毎瞬ごとに生まれ変わる

私たちが暮らしているこの世界は、時空の次元なのですが、自分の波動が上がり、それに伴って次元が上昇するなら、今の自分には想像できない世界が待っているに違いありません。

想像ができない理由は、我々の脳が3次元の機能しか果たせてないからです。山の麓にいて周囲を見ても、すぐ近くの景色しか見えません。

けれども、山の頂上に立って見渡せば、かなり広い範囲まで見ることができるのと同じことなのです。次元が上がるとは、視野が広がるということ。

ない知恵を絞ってイメージしてみると、時空の次元を超えた次元になると、きっと過去から未来へと無限に続く時間が今この瞬間に全部あると言った感じ。

例えば、昨日の自分を思い出している時に、過去はもう過ぎ去ってしまったと感じるのですが、実は今この瞬間に同時に存在しているのです。

未来についても全く同じことが言えるのです。そして、過去や未来についてだけではなく、今この瞬間というものも、少しずつ波動を変えてパラレルに無限に存在しているのです。

次元が上昇するまでいかないにしても、あなたの波動が上がったり下がったりした途端に、パラレルに存在する別のあなたの世界へとシフトしていくのです。

なぜそんなことが言えるのかというと、そのベースにある考え方として、量子力学で定義されている時間の最小値ごとに、私たちは常に新しい自分になっているのです。

私たちは、不連続な存在であるということです。朝目覚めて昨日までの自分がまた今日を生きるのだと都合よく考えているだけです。

だとすると、昨日までの自分だと思っていた他人の負の遺産を、わざわざ引き継いで生きていく必要などないのです。

過去と縁を切るかどうかは、あなたの決意次第でどうにでもなるというわけです。毎瞬ごとに生まれ変わっている自分を自覚して、新たな人生の船出をしていけるということですね。

以下も宜しければどうぞ!

私は「自我」ではない!

以前あるクライアントさんから、大澤さんのブログは「自我」と「意識」と「思考」の三つのキーワードがあれば大体書けちゃいますね、と言われたことがありました。

そう言われると、返す言葉が見つかりません。これらの単語は、私の頭の中の三種の神器?みたいなものでしょうか?

「自我というのは〜」みたいに使う場合はまだしも、単に、「私は〜」という代わりに「私という自我は〜」とか、「自我としての私は〜」という表現をすることが多いのです。

実は、単に「私は〜」という表現をすることに比べて、「自我」という単語を入れることには、ある明確なメリットがあるのです。

それは何だと思いますか?それは、自我と自分を同一化してしまっていることに気づく視点になるための作戦なのです。

あなたが「私は〜」と言うときには、必ず自我のことを指しているのです。そのことを、毎回気づいていただくためにも、わざわざ「自我」というキーワードを入れるのです。

そんなことを人知れず毎日のように繰り返していると、面白いもので、流石に自分の中に自我としての自分と、本質としての自分の二つの側面を同時に感じるようになるのです。

自我の部分が比較的穏やかで無防備な状態に近い時には、本質としての自分、つまりは純粋な意識の部分が明確になってきます。

逆に、気持ちが否定的な状態になったり焦っていたりすると、本質の自分は影に隠れ気味になって、自我が大手を振って表面化するのです。

大切なことは、そうしたどちらかというと自我が優勢な時でも、本質の自分を感じ続けていられることなのです。

それが、「信頼」をより深く育ててくれるのです。自我が信頼を感じるのか、それとも本質の自分と共にある信頼が、自我の側に滲み出てきてくれるのかは定かではありません。

何気ない毎日の生活の中でも、本当の自分は自我ではないということを忘れずにいられるようにできるといいですね。

P.S 以下の動画をアップしましたので、ご覧くださいね。

起きていることに意味はない

私たちの周りで起きていること、あるいは自分自身の身に起きること、そのどちらにしてもそれそのものにはどんな意味もないということ。

これ、実はとてつもなく大事なことなのです。起きていることは、ただ起きているだけであって、それに意味づけをしてしまうのは私たちの側なのです。

繰り返しますが、この世界、この宇宙に意味というものはないのです。意味というのは、意味づけをした本人の頭の中にこそあるのです。

ところが、普段の生活でそんなことは忘れてしまって、起きていることを体験した瞬間に、あらゆる判断、解釈をしてその結果を受け取ってしまうのです。

その判断の仕方は、各人がどんな信念やルールを持っているかによるのですが、その作業があまりにも瞬間芸に近いので、自分で気づくことができないのです。

例えば先日私が経験したことなのですが、自宅からクルマで出かけると必ず通らなければならない踏切があるのです。

それがたまに「開かずの踏切」状態になることがあって、狭いまっすぐな道路にクルマが数珠繋ぎになって、バックもできず、いつ解放されるとも知れずに、結構イライラさせられるのです。

その日も、ある場所に決まった時間に行かなければならなくて、踏切が開いていてくれればいいなと祈るような思いで向かったのですが、行ってみると案の定、久々の長蛇の列。

これまでの経験からすると、ここを抜け出すのに10分〜15分は優にかかってしまうなと。ああ、やってしまった!少し早めに出たのにこれじゃあ絶対に遅れてしまう。

こんな状況であっても、実はそれ自体にはどんな意味もないわけです。ただ自分の中では、運が悪いなあ、困ったことになったなあと考えているのです。

困った事態というのは、起きていることとは無関係に、私の心の中で発生した気持ちなのです。状況を判断して、裁いた結果ですね。

そこで、「起きていることに意味はない」を思い出して、意味づけしない状態でいる感覚を取り戻そうとしたのです。

つまり、イライラから中立の、ニュートラルの感覚へと気持ちを切り替えてみたのです。するとしばらくして、スルスルとクルマが動き出したのです。

見れば、大きなトラックが停車してただけで、そのクルマが脇道へ入ってしまったので、あっという間に踏切を抜け出すことができたのです。

私の勝手な想定ですが、もしも私が今まで通りの意味づけの中にハマったまま、イライラし続けていたなら、踏切渋滞はもっと長い間続いていたかもしれないなと。

「起きていることに意味はない」を思い出して、自分の内面を中立に戻し、波動を下げずにいれたおかげで、それに見合った現実がやってきたのだろうと。

何か不都合なことが起きたなと思ったら、このやり方いつでも使えるので是非試してみてください。初めは小さい出来事からでも構いません。

もしも結果が変わらないとしても、気持ちを中立の状態に戻せるだけでもいいですよね。とても生きることが楽になるはずですので。

あの無目的感をもう一度

少し前のブログで、瞑想することを覚醒するための手段にしてはならない、ということについて書きました。

ちょっと変わり者の自分は、とにかく覚醒したいという欲求が強くて、真っ先に考えつくことと言ったら熱心に毎日瞑想するということでした。

ところが、覚醒状態というのは100%無目的な状態になることだとすれば、覚醒することを目標として瞑想をする限り、100%絶対に覚醒することはないのは当然です。

それで今は、瞑想をするということ自体を目的にしたのです。つまりは、瞑想が大好きで気持ちよくなれるので、つい毎日やってしまうということです。

こうしたことは、瞑想とか覚醒とかに関わることだけに言えるのではありません。人生の全てのことについて、同じことが言えるのです。

今日はもう徹底的に浮世離れさせてもらいますが、今日この瞬間を生きているということが全てで、それ以外のどんな目的も持たないようにする、これしかありません。

目的と手段が離れてしまうことが欲望となるのです。そこに自我が入り込む隙間ができてくるのです。

今私はこれを書きたいから書いているのです。書くことが手段であると同時に、それ自体が目的になっています。

こうしたことを少しずつ毎日の中で増やしていくしかないのですね。そんなことをしていたら、生活が成り立たなくなってしまうと不安になるかもしれません。

そうしたら、そこであれを発動するのです。つまり、「信頼」です。存在に対する信頼です。そうすれば、人生を究極的には単なる戯れにすることもできるはずですね。

幼い頃に時間を忘れてみんなで遊んでいた時の、あの無目的感をまた思い出せばいいのです。手段は今ここにあるので、手段と目的が一つになれば、目的も今にあることになるのです。

そうなればもう未来は必要なくなるのです。何だか想像しただけで清々しい気持ちになることができますね。

新しい試み

昨日のブログでは、「自我病」についての続編を書いて見ました。不幸ではないけれど、マンネリな毎日になっている自分自身への戒めも込めて。

もう14年以上に渡って毎日コツコツとブログを書き溜めてきたのですが、何か違うことができないだろうかと考えたところ、自分の肉声を使って表現してはどうかと。

ちょうど打ってつけのネタである、「自我病」もあることだし。というわけで、Youtube に動画を投稿してみようかなと思い立ったのです。

フットワークが重い自分としては、割とすんなり決意して動画を撮ってみました。初めはどうなるものかと疑っていましたが、こういうのは誰が何と言おうがやったもん勝ち。

内側で使ったのは、「信頼」だけ。私の中での最近のテーマは「信頼」なのです。これが一つあるだけで、リラックスの度合いが違ってくるのです。

信頼があれば、ありのままの自分に近づくことも難しく感じなくなるのです。信頼が無防備さを作り、それが愛の感覚を育ててくれます。

「全てはうまくいっている」この感覚も信頼からやってくるはず。これについても、今度ブログに書くかあるいは動画にしてみようかなと思います。

今回、動画制作に使った機材は、何とiphone一つだけ。なので、音声があまり聞き取りやすくなかったり、色々不備は承知でとりあえずアップしてみました。

もしよろしかったら、見てみてくださいね。それと、撮影その他の全てを含めて、全面的に協力してくれた友人には、本当に感謝しかありません!

「自我病」について その2

前々回のブログでは、自我病について書きました。それは、特別大きな問題もないのだけれど、これと言ってやりたいこともないという状態で起きるのだと。

要するに、贅沢病とも言えるし、怠け病と言われても仕方のないものかもしれないということ。そして、その状態にはまると決してハッピーではないのです。

解決策として、何でもいいので自分が楽しくなるもの、心がワクワクできるようなものに意識を向けるようにすること。そして、それを行動に移すことができればなお良いという話しをしたのです。

私自身が、これといって不自由のない暮らしを淡々としているのに、何かしら毎日をそれほど楽しめてないなあという反省の元に、その状態に自我病という名前をつけたのです。

確かにこの記事に書いたことはそれで正解だと思うのですが、ただ正直にいえばちょっと引っかかるものがあるのです。

自我病の本当の問題ってそこじゃないんじゃないの?という声がします。楽しくワクワクすることで毎日を埋められてしまえばそれはそれでOKだと思います。

けれども、それでは自我病の本当の根っこにあるものに、光を当てていないような気がするのです。それは一体何なのでしょうか?

確か osho が言っていた言葉で、「人間は鈍感過ぎる」というのがありました。もちろん人間というのは私たち自我のことですね。

もしもこの鈍感さが取れたなら、生きているという一瞬一瞬の煌めきを感じざるを得ないということなのかもしれません。

何でもないもの、何でもないことに物凄く感動できるようになるということ。例えば、当たり前に呼吸ができる、ものが綺麗に見える、歩くときの足の裏の感触の心地よさ等々。

究極的な表現を使えば、この瞬間がただただ抱きしめたくなるくらいに愛おしく感じられる。そうなったら、自我病なんてもう存在できないはずなのです。

本当は内面が喜びに溢れるのに理由なんていらないのです。あえていえば、この地球にやって来れたことでもう完結しているのですから。

きっと多くのみなさんが、こういった感覚を体験したことがあるのではないかと思うのですが、それを毎日の生活の中に定着させることができたら素晴らしいですね。

自動鼻歌は放っておくことに

ちょうど3ヶ月ほど前に突然あることを決意したのですが、それは自分の頭の中にしつこくやってくる自動演奏、自動鼻歌を止めるということでした。

その前段に、勝手にやってくる自動思考を止めて、頭の中をシーンとした状態にしたいと思いついたことがあって、それがそもそもの始まりだったのです。

そしていきなり自動思考を相手にするのは、なかなか荷が重いと考えて、それなら自動演奏、自動鼻歌から始末してしまおうと思ったわけです。

今一度簡単に説明すると、自動演奏とか自動鼻歌というのは、全く自覚しないままに頭の中で何かの音楽の一部を演奏したり、あるいは鼻歌を歌うなどが起きること。

音楽なので、生活していて邪魔になるということはほぼないのですが、それでも無意識的にそれが年中やってくるのは、やはりまともではないのではと思ったのです。

そして、それに気がついたら意識して止める、またやってきたらまたすぐに止める、ということをこの3ヶ月間ずっとやり続けてきたのです。

ところが、その勢力は全く衰えることなく続いていて、どうしたものかなと考えていたのですが、ここにきてハタと気づいてしまったのです。

それは邪魔じゃないならいいじゃないかということ。つまり何かを問題視すること自体、自分の波動を下げてしまうことになるなと分かったのです。

実は最近、瞑想中にお気に入りの音楽を聴くようにしたら、無音の時よりも気分良くいい感じの静けさの中に入れることが分かったのです。

それまでは、瞑想に音楽は不要と思っていたのです。音楽を聴きながらの瞑想など、邪道だと勝手に決めつけていたふしがあったのです。

そのくだらない信念が取れたことで、瞑想時に音楽があってもいいし、それなら自動演奏、自動鼻歌があっても問題ないということになったわけです。

何であれ、わざわざ問題を作ることのバカバカしさに気づいたのも手伝って、今回自動演奏、自動鼻歌撲滅大作戦はめでたく終了することになったのです。

どうせチャレンジするなら、もっとやっていて楽しいことにエネルギーを使う方がどれだけ波動に有利なのか、今後は間違えないようにしたいなと思ったのです。

「自我病」について

「自我病」というのは、私が勝手に作った造語です。もちろん医学用語でないのは明らかですが、この言葉を聞いて皆さんならどんな症状をイメージするでしょうか?

私のイメージは、「なんか面白いことないかなあ」です。「なんか楽しいことないかなあ」あるいは、「なんか美味しいものない?」、「なんかつまらないなあ」等々。

要するに退屈しているわけですね。おそらく戦禍で喘いでいる大勢の人からしたら、呑気すぎて腹立たしいくらいでしょう。

生きるか死ぬかといった状況では、この自我病は決して発症することはないので、贅沢病と言われても仕方ないかもしれません。とはいえ、決してハッピーな感じもしないのです。

要するに、何か切羽詰まった問題を抱えているわけでもなく、かといって特にやりたいことがあるわけでもないので時間を持て余しているのです。

この自我病、私は結構心当たりがあるのです。それもとりわけ子供から大人になるくらいの頃です。社会人になってからは、やや追われる感じがあったので退屈するまで行かなかったのです。

この病気、単なる怠け病だと言って見逃してしまうと、厄介な事態になる可能性大なのです。というのも、自我はとにかく退屈を嫌うので自ら問題を作っては、それに対処するということを始めてしまうのです。

そうなると、問題→解決のループに陥ることになるのです。それでも無事解決するならまだしも、問題が山積み状態の人生になってしまうかもしれません。

そうならないためにも、自我病の症状の自覚があるならどんな些細なことでも構わないので、自分が楽しくウキウキできるようなことを実践することです。

もしももうすでに問題山積状態であれば、問題と向き合う代わりにそれを脇に置き、できるかぎり楽しくワクワクする方向へと少しずつ舵を切ることです。

自分という存在が、宇宙から愛されて常に見守られているということへの信頼を育てていくことが重要ですね。

波動が変わると視点が変化する

誰もが一度は行ったことのある映画館をイメージしてみてください。目の前には巨大なスクリーンがあって、あなたはその特等席に座ってスクリーンに映る映像を観ているのです。

スクリーンは巨大であっても、あなたの席からは一度にそのスクリーンの隅々までが楽に目に入るわけです。

一方もしもスクリーンにほとんどピッタリとくっついた状態で、映画を観るとしたらどうでしょうか?

スクリーンに映る映像のほんのごく一部しか目に入らないので、ほとんど何を観ているのかも分からなくなってしまうはずです。

この場合のあなたは、特等席に座っている時のあなたと視点が違うということです。当たり前ですが、視点によってこれだけの差が出るわけです。

さてここで、次元を変えるレベルの発想の転換をしてみて欲しいのですが、スクリーン全体を時空の広がりだと想像してみてください。

空間的には宇宙レベルの大きさであり、時間的には過去から未来へと無限に続く時間の広がりがあるとするのです。

なんなら時空をもっと限定しても構いません。空間的には地球サイズに、時間的には人間の一生分に相当する100年程度に。

そしてこの設定において、時空スクリーンに映し出されているのは、あなたの一生分の人生というわけです。

特等席に座っているのが、あなたのハイヤーセルフなのです。そして、自我としてのあなたはスクリーンに張り付いて生きているというわけです。

だから、実際のあなたが把握できるのは周囲の空間と現在だけなのですが、あなたのハイヤーセルフはあなたが一生を過ごす全ての時空間を瞬間的に見渡すことができるのです。

この差は決定的です。私たちには明日自分がどこにいて、どうなるのか本当のところ分からずに暮らしているのですから、不安になっても当然です。

ハイヤーセルフは、あなたの一生がどのように展開するのかが全部一度に見渡せているので、どんな不安もありません。

これが自我とハイヤーセルフの視点の違いなのです。視点の違いは次元の違いとも言えますし、波動の違いとも言えます。

このイメージがある程度明確になっていけば、ハイヤーセルフさんへの信頼がさらに育っていってくれるはずですね。

現在を犠牲にしない

私が理解して記憶している限りにおいてですが、子供から成長していく段階で教え込まれたこととは、「未来のために現在を犠牲にしなさい」ということです。

もちろん、犠牲という言葉が使われていたわけではないのですが、培ってきたことをシンプルに表現すると、結果的にそうなるということです。

とにかく今日という時間は、未来のためにあるという教えです。まだやってきてもいない、まだ見ぬ未来のために、最も大切な今を犠牲にするのです。

何というバカバカしい生き方を教わってしまったものでしょうか?最大に極端なことを言えば、幼稚園時代は小学校時代のため、小学校時代は中学時代のためと、それが延々と続くわけです。

そして、いつもいつも明日のために生きることになるのです。未来が目的であり、今日が手段に成り下がってしまっているのです。

未来のことは信頼することが一番です。どう信頼するのかというと、どう呼んでもいいのですが、自分の本質、あるいはハイヤーセルフ、ハイヤーマインドの存在を信頼するのです。

今ここにすでに用意してあるものだって、彼らによって手配されたもので溢れているのです。当然、未来も何ら違いはありません。

私たちがやることは、びっくりするくらいにシンプルなたったひとつのこと。自分が何を望んでいるのかを彼らに具体的に知らせて、あとは今を思い切り楽しむこと。

彼らの手配の邪魔を絶対しないことです。何が1番邪魔することになるかというと、今という瞬間を犠牲にして自分の波動を下げ続けてしまうことです。

小学生の時に、先生からこのように教えてもらっていれば、人生は全く異なる様相を呈していたことでしょうね。

とはいえ、今からでも少しも遅くはありません。考え方、生き方をガラッと変えて、信頼をベースに楽しむことを続けていくなら、素晴らしい人生がやってくるのですね。