存在としての単純な自分に気づく

この社会の通説として、人は誰かに必要とされて何ぼだ、というのがありますね。要するに、人に必要とされなければ価値がないと言っているのです。

確かに、例えば大人になって職場であなたは必要のない人間だと言われたら、誰だって相当な心の痛手を負うことになるでしょう。

だから人から必要だと認識されることは、心の平安のためにはとても重要なことだというのは理解できるのです。

けれども、それは社会というシステムの中でのことでしかありません。この社会は必要なものではありますが、本質的なものではないのです。

私たちは社会の中で生きるのですが、社会に迎合したり社会に染まるべきではないのです。さもなければ、あるがままのあなたが台無しにされてしまいます。

私たちは自分に対して、二つの見方を持っています。一つは存在としての単純な自分、もう一つは社会の中で機能する自分。

幼い頃に自分の存在に目が行かないままで大人になってしまうと、後者である社会の中で機能する自分の価値にしか目が行かなくなるのです。

社会の中で、人よりも抜きん出た成果を出すこと、人に嫌われないこと、要するに人に必要とされることこそが自分の価値だと勘違いしてしまうのです。

そうなると、最も邪魔なのは無邪気な自分になるのです。だから、無邪気さを地下室に閉じ込めて、一生陽の目を見られなくするのです。

こうなってしまったら最後、いずれこの人生は破綻してしまうでしょう。大切なことは、存在としての単純な自分に気づくことです。

人から必要とされるか必要とされないかは、存在とは全く縁のない話しであることを理解しなければなりません。

自分は人に必要とされるために生きているのではないという、腹の底からの深い理解が絶対的に必要なのですね。