯一の正解だとも思っていません。

私がいいなと思う生き方は、やはりより自然に、より自由に、より無邪気になのです。そうなると、信念を持って生きることとは隔たりがありそうですね。

というよりも、信念を持ってしまうと私の理想とは真反対の生き方になってしまいそうです。なぜなら、信念とはこの自然界には存在しないからです。

信念は固いものです。どんな逆境でも挫けない強さが必要です。その逆が水のようにどんな形の入れ物でも抵抗なく充すことができる柔軟さです。

そして最後に、どんな信念であろうとあなたを満たしてはくれません。逆に、信念という凝り固まった考えがあなたの人生をズタズタにする可能性もあるのです。

例えば、自分という存在は価値がないという信念です。この信念は本当にしつこくて、その馬鹿馬鹿しさに腹の底から気づかなければ、死ぬまでそれに支配された人生になるでしょう。

そんな信念など、今すぐにゴミ箱へ捨ててしまってください。そして、都合のいい信念を作るか、あるいは信念そのものから離れた軽やかな人生にしませんか?

人生は壮大な実験場

信じない心よりも信じる心の方が良いように感じてしまうのは、一体どんな理由からなのかと考えてみたのです。

あまり定かではないのですが、もしかしたら人は自分のことを信じてもらえないよりも信じてもらえる方が嬉しいので、そこからきているのかなと。

だから物事を信じる人は純粋で好感が持てるということになったのではないかと思っています。けれども、信じることは大変危険なことです。

人を信じたばっかりにその人に裏切られて、酷い目に遭わされたなんてこともあるからです。その最たるものが信仰です。

信仰心というのは、死の恐怖からやってくるのです。信者をたくさん抱えているあの聖人の言うことだから、信じていれば間違いない。

そうして、信仰は人を盲目にさせてしまう力を持っています。決して信者になってはいけません。対象となる人がどれほど素晴らしい人であろうと。

問題は対象となる人ではなく、信じてしまうことそのものにあるからです。信じるとは、自ら検証することを放棄してしまうことなのです。

信じてしまえば、その先にはどんな探求も必要なくなってしまうからです。それは信じないということと同値です。

どちらも自分の人生をかけて実験することを回避してしまうのです。人生は壮大な実験場であることを忘れないことですね。

無意識の方が楽しい

このブログでは、日頃からできるだけ意識的に生きることを推奨していますが、その理由はそれが究極的に自らを救う唯一の方法だからです。

ところで、意識的な状態のままで「できないこと」ってどんなことがあると思いますか?思いつくことを挙げてみます。

激怒すること、何かにのめり込むこと、夢中になって我を忘れること、過去の記憶に浸ること、未来を想像すること、考え事をすること、イメージの中に入ること等々。

何となく想像できるでしょうか?逆に言えば、上記のようなことを続けていると、必然的に無意識状態になってしまうということです。

一般的に、夢中になるということは肯定的に捉えられていますが、無意識状態になるという副作用もあるということです。

未来のことをあれこれ想像して夢見心地でいるのは楽しそうでいいのですが、残念ながら間違いなく無意識になってしまいます。

映画やドラマを観て、その物語に没入できればそれだけエンターテイメントとしては成功な訳ですが、それも無意識状態を作り出します。

つまり、無意識状態でなければ楽しめないこともたくさんあるということです。だからこそ、意識的であり続けることはとても難しいことなのです。

それでも繰り返しますが、意識的であることを通してしか、今この瞬間の至福を味わうことはできないのですね。 

無邪気で素直な自分

子供の頃、家族の中にいて自分も含めて家族の誰もが何だかずっと本音を出さずに生きているのではないかと感じていました。

本当はもっともっと人間らしく、喜怒哀楽を表現し合いながら生きていければいいのに、なぜそれができないのだろうと思っていました。

おそらくは、いつの間にか身につけてしまった恥ずかしさが邪魔をしているのだろうと考えていたと思うのです。

きっと小学生低学年くらいまでは、それができていたはずなのです。少なくとも自分だけはそうやって自由に生きていたのです。

それが次第に他の家族と同じように、恥ずかしさのために無邪気さが邪魔されるようになったのでしょうね。

オーバーに言えば、何だか仮面家族のような感じですね。そして少しずつその偽りの感覚が麻痺して感じなくなっていったのです。

年頃になって好きな人ができて、その人との間では元々の素直さを取り戻すこともできたのですが、結局はまた冷静な自分になってしまったと感じています。

そんなことをつらつら思い出して見たところ、人生の中で今が一番無邪気に素直に毎日を過ごしているのかもしれないと思えたのです。

それはきっとクライアントさんとの数多くのセッションを通して、ありのままの生を間近で見せてもらうことができたからだと思うのです。

だからクライアントさんにも、この仕事にも感謝ですね。

自分の本質を感じる

自分の中に来たり去ったりするものがあるとしたら、それが自分自身ではないというのは何となく理解できるはずです。

その代表的なものは、思考ですね。思考というのは、何かを考えているとき、イメージしているとき、思い出したり、予想したりするときにやってきます。

逆に深くリラックスしていたり、ぼんやりとしている時などは、思考は何処かへ行ってしまいます。感情も同じように常にあるわけではありません。

それなら「私」というのはどうでしょうか?思考や感情などと違い、常にあるように思えます。けれども、そうでもないのです。

何かに没頭していたり、何かに夢中になっている時などには私はいません。あるいは、思い切り笑い転げている時なども同じです。もちろんずっといなくなるわけではないですが。

そうなると、ずっと変わらずにあり続けるものとは一体何でしょうか?そんなものあるのだろうか?という疑問が出てくるかもしれません。

ヒントは音と静寂です。音はやって来たり去ったりするものですが、そのバックにある静寂は常にそこにありますね。

そして静寂がなければ、音が存在することもできなくなるのです。同じようにして、思考や感情や私のバックにあるものに気付けばいいのです。

それが意識ですね。一般的に言う意識というより、私たちが存在できるようにしてくれてる空間のようなイメージと言えばいいのでしょうか?

本当はイメージすることなどできないのですが、それをいつも何処かで感じていられるといいなと思うのです。

それこそが私たちの本質だと感じるからです。実際にそれをしっかり感じられるときは、何とも言えない満たされた感覚がやってきてくれますね。

思考を止めたくない理由

マインドというのは、いつも過去か未来のことを考えているものです。それはそういうものだから仕方がないとしてしまうのは、勿体ないことです。

なぜなら、過去か未来のことばかり考えて過ごす人生がどれほどバカバカしいものか。生きているとは言い難いからです。

実はマインドのそうした特性というのは、意外に簡単に説明がつくのです。もしもあなたが、今この瞬間にバシッと意識が固定されるなら、思考は停止するのです。

思考というのは、過去や未来をベースに活動しているものだからです。つまり、過去や未来のことばかり考えているのは、思考を止めたくないからなのです。

思考を止めたくない理由は、自分を無意識状態にしておきたいからです。意識的に思考の中にはまり込むことはできないのです。

無意識状態でいると色々な気づきのチャンスが失われて、簡単に言えば動物のような生き方になるわけです。

自我としては、自分は単なる思考の塊であって実在するものではないということがバレないようにしたいのです。

バレてしまったら、自我は崩壊せざるをないからです。無意識であれば、そうした気づきは絶対にやってくることはありません。

逆に言えば、もしもあなたが自分の本質に気づきたいのであれば、瞑想的に意識的に生きる時間をどうにかして増やすことですね。